第3話

「何や、お前。今月のこの売上は!」

 小さな会議室で男の声が響いた。

 国道43号線沿いのパチンコ店のスタッフルームで浦部はこの店を任せている店長の男に怒声は浴びせた。

「遊んでいるんちゃうぞ!!玉田」

 浦部は売上台帳を机に叩きつけると、もう一度分かってるんやろうなと言った。

 髪の毛を七三に分けた若い男がすんませんと浦部に謝った。

「社長、今月国道2号線に新しくできたパチ店がえらく出るようでそれで客を向うにとられてしまいました」

「玉田!!そんなもんわ言い訳や。新しい店が出来たらどこも最初は出す、そんなん常識や。新規店が出来たらええか、うちもそれなりのことせなあかんやろ。新台入れてリニューヤルとかやな・・」

「せやけど社長。なかなか新台なんて」

 それを聞いてむっとして浦部は言った。

「なんや、うちには金が無いっちゅうんかい」

「いや・・そんなことは・・」

 浦部はまぁええと言った。

「来月にはここも新台を新しく入れる。それで何とか客を取り返さんとあかん。新しくできた店は名古屋から出てきとる。最近、ここらも名古屋系列の店が多くなってきた。うちも負けてられへん」

 浦部は立ち上がると玉田を見て言った。

「金なら銀行からまた借りてくる。他の店はそこそこ数字出してるんやから玉田、頑張らなあかんで。

 はいっと玉田が言う。それを見て穏やかに笑いながら浦部が言った。

「それにお前、来月店の子のハルちゃんと結婚するんやろ」

 玉田がドキッとして浦部の顔を見た。

「何驚いてんねん、俺は社長やで。社員のことは何でも知ってるんや。子供が出来てもうたらお前けじめをつけなあかん。男やからな」

 そう言うと浦部はハンドバッグを開いて祝儀袋を取り出した。

 そしてそれを玉田に渡した。

 驚きながら玉田はそれを受け取ると頭を下げた。

「社長、すんません。ありがとうございます」

「玉田、ええか。腹の子の為にもきばらなあかんで」

 そう言うと浦部は立ち上がって駐車場へ出るドアを開けた。

「来月、頑張らなあかんぞ」

 浦部がそう言うと出て行く浦部の背に向かって絶対あの店には負けません、と言った。

 そして浦部が出て行くと静かにドアを閉めた。

 その時浦部の後を黒服の男が二人ついてゆくのを玉田は見た。


(これから天満のあの画家のところに行かなあかん)

 そう思いながらポケットから車の鍵を取り出した。

 そして鍵を差し込んで車のドアを開けた時後ろから声をかけられて振り返った。

「浦部さん」

(ん・・?)

 二人の身なりの整った黒いスーツを着た男が歩いてくるのが分かった。

 側まで来ると二人は立ち止まった。

「浦部進さんですね」

 確認するような口調だった。

 浦部は嫌な感じがした。

(何や、サツか?)

 ドアを閉めると差し込んだ鍵をポケットに仕舞い込んだ。そして一つ咳払いをした。

「浦部は俺やが、あんたらどこのもんや」

 窪んだ眼でギラリと二人を睨んだ。

 睨まれた男達はそれに動ずる感じも無く、浦部を見てにやりと笑った。

(サツやな・・、まぁええ。話を聞こうか)

 右側に居た男が浦部に名刺を渡した。

「何も怪しいものではありません。私達はこういうものです」

 渡された名刺に目を通した。それを見るとほうと声を出した。

「実は浦部さんと一度お話がしたくてここで待たせていただきました」

 浦部は名刺をジャケットの内ポケットにしまうと二人の男を交互に見た。

「珍しいな。あんまりこうした方々とは知り合う機会が無いもんでね。一度こちらからも出向いていろいろ勉強させてもらわなあかんと思ってはいたが」

「それはとても好都合です。こちらもお話がしたかったのですから。あちらに車を用意していますので良ければあちらに」

 浦部は駐車場の奥に停まっている車を見た。黒塗りの高級車だった。目を細めると後部座席に誰かが居るのが見えた。

「分かったわ。行かせてもらうわ」

「ありがとうございます。では、こちらへ」

 そう言うと浦部は車のほうへ歩き出した。

 そして歩きながら浦部は男達に言った。

「ほんで、何の話なんや」

 男が浦部の肩越しに小さく言った。

「《芦屋の向日葵》」

 浦部は男のほうを見て首をかしげるふりをした。

「なんやろうな、知らんな」

 そう言いながら眉間に皺を寄せる様な表情で開いた後部座席の車のドアを潜り乗り込んだ。

「どうも、失礼しますよ」

 そう言って浦部は横に座る男に言った。


 玉田は浦部が乗り込んだ車が駐車場を出て行くのをドアの隙間から見ていた。車が出て行くと玉田はドアを開けて車が止まっていたところに来て辺りを見回した。

 車が出て行くとき小さな紙切れが空に舞ったのを見たからだ。

 紙切れは丁度駐車場の側溝のところにあった。

 拾い上げるとそれは名刺だった。

 玉田は名刺に書かれている人物の名前を見た。

 名前に記憶があった。

(あ、これは・・)

