第7話

「鍋井さん」

 憲介が鍋井に言った。

「どうされました、乾さん」

 憲介が後ろを振り返り後についてくる車を見ていた。

「いえね、先程紹介を受けたあの新島君と言う青年、彼、明治華族の出だと私達に言ったでしょう。しかし僕もそうした方面の方達とも付き合いがありますが、聞いたことが無い苗字なのですよね」

 ははと鍋井が笑った。

「今は昭和だ。まぁ明治維新、日露戦争と続いて新国家設立からもうすでに多くの時間が流れていますよ。明治華族とはいえ何人もいらっしゃるのだから、乾さんがご存じないのも無理はないでしょう」

 鍋井が目を細めて外を見た。雨上がりの空に虹が見えた。

「おや、乾さん。虹が出ていますよ。ほら」

 憲介はその声に鍋井の指さす方を見た。

「ああ、本当だ」

 憲介も目を細めて外に輝く虹を見た。

「そうそう乾さん、それよりも後ろの車に積んだ絵をすいませんが芦屋の山本さんのところに届けていただけますか?」

「先程後ろの車に積んだあの二枚の色のついた包みですか?」

「実は僕、急に画家仲間の黒田君やサクラクレパスの方と夜に会合があることを思い出しましてね。それをすっかり忘れていました。今回は心斎橋の丹平ハウスにある赤松洋画研究所からも吉原君も来られるようで賑やかになるでしょう」

「いやそれは構いませんよ、それで黄色と青色の包みでしたがどちらですか?」

 憲介は後ろを見た。後ろの車の後部座席で揺れている包みが見えた。

「黄色の方です。そちらを山本さんのところにお願いします」

「ええ、どうせ同じ芦屋で帰り道ですから。ちなみにもう一つの青い包みは?」

「あの青い包みは護君の為の絵です」

「護君のですか?」

 そう言った時車が上下に揺れた。それで思わず鍋井は前のめりに倒れそうになった。

「大丈夫ですか?」

 憲介が鍋井を見て慌てて言った。

「いや、大丈夫です。全く・・道が荒れて困りますわ。国も戦費にばかり金を使わずにもう少し我々の生活をしっかりみてくれないと」

「全くですね」

 そう言って鍋井は乱れた髪を整えた。

「青い包みは先程研究所で僕が護君に言っていたアレです」

「アレ?ですか」

「そう、黄色の方は今日まで山本さんからお借りする約束でしたからお返ししないといけなくて。それでその代り同じものを護君にお渡しします」

 要領を得ない顔つきのまま憲介は顎髭を撫でた。

「まぁ良くわかりませんが、とにかく護君に必要な絵だと言うことですね」

 ふふと鍋井は笑った。

「その青い包みには黄色の包みと同じ絵が描かれているのですよ。憲介さんこれは秘密にしてください」

 そう言って肩を寄せて小声で言った。

「その絵は僕の亡くなった知り合いの画家がその黄色の包みの絵を山本さんの許可を頂いて描いた模写なのです」

 ほうと憲介は低い声になった。

「その絵は原画をもとに描かれた素晴らしい模写です。恐らく見れば本物と思うでしょう。そしてその原画は今日までお借りする約束でしたから山本さんのところにお返しをしなくてはいけない。そうなると護君が描くはずの絵が研究所から無くなりますからね、護君も夏休みに描く予定でしたから困るでしょう」

「鍋井さんまぁ分かりました。護君には青い包みは研究所の絵、つまり原画をお借りしたと言っておきますよ」

 その答えに少し考えたように「いや・・」と鍋井が言った。

「やはり護君には或る画家が描いた模写やといって下さい。模写と言ってもそれが原画と見劣りするとは思って欲しくないですし、それに才能があれば原画を超える素晴らしい作品になるということを知ってもらって護君の今後の励みにして欲しいですからね」

「そうですか」

 憲介の言葉に鍋井が頷く。

 その時車が少し大きな橋を渡り、二人の前方に心斎橋界隈の街並みが見えた。

「心斎橋ですね」鍋井が街を見ながら言った。

「ここら辺に良い店があるらしいですよ」

 後ろを振り返りながら憲介が言った。

「ちゃんとついて来ていますか?」

 鍋井の問いかけにええと憲介が答えて、鍋井を振り返りさりげなく言った。

「それで鍋井さん、その原画と言うのは誰が描いたのですか」

 少し返事をためらうのが鍋井の表情が見て取れた。

 すると鍋井が先程より肩を一層寄せて耳元に口を寄せた。

 そして静かにゆっくりと小さな声で言った。

「ゴッホです。ゴッホの向日葵です」

 小さな声だったが憲介の耳にもはっきりと聞こえた。

「まぁ乾さんなら秘密は守っていただけるでしょうし、それにこれからお昼を御馳走していただけるのですから。せめてもの食事代の代わりにお答えします。そしてそのゴッホの向日葵の絵を描いた画家は・・・」

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