第4話

 八月の夏の雨が降り始めたのが窓を叩く雨音で分かった。

 少し少年の面影を残した青年は大阪の朝日ビルの一室から大阪湾へと流れる小さな中之島の川にかかる石造りの橋を見た。眼下に中之島を行く人達が急いで傘を開く姿が見えると油絵の具の筆をそっとイーゼルの側に置いた。

 青年は部屋に掛けられた時計を見た。丁度正午を過ぎたばかりだった。

(もうそろそろ兄が来る頃だ)

 そう思いながら立ち上がって窓の方に近寄ると目を細めて橋を渡る人達の中に兄の姿を見つけようと目を細めた。

 その時、部屋のドアが開いた。

 青年はドアの方を振り返った。

 ドアを開けて和服姿の年配の人物と洋服を着た中年の男が部屋に入って来た。

 青年は部屋に入って来た二人を見ると再び窓の外を見た。

 街行く人が傘を広げて急に降り出した雨を避けるように建物の中へ入っていくのが見える。

(これだと兄もどこかで雨宿りをしているかもしれないな)

 そう思っていると二人の男は青年が先程まで絵を描いていた席に来て絵を見た。

 そして洋服を着た男が背を曲げて絵を覗き込んだ。

 綺麗に七三に分けた髪の下で深い瞳がじっと絵を見ている。

 暫くその瞳は動くことは無かった。

 イーゼルが二つ並び青年は真新しいキャンバスに絵の模写をしていた。

 男が顎を摩りながら目を細めて青年に言った。

「土岐君、大分上手になったね。この絵なんか殆ど亡くなった小出先生の絵と寸分変わらへんよ」

 男は青年に言うと横に並んだ年配の男の方を見て微笑んだ。

「鍋井さん、護君の絵はそれほどですか?」

 和服の男は口髭を触りながら隣の男に聞いた。

「ええ、もう申し分ないほどの腕前ですね。ほら、今護君が描いている絵は小出先生の絵なのですが誰が見ても護君のこの絵を見たら小出先生の絵やと思うでしょうね」

 ほう、と和服の男が言った。

「もし小出先生が生きていらっしゃったら土岐君のことを殊の外気に入ってくれたでしょうね」

 洋服の男の言葉に青年は振り返り笑った。

 照れたように笑った青年の名前は土岐護と言った。

 そしてぺこりと頭を下げた。

 この中之島洋画研究所には養父の勧めで数年前から通っている。

 いや正確にはこの洋画研究所は去年閉められた。今はその場所で密かに数名の有志が研究室と称して続けているだけだった。

 和服を着た人物が養父の乾憲介だった。養父は神戸を本拠地とした乾海運の社長だ。

 養父だから血のつながった親子ではない。

 土岐護の両親は尼崎の漁師だった。朝早く沖に出ては魚を網で取り、それを朝の市場にいつも卸していた。

 春の雨が降る日だった。その日は朝から雨が降っていた。

 瀬戸内は霧が出て薄暗く陽の光はまだ差し込んでは来ていなかった。

 その日の未明、軍事物資を積んだ乾海運の大型船が瀬戸内の暗い中を静かに進んでいた。

 突然激しく振り出した雨の中で航海士は目の前に浮かぶ小さな暗い塊を雨の中で見つけるのが遅れた。

 ドンと言う低い衝突音が船内に響いた。

 驚いた船員が船室から甲板に出てきて音の鳴ったところに駆け寄り海を覗いた。

 海の中で何かが大きく割れていくのが分かった。

「これは!」

 その声に多くの船員が集まって来た。

「おいどうした?」

 近寄ってきた船員達が海を指さす船員の顔を見て暗い海へ向かってライトを当てた 。

 ライトの先に漁船から投げ出された漁師達の姿が見えた。

「船だ!小さな漁船が衝突して人が海に投げ出されているぞ!!」

 乾海運の大型船と両親達を乗せた漁船が衝突したのだった。

 護の両親の乗った漁船は大破し、乗っていた全員が海に投げ出された。

 喧騒と怒声の混じった声が甲板に聞こえ、急いで小型の救助船が下ろされた。

 ライトが海に投げ出されて人々を照らし出しているが雨は激しく振り出し、やがて雷雨になった。

 吹き荒れる嵐のような海上での救助は難航した。

 そしてやっと護の両親が甲板に引き上げられたとき、既に二人は冷たくなっていた。

 憲介はその時東京に居た。電報でその報に接するや否や、急いで神戸に戻った。

 そして幹部社員から事故の全容を聞くと死体の安置されている尼崎の寺へ向かった。

 すすり泣く声が聞こえる扉を開け、憲介は安置所に入った。

 死体を囲むように泣いている遺族が安置所に入って来た憲介を見た。

 憲介は遺族の視線を受けると目頭を押さえてその場に跪くと大声で「申し訳ありません」と言って額を床につけた。


