第5話
護達がロビーに足を入れると丁度三人が入ってくるところだった。
護は先頭を歩く背の低い帽子を被った男に声をかけた。
「兄さん、哉兄さん」
その声に背の低い男は帽子を取ると護を見ると破顔して声を出した。陽に焼けた頬に白い歯が見えた。
「護!元気にしていたか」
哉と言われた男は急ぎ足で歩み寄ると護の両肩をしっかりと掴み、やがて互いに抱き合った。
「前に会った時はお前達が満州から引き上げる前でまだ小さかった。ちゃんと覚えていてくれたかい?」
護は少し涙ぐみながらええと低い声で言った。
「いつも兄さんの写真を見ていましたから忘れることはありませんでした」
そう言うと胸のポケットから四つに折れた写真を取り出した。
若い夫婦が二組、そして男の子が二人に女の子が一人映っていた。
その写真を哉は丁寧に受け取ると眺めながら言った。
「養父母は流行り風邪の為、満州で亡くなってしまった。だから思い切って妹の頼子と一緒に内地へ引き上げることにしたのだ」
そう言うと護は頷いた。そして数歩下がったところにいる娘を見た。
娘を見る護の視線を追うように哉が言った。
「護、この写真は養父が満州で診療所を出していたときのものだからお前が覚えているかどうかわからないけど、ほら彼女が妹の頼子だ、わかるかい?」
娘が数歩歩いて護の前に立った。髪を後ろに束ねて白い頬に桜のような薄い桃色が見えた。
護が遠目で見た大きな二重の黒い瞳が微笑している。
「兄さん、勿論覚えていますよ。頼子さんの事は」
そう言って護は娘の前に立って手を出した。
「頼子さん、お久しぶりです。護です。お元気そうで何よりです」
頼子は護の声で少し頬が緩んで静かに言った。
「護さんですね。こんなに立派な青年になられて。私の方こそ、連絡もせず長い間ご無沙汰をしていました」
そう言って頭を下げた。
「頼子さん、とんでもない。こんな時代ですから仕方ありません。それに僕の方こそ満州から引き上げて直ぐに両親が事故で無くなりましたから」
そう言って哉の方を見た。
哉は黙って頷くと護の後ろを見た。数歩離れて護達の様子を見ている二人の男の姿が見えた。
「護、あちらにいらっしゃる方が乾家の御当主かい?」
鍋井がその声で憲介の方を見た。
その言葉で憲介が護と哉の前に出て、哉に向かって頭を下げた。
「森哉さんですね?私は乾憲介です。神戸で乾海運という船会社をしているものです」
そこで一度言葉を切った。そして小さく咳をした。
哉の瞳がじっと憲介を見ていた。
「哉さん、既に護君からお聞きになられているかと思いますが、我社の船が大阪湾を航行中にあなた達のご両親を乗せた漁船と衝突をしてしまいました。これは言い訳に聞こえるかもしれませんが・・その日・・折り悪く海上は春の嵐のような天候に見舞われておりました。我社の船員も全力を出して救助すべく努力をしたのですが・・海に投げ出された方々の救助が難航しました」
哉は少し視線を床に落とした。頼子がその姿を見て気遣うように兄の背に手を当てた。
哉は無言で下を向いたまま頷いた。
憲介は目を押さえると少し赤くなった目で話を続けた。
「それで多くの漁師の方が無くなられ・・・そして海に投げ出された方たちの中にあなた達のご両親がいらっしゃいました。私は会社の代表として亡くなられたご遺族の方たちにできるだけの手厚い配慮を差し上げようとその時決めて、社を上げて誠意をもって対応いたしました。そしてご遺族の方を調べて行くうちに幼い護君がいることを知りました」
憲介は深く息を吐いた。そこに居る誰もが苦しい胸の内を話しているのだと思った。
「我が家にも一人息子が居ましたが妻と相談して護君を引き取り、せめて護君の将来がはっきりとするまでは無くなったご両親の代わりに守り育ててやりたいと思い、今日に至っています」
そう言うと憲介はすっと床に膝と手を着き哉に向かって大きな声で「申し訳ありませんでした」と言った。
その声と憲介の態度にロビーにいた人達が振り返って憲介の姿を見た。
目を上げた哉が驚いて憲介の背を押さえて立つように促した。
促されて立ち上がる憲介の頬からは大粒の涙が流れていた。
