第8話

 車が道の悪い場所を通ったのか大きく上下に揺れた。それで兄の哉が態勢を崩した。

「おっと」

 それを見て頼子が言った。

「哉兄さん、大丈夫」

 少し照れ笑いを浮かべながら「大丈夫だ」と言った。

「護さん、哉兄さんね、対馬沖で船が大きく揺れた時、甲板に出ていてもう少しで海に投げ出されるところだったのよ」

「そうだったのですか」

 護が哉を見た。

 後部座席に哉を挟むように三人が肩狭く座っていた。

 助手席には新島が座っていた。相変わらず帽子は目深く被っている。後部座席に会話にはまるで無関心のようで、彼はずっと大阪の街並みを眺めていた。

「だからしっかりとしてくれないと、今みたいなことでも舌を噛んで怪我をするのだからね」

 頼子がぷいと怒って外を見た。

「いやあのときはデッキに掃除用のクリームの塊が残っていて、それに気が付かなくて踏んでしまってそれで滑ったのだよ」

 それに哉が護を見ながら笑って答えた。

「だからしっかりしてってことよ。哉兄さん、しっかりしないと私達これから東京で暮らすのだから」

(東京へ行くのか)

 頼子の言葉に護は思った。

 兄からの手紙では内地に戻ってきた後のことは書かれていなかった。護も気にはなっていた。

 憲介に頼めばきっと一緒に芦屋の邸宅に住むことを許してくれる筈だった。

 静かに護は哉を見た。

(東京か・・)

 そして頼子も見た。

(頼子さんも一緒か)

 寂しい気持ちがあった。

 それにも増して心配事があった。

 前年から米軍による空襲が頻繁に発生している。祖開する人々も多い。首都の東京は日々空襲に襲われていた。

「兄さん」

「ん?」

 哉が護を見た。

「東京は空襲で酷いと聞いていますよ。それでも行くのですか?」それには哉は低い声でああと言った。そしてちらりと前に座る新島を見た。

 その様子を護が見ていた。

「どうしたのです兄さん。新島さんを見て」

「いや実はな護。僕達は東京へは行かない」

 それには頼子が驚いて言った。

「どういう事です哉兄さん?私達は東京へ行くのでは」

 哉が頼子の方を見た。あまりの驚きの様子に哉がまぁまぁと言った。

「当初は東京へ行く予定だったが事情が変わったのだ。新しい行き場所は新島さんが知っている」

「新島さんが?」護が言う。

「さっき僕は向こうで陸軍の仕事をしていると言っただろう?新島さんはその陸軍での僕の上司になる。実は神戸に到着した時新島さんが海軍室で電報を受け取ると、東京ではなく僕達は別の場所へ向かう指示が書かれていたようだ」

 護と頼子が黙ったままの新島の背中を見た。その背中は自分達を振り返らず、沈黙していた。

「それでどこへ?」

 護が言った。頼子もその返事を聞く為に哉に体を寄せた。

「護、それで相談があるのだ」

 哉が護の方を見た。

「申し訳ないのだが、頼子を暫くお前のもとで預かってくれないか。どうだろう、あの乾家の御当主に相談してくれないだろうか」

「哉兄さん・・」

 頼子の驚く声が続いた。

「それは・・」

 護は哉の以外な申し出に少し驚き隠せなかった。

 しかし、その一方で頼子と一緒に過ごせると言うことで何とも言えない自分の気持ちが沸き上がるのを感じた。

 数年ぶりに見た頼子は既に少女ではなく、美しい娘になっていた。

 二重瞼の下で輝く黒い瞳に真っ直ぐに伸びた鼻梁と白く透き通るような肌に浮かび上がる薄い桃色の唇。

 本心を言えば先程頼子を見た時から既に護は恋に落ちていた。

 研究所で描く度、戦時とはいえルノワール等の印象派が描く外国の娘の美しさとはどのようなものかと思っていた。

 それが頼子を見た時、護は思った。

(外国の画家たちが云う『ミューズ』とはきっと僕にとって彼女の事だ)

 そう思ったが東京へ行くと聞いて離れ離れになることに身を引き裂かれるような寂しさを強く感じた。

 それを知っているかのように兄が妹の頼子を「ここに残らせてくれないか」と言っている。

 護は浮き上がる気持ちと同時にそんな兄を心配した。

「それは乾のお父さんに言えば何も言うことは無いです。しかし兄さん僕達と一緒に暮らしてはくれないのですか?満州からせっかく戻ってこられたのに。兄弟仲良く暮らせたら」

 頼子が頷く。

「いや、護。お前の言う通りだ。しかし僕は或る任務を受けていてね・・」

 兄の声が重くなって護は最後が聞き取れなかった。

「任務ですって?それは何です?」

「森君、その辺でいいだろう」

 新島の鋼のような声がした。

 全員が新島の方を向いた。

「それ以上、君が語る必要は無い」

 揺れる車に中でゆっくりと新島が振り返り護の方を見た。

 護は帽子の影から自分を見る新島の瞳を見た。

 それはどこか冬に吹く風が肌を叩きつける冷たさを感じた。

「それより、護君と言ったかな。先程ほら車の後ろに積んだあの青と黄色の包み、あれは何だい?」

 護は後ろを振り返り後ろで揺れている青色と黄色の包みを見た。

 包みの下は頑丈に木枠で囲まれていた。

 ガタゴト揺れる長方形の包みから視線を新島に戻した。

 しかし視線を戻しても護は何も言わなかった。

 護はこの新島と言う人物の中に何か得体のしれない部分を感じていた。

 どこか冷徹で平気で人を燃え盛る炎の中に放り込むような、そんな感じを初めて会った時から感じていた。

(言うべきか・・)

 聞かれた返事に答えればその先に広がる深い暗闇に自分が吸い込まれてしまう、そんな恐ろしさを感じた。

 車に積み込む時、鍋井は護には何も言わなかったが一枚の絵が何かは分かっていた。

(そう、これはあの絵だ)

 しかしもう一つは知らない。

 唐突に新島は言った。

「ゴッホだな。そう、山本顧弥太氏所蔵の向日葵だろう」

 目を大きくして護はビクリとした。

 心臓に氷のつららが突き刺さった感じがした。

 そんな護を見て、唇の端に薄く笑みを浮かべながら新島が言った。

「父がね、1924年ごろ東京の星製薬で見たらしい。とても素晴らしい絵だったと僕に言っていた。その後、大阪の信濃橋洋画研究所で展覧会があったようだ。中之島洋画研究所は信濃橋洋画研究所の流れを汲んでいる。ここは今表立って研究所とは言っていないがゴッホの絵があってもおかしくない」

 新島の意外な見識に護は驚きを隠せなかった。まさしくその通りだったからだ。

「残念ながら僕はまだ一度もお目にかかれたことは無いのだけど、是非この機会に見たいものだと思ったよ」

 そう言うとゆっくりと姿勢をもとに戻して新島は再び街の外の風景を眺めた。

 そして言った。

「なぁ森君、後で弟君に頼んでくれないか?明日をも知れぬ軍人の願いだ。是非、その向日葵を一目見せてくれないかとね」

「森さん・・それは」

 声を詰まらせながら哉が言う。

「芸術は人類の宝だよ。今は戦争なんてつまらないことをしているが、僕はそう思っている。例えそれが敵国の物だとしてもね」

 新島はそう言うと帽子を深く被って、何事も無かったかのように車窓の外を見た。

「それに今晩は芦屋の乾家にお邪魔するのだから、その時にでもね」

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