 玉田は名刺に書かれた名前は知っていた。何故なら自分が初めて選挙に行ったときに書いた人物の名前だったからだ。

(社長もえらい人物と繋がりができたな・・)

 玉田は小さな身震いをして、そのままスタッフルームに戻っていった。

 


(俺の描いた《芦屋の向日葵》を犯人に渡す・・か)

 そう思いながら水野が閉じた画集の音で近松は組んだ足を下ろして権田を見た。権田は近松と目を合わせるとそのまま視線を玲子に移した。

 玲子は画集を閉じた水野の横顔をじっと見た。

 水野の溜息交じりの息がして水野は話を始めた。

「まぁ大体のことは先程外で聞いていました。誘拐ですか・・穏便な話じゃないですよね。それでその犯人との取引に僕の描いた《芦屋の向日葵》を使うと言うことですか」

「水野さん、気分を害さないで下さい。水野さんには唯、絵を描いていただく、それだけです」

 権田が念を押すように話いた。

「まぁ、描かれた絵の事のその後ついては僕の関与するところではないので」

「ええ、確かにそうですね」

 権田はそう言って玲子を見た。

 玲子が目を伏せながら言った。

「水野さん、こんなことに巻き込んでしまい、申し訳ありません」

 頭を下げる玲子を見て水野は黙って何も言わなかった。

「おいおい、なんや先生。こんなきれいな子にあやまらせておいて無言かい?薄情やな」

 むっとして横目でじろりと近松を見た。

「別に。唯、言葉を選んで何か言おうとしただけですよ。言葉数が少ないのは生まれつきなんでね」

「そうでっか。ほんならええわ。それより分かったんかいな。その写真と似た絵の意味がどんな意味を持つのか」

 水野は手にした画集をポンと叩くとそれを権田に返した。

 そして写真を手にした。

 写真は綾子が写っている写真だった。

 玲子がじっと水野を見ていた。

 視線を感じながら水野は話はじめた。

「この絵の作家は中村彝。この作家は絵も素晴らしいが悲しい恋物語がありましてね」

「恋物語?」

 玲子の声に振り向いてええ、と水野は言った。

「権田さんはご存知ですか?」

「相馬家の長女俊子さんとの恋ですね」

 水野は頷いた。

「中村彝は結核で亡くなるのですが、彼には生涯愛して止まない一人の女性が居ました。その女性は新宿中村屋裏にあったアトリエの貸主の娘俊子。だが既に結核だった彝は喀血も始まり病状が進行し始めていた」

(喀血・・)

 玲子の視線が落ちた。

「そのころ俊子が安曇野から相馬家に戻って来たのです。そして二人は日を追うごとに恋に落ちて行ったのです」

「その頃の中村彝はルノワールを研究しており、俊子さんをモデルに絵を描いていました」

 権田の言葉に水野は頷いた。

「だが、その恋は良い結末を迎えることはなかった。アトリエの貸主である相馬夫妻に反対をされ、しかも俊子は両親の勧めで日本に亡命していたインド人の独立運動家ボースと結婚。恋は切り裂かれた」

「そんな物語がこの画家にはあるのですね」

 玲子の言葉にそうですと水野は言った。

「悲しい話やな」

 腕を頭に組みながら近松が言った。

「心中せんかっただけでもましやな。もし心中したら曽根崎心中よりええ話になってまう。お初天神さんの客そっちにもっていかれてまうわ」

 釣られて笑いながら権田はそうですねと言った。

「まぁ、この絵にはそうした中村彝の思いがあるのです。そしてこれは未完なのですよ」

「未完?」

 近松が水野を見た。

 玲子も権田も同じように水野を見た。

「未完かどうかは作品全体を見ればわかりますよ。完全に塗りが浅い」

「何故未完に?」玲子が水野を見た。

 頷くと玲子の目を見た。

「これは個人的な僕の意見ですが・・」

 権田のほうをちらりと見た。

 権田の目が話してくださいと言っていた。

「ギャラリーの人の前で言うのは照れますが、これは恋愛賛歌の作品なのです。その意味は未完と恋をかけている、つまり未完の恋。まだ中村彝の中で時間が完成されていない、まだ自分の中の恋が終わっていないと言うメッセージがあると僕は理解しています」