「どうぞ、あまりご自分をお責めにならないでください。ええ、そのことは弟から聞いています。私は生まれて早くに満州で森洋三と言う医者をしている父の幼馴染の家に養子に出たのです。私は満州で暮らしていましたのでその事を知ったのは大分たってからでした」
哉は護を見た。護が頷いてそっと手で憲介の背を摩った。両手で涙を拭いながら憲介は二人の兄弟を見た。
「そうでしたか、いや本当にこちらの調べ不足でした。護君にお兄さんが居たことはほんのつい先日まで知らなかったのです。護君が満州へ手紙を出されていたのは知っていたのですが、それがお兄さん宛だとは・・ご苗字が違っていましたから・・」
涙声で憲介が言った。
その声に哉は優しく「すいませんでした」と言うと穏やかに憲介に話し出した。
「弟からの手紙では乾さんからのご厚意も厚く今ではこうした大阪の素晴らしい画家先生のいる研究所で好きな絵を学ばせていただいていると書いてありました。私は乾さんに感謝しているのです。こんな見ず知らずの弟をこうした立派な青年にしていただいたのですから。きっと両親もそう思って喜んでいることでしょう」
「ありがとう、いやそう言っていただけると私は・・お二人に言葉がない。本当にありがとう」
憲介は哉の手をしっかりと握ると手に額を寄せるように頭を下げた。
「乾さん」
様子を見ていた鍋井が憲介に声をかけた。
「護君のお兄さんはお手紙通りなら今日神戸に入って来た汽船ではるばる満州からお戻りになられたのでしょう。それに正午過ぎやから丁度お腹もすかれているやろうし・・ほら、後ろのお連れさんと一緒にどこか食事でも行きましょう」
鍋井がロビーで一人壁にもたれて立っている青年を見て言った。
青年は帽子を目深く被りシャツの胸元を開けていた。青年は立ちながら本を開いていた。
憲介も青年の方を見て「そうですね」と言った。
「鍋井さんの言う通りです。皆さん長旅で疲れているし、お腹もすかれているでしょうからどこかで食事でもしましよう」
憲介はそれで「どこかこの辺に適当なところが無いか運転手に聞いてきます」と言って足早にロビーを出て通りに出た。
護が哉に聞いた。
「兄さん、あの方は?」
哉が青年に視線を向けた。
「護、僕は満州で陸軍の仕事をしている」
その声はどこか重たかった。
「その時ハルビンの研究所で知り合った友人が彼さ」
「陸軍の仕事を?」
哉が頷いて言った。
「ああ、養父が医者だったろう。僕もだから家業を継ぐために猛勉強して満州の医科大学に進んだのだけど陸軍の目に留まり直ぐに別の研究所に勤めることになったのさ。そう・・このことは手紙には書いていなかったね」
「そうでしたか、知らなかった。では兄さんは軍人ですか」
それには少し首をかしげて護は頼子を見た。頼子は何とも言えない表情をしていた。
するとロビーに憲介が現れた。手を振って皆を呼んでいた。
その姿を見て哉が壁にもたれていた青年を呼びに言った。そして一言二言手短くしゃべると青年が本閉じて荷物を担ぐのを護は見た。
「どうやら見つけたみたいやね?」
鍋井がにこりと笑って皆の方を振り返った。振り返りそして頼子の方をじっと見た。
その様子を見て護が言った。
「鍋井先生?どうされました」
七三に分けた髪を触りながらにこりと笑って護に言った。
「昔ね、東京で画家の中村彝さんの油絵を見たことがあるのだけど・・彼が描いている相馬俊子さんにあなたは雰囲気が似ているのですよ」
「相馬俊子さん?」
頼子が鍋井に言った。
「ええ、まぁそのことはゆっくり食事しながら話をしましょう。僕はもうお腹がへって動けなくなりそうなかんじですから、早く食事がしたいですよ」
そう言って笑いながら憲介のもとへ歩き出した。
皆もにこやかに笑いながら歩き出した。
戻って来た哉に護は聞いた。
「兄さん、陸軍の何処にいるのです?」
哉は少し間を取って「関東軍防疫部というところさ」と小声で言った。
良く知らないなと言う表情で護は続けて言った。
「ではあの方は?」
その声に後ろから急に二人の間を割る様に低い声が聞こえた。
「弟君、私は新島新平。明治華族の出だ」
護はその声に驚いて振り返った。
新島と言った男は目深く被った帽子の下で護に向かって静かに微笑した。
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