 青年は窓から視線を外すと男に向かって頭を下げた。

「いや、鍋井先生の指導が良いからです。僕はまだまだとても先生達の様に上手ではありませんから」

「そんなことは無いよ、土岐君。謙遜しなくてもいいさ。君の実力は既に誰もが認めるところだ」

 そこで鍋井は咳をした。

「それより、もうあれにはとりかかっているかね?」

 青年は二人に近寄りながら頭を掻いた。

「いや、まだあれには取り掛かってはいません。何せ僕にとってはとてもまだ手に負える様なものではないと思っていますから」

「そんなことは無いさ。あの絵は君に描かれるためにあるようなものだよ」

 護ははぁとはにかみながら言った。

「あれとは何ですか?鍋井さん?」

 憲介が不思議な顔つきで鍋井に言った。

 それで鍋井はああそうです、と言った。

「いえ、彼にね。或る作品を描いてもらおうと思いましてこの研究室の秘密の部屋の鍵を渡したのです。それは余程の人間しか入れない部屋で山本さんの許可がないと入れない部屋なのですよ」

「山本さん?」

 憲介は首を捻った。誰だろうと言う顔つきだった。

「鍋井さん、その山本さんとは?」

 鍋井が顎を摩って言った。

「山本顧弥太さんです」

「おお、芦屋の山本さんですか」

「ええ、山本さんはここの前身の信濃橋洋画研究所からの我々の大事なパトロンですよ」

 ふふと鍋井が笑う。

「山本さんならうちの方でも何度か船で綿を運ばせていただいたことがある。そうでした、山本さんは芸術にも造詣が深い方です。『白樺派』でしたかね、武者小路実篤氏とも仲が良いと聞いています」

「ええ、その山本さんから今或る作品を暫く預かって居ましてね。それがこの研究室の秘密の部屋にあるのです」

「そうでしたか」

「護君はその山本さんから許可を頂いてその部屋に入りその作品を描く許可を頂いたのですよ。その部屋に入って絵を描けるのは僕の知っている限り護君で二人目ですよ」

 鍋井が護の方を見た。

 憲介も護を見た。

「護君はもう私など手に届かないところにいるのですな」

 そう言うと大きな声で笑った。

「お父さん、とんでもないです。それにこうした機会を頂けるようにしていただいたのは全てお父さんのおかげです。両親を亡くした僕を手元に引き取っていただき育てていただいた。亡くなった両親もどれ程感謝しているか、それを思うと僕は・・」

 そう言うと護は目を拭った。

 憲介はそっと護の側に寄り、泣いて震えている肩に手を置いた。

「護君、私の方こそ君に返す言葉もない。君から全てを奪ったのは私だ。私はせめて君の将来を亡くなったご両親の為にも守ってやらなければならない」

 鍋井は静かに二人の言葉を聞いていた。護の事は憲介から聞いていた。

 乾海運の海難事故で護の両親が亡くなったということ、そして両親を亡くした護少年を憲介が引き取りその将来がはっきりとするまで憲介の子供として育てるということだった。

 鍋井は少し視線をずらして窓の外の世界を見た。

 窓枠に残る雨の滴が憲介と護の心の窓に寄せるように流れて落ちて行った。

 窓の外の世界が少し明るくなっていた。

(おや、雨が少し止んだようだ)

 数歩進んで窓から眼下に広がる中之島の街を見た。

 雨は既に止み、傘を閉じて街の通りを歩く人達の姿が見えた。

 その中に朝日ビルの前に立つ三人の姿が見えた。

(おやあれは、もしかして・・)

 そう思うと窓から振り返り護に声をかけた。

「護君。もしかして今ビルの入り口にいる方は今朝護君が言っていた方では?」

 それを聞いて護は鍋井の側まで来て窓から覗いた。

 続くように憲介も窓から覗いた。

 ああ、と護が声を漏らした。そして護は憲介の方を見た。

 ビルの前に立つ姿は三人の若者だった。

 二人は青年で一人は若い娘だった。

「護君、君が言っていた方かね?」

 憲介が護に言った。

「はい、あの先頭に居る背の少し低い男性がそうです。あとの方はその男性のお連れです」

 そう言いながら護は目を凝らして娘を見た。娘は肌が白く遠目からでも目が大きくはっきりとした二重の美人だと分かった。

(頼子さん、元気そうだ)

 護は憲介の方を振り向いた。

「お父さん、森哉・・いえ、僕の兄が到着したようです」

 そう言うとにこりと笑った。ただ心の中で(もう一人は誰だろうと)思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る