 権田がそれを聞いて成程と呟いた。

「つまり「未完の恋」がこの絵にはあると言うことですね」

 こくりと水野は頷いた。

(未完の恋・・)

 玲子は心で反芻した。

「つまり犯人はそうした意味を込めてこのお嬢さんとこに送ってきたわけか・・」

 顎を撫でてふーんと近松は言った。

「ほな現金の意味は?」水野に聞いた。

「それは分かるわけないでしょう」水野は即答した。

「そっか」

 素っ気なく近松が言った。

 権田が苦笑しながら、近松を見た。

「近松さんは今ご自分が担当している詐欺事件で使われた向日葵の捜索はこれからどうするのです」

 玲子と水野の視線が動いた。

 頭を掻きながら近松はそうやなぁと言った。

「今の状況やと向日葵は二枚あるっちゅうことや。つまり詐欺事件と誘拐事件、それぞれに一枚ずつ・・・」

 ちらりと水野を見た。

「持ってないんやな?」

「何度言えばいいのです?無いものはないですよ!あれば乾さんの依頼を受ける必要はないでしょう。もしあれば乾さんが来た時にありますよって言って渡しますよ」

「そうでありますか」苦虫を潰すような顔で近松が言った。

「それこそ、喜劇でしょ。吉本の」

「確かに、依頼に行って本物がここにありますよっていたら新喜劇やな」

 これには皆が笑った。

 笑い終えると、しかしと近松は言った。

「本物は一枚や、どちらかは偽物と言うことや。これから先生が描くから向日葵は全部で三枚。えらい数になるわ」

「確かに」

 権田が続けて言った。

「まぁ・・今日はこれでお終いにしましょう」

 玲子のほうを見た。先程咳き込んでから玲子の表情が白いのが権田は気になった。

 近松が席を立った。それに合わせるように全員が立ち上がった。

 全員に念を押すように権田が言った。

「皆さん、くれぐれもこのことは内密にお願いします」

 玲子が頭を深く下げた。

 頭を上げると皆の顔を見た。

 それぞれ目を合わせると皆が無言で頷いた。

「じゃ、権田さん。先行くわ」

 先に近松がLEONの階段を上がって外へ出た。

 その後に水野、玲子と続いた。

 水野が階段を上がり終えるとふと玲子のほうを振り返った。

 玲子と目が合った。玲子は一瞬、階段の途中で立ち止まった。それは水野が微笑を自分に送ったからだった。

 その微笑の奥で自分を見つめる穏やかな眼差しが玲子の心を捉えた。

 玲子は目を伏せて再び開くと既に水野はそこにはいなかった。

 階段を上がると、夕陽に染まって坂を下りて角を曲がる水野の背が見えた。

(あの穏やかな眼差し・・どこかで見たことがあるような気がする。何かの絵画の中で・・)

 通りに出ると直ぐに車がやってきて玲子は乗り込んだ。

 車が動き出すと権田が出てくるのが見えた。

 権田が見送りに通りに出ると近松が駅へ向かうために角を曲がるのが見えた。

 通りには夕陽が差し込んでいた。

 玲子の車が遠くの交差点を曲がるのが見えた。暫くすると遠くでバイクの音も聞こえた。

 それぞれが家路に着いたのを見届けると権田はギャラリーの電気を消して扉を閉めた。

 最後にドアに「CLOSED」の看板を掛けると駅へと向かった。



 スイスへ向かう列車の中で遠くにアルプスの山並みを見ながら洋一郎は一人窓に手をついて黙っていた。

 他の視察団の者は静かに寝息を立て眠っていた。

 短いトンネルを抜けると短く刈り取られた牧草が眼下に広がって見えた。

 その上を白い羊の群れを追いかける牧童の姿が見える。

(まるでセガンティー二の描く風景画のようだ)

 イタリア人画家のセガンティー二はアルプスの風景を良く描いた。

 洋一郎はセガンティー二が描く牧歌的で強く明るい色彩の絵が好きだった。亡くなった妻も好きだった。

 そんな風景が目の前を流れていく。

「洋一郎、美しい風景だね」

 その声に振り返った。

「サー・アレックス、眠っていられなかったのですか」

 洋一郎と歳があまり変わらない一人の英国人が席の側に立っていた。

「どうぞ、こちらへ」

 隣の空いている席へ洋一郎は誘った。

 サーと言われた男が静かに腰を掛けた。手に一枚の大きな本を持っていた。

「まるでセガンティー二が描く風景そっくりだ」

 アレックス卿が言う。薄い青色の瞳が外の風景を見ていた。

 それに同意するように洋一郎は頷いた。

「サー、絵画には詳しいのですか?」

 それに英国人ははにかみながら答えた。

「詳しいと言うほどではないがね、まぁある程度の教養はあるかもしれない」

 そう言うと手にした本を洋一郎に渡した。

「これは?」

「我が家に伝わる美術品の一覧さ。父が写真家に撮らせたものだ。君が絵画を好きだと聞いていたので是非見ていただけたらと思ってね」

 洋一郎は頭を下げるとページを開いた。

 肖像画が見えた。

「古い肖像画ですね」

「ああ、これは私の先祖だ。十字軍に参加した時のものらしい」

 頷きながらページを捲っていった。鎧や兜、刀剣類や陶器類が次々と載っていた。

「サーのところには沢山の美術品が所蔵されているのですね」

「スコットランドの古い家柄さ。何年も続いていればその内いろんなものが増えてくる。貴族とはいえ、昔は戦争では盗人みたいなものだったろうからね。きっと諸外国に戦争に行く度、少しずつ増えたのだろうよ」

 洋一郎は笑いながら次のページを見た。

 揺れる海に浮かぶ船らしきものが描かれた絵だった。

「これは・・ターナーですか」

「そう、ターナーだ。父が彼の絵が好きでね。素描や水彩を良く集めていた。だけど僕はどちらかと言えばゴッホが好きだ」

「ゴッホですか」

「そう、ゴッホ。僕は特にアルルで描かれた《夜のカフェテラス》が好きだ。奥まった通りからこちらに向けてカフェの明りが見える。まるで絵画なのに写真を見ている気分にさせてくれる」

「そうですね、確かにカラー写真のようです」

(写真か・・確かにそうだな。思えばアルバムも土岐さんから頂いたフィルムを現像したものだった)

 そこでふと洋一郎は思った。

(そういえばあの写真は誰がいつ撮ったものだろう・・)

 洋一郎はアレックス卿に言った。

「失礼ですが、これらの写真は誰が撮られたのですが?」

「これかい、これはすべてプロのカメラマンに頼んだよ、特に絵画関係の専門のね。絵画の写真も原画の力を伝えるような写真で無いとね」

「成程・・」洋一郎は頷いた。

「日本にはそうした専門の写真家はいないのかい?」

「どうでしょうね・・あんまり知らないですね」

 洋一郎はふと総務の田林が言ったことを思い出した。

(確か送り先は写真スタジオ《青騎士》と言っていたな)

 電車がゴトンと揺れた。

(もしかしたらあの写真は土岐さんの義理の兄、森氏が撮ったのかもしれない)

 顎に手をかけて考えた。

(では・・・いつ・・?)

 それは分からない、もしかすると戦前かもしれない。

(唯、それならば当時の絵の所有者山本氏の許可が無ければ写真は撮れない。それか・・洋画研究所にあった時・・・)

「洋一郎、何か考え事かね?」

 アレックス卿の穏やかな声が響いた。

「あ、失礼しました。少し考え事をしていました」

「ほら、いま鉄橋を渡っているよ。流れる川に美しいアルプスの空が映っている」

 洋一郎は言われた川の水面を見た。

 穏やかに流れる川にアルプスの空が見えた。

「これもモネの描く水面のようだ」

 アレックス卿の言う言葉に頷きながら、洋一郎は心の中で思った。

(だとすれば《芦屋の向日葵》のことを知っていてもおかしくはない)


 

 白い部屋の中にベッドがあって四方には黒い幕が掛けられていた。

 写真を撮るために用意された部屋だと分かった。

 その部屋でゴトッとした音が響いて塊が鏡付きの机の上に置かれた。それは紙包みに入っていた。

「開けて下さい」

 護がレンズをマウントにはめ込みながら綾子に言った。

 綾子はその包みを護に言われた通り広げようとした。

 その時、部屋が一瞬強いライトで光った。

 振り返ると護がファインダーを覗きながらシャッターを切っていた。護は綾子のほうを向かず、また素早くシャッターを切る。

 深く息をつくと綾子は紙袋を手に取るとそれをゆっくりと広げた。

(これは・・・)

 包みからピストルが出て来た。

 綾子の背に声がかかった。

「綾子さん、そのピストルはおもちゃではありません。中には弾丸が装填されています」

 護はカメラを手にしながら言った。

「そのピストルは私が昔陸軍に居た時に使っていたものです。弾丸がまだそこには三発残っています」

 綾子は護を見て険しい顔をした。

 そういえばこの建物は戦時中陸軍が使用していたと言っていたのを綾子は思い出した。

(この人は戦時中、軍人だった)

 護はカメラを置くとピストルを手に取った。そしてそれを綾子に手渡した。冷たくズシリとした重さが掌に伝わる。

 ピストルを手にして険しい顔をしている綾子に護が言った。

「もし、私が撮影中にあなたに何か乱暴でもすることがあればそのピストルで撃ちなさい」

「えっ・・?」綾子が振り返った。

「撃ちなさい、そして私だけでなく・・彼女も」

 護は綾子の後ろに立つ老婦人に目を送った。綾子の背後で車椅子の動くかすかな音が聞こえた。

 綾子はそれには振り返らなかった。

 そして首を振った。

「別にあなたを信じているわけではないですが、このピストルで私があなたを撃つことはありません」

 綾子はピストルを置いた。

「私は犯罪者を撃ちません。犯罪者は法律で裁かれるべきです。そしてあなたを撃つのはピストルの弾丸ではなくあなたのとった行動を非難する誰かの声です」

 護は黙ってその言葉を聞いた。

 そしてそうですかと微笑しながら白髪の後頭部を撫でるとピストルを紙に包んだ。

「そうですね、あなたの言うとおりかもしれない」

「きっとそうです」

 綾子はきっぱりと言った。

 その言葉に護が静かに微笑した。

 置いたカメラを手に取ると綾子に目で合図を送った。ベッドの上に衣装が置かれていた。

「それに着替えて下さい」

 黒いサテン生地のドレスだった。

「この絵の通りのポーズをしてください」

 そう言われてから開かれた一冊の画集を渡された。

 綾子は開かれたページを見た。

 絵は髪を上げてベッドに横たわりながら乳房を見せている少女の絵だった。完全な裸婦ではなかった。半身裸婦のセミヌードだった。

 知らない絵だった。

 絵の少女の大きく開かれた目が印象に残った。きらりと輝く瞳の中に何か少女の強い気持ちが表れていた。

(私にこのポーズを・・)

 その絵を見た時だった。

 老婦人がぽつりと言った。

「護さん、相馬俊子さんみたいにまた頼子をモデルにして描いてくださる」

 綾子は老婦人の顔を見た。老婦人はしっかりと綾子を見ていた。

「ねぇ、あの頃のときの様に」

「ああ、描くよ。君はいつまでも僕の永遠のミューズだから」

(ミューズ・・?)

 綾子は振り返って護を見た。

 護が薄く目を閉じて微笑しながら老婦人を見ていた。

「嬉しいわ、護さん」

 老婦人は綾子を見て笑った。

(どういうことだろう)

 綾子は思った。老婦人は言い終わると瞼を閉じた。それで小さく寝息をたて始めた。

「たまに薬の効果の為か昔の記憶が何かの拍子で甦るときがありましてね。視力も一時的に良くなるようです」

「頼子とは?」綾子が聞いた。

「彼女の名前です」

 男が棚からカメラを取り出した。そして目でベッドに横たわるよう合図を送った。

「あなたが生きている証拠を写真に撮ります。それをご家族へ渡します」

 そう言って護は部屋を出た。

 綾子は静かになった部屋で黙って服を脱いだ。老婦人が横で静かな寝息をたてていた。

(何故このポーズを取るのか分からない。でも・・・私はいま姉に生きているということを伝えたい)

 黒いサテンのドレスを手に取った。

(これ以上姉に心配をかけてはいけない)

 ドレスの袖に手を通した。肌の上を滑らかな布が滑ってゆく。

(私はどんな状況でも負けない)

 そう思うと画集の絵の少女の大きく開かれた黒い目が今の自分の気持ちを物語っているように見えた。

(この絵の少女も何か心の中に秘めていたのではないだろうか)

 そんな風に思えた。

 長い髪を捲り上げると髪留めをして顔を上げた。

(どうせ撮影されるなら、自分の今の気持ちを前面に押し出そう)

 撮影は短かった。

 薄いカーテンでベッドを仕切ると護がレンズを向けて写真を撮り始め、ほんの数分で終わった。

 着替えを終わると綾子は護に言った。

「今撮った写真を実家に送るのですか?」

 ええ、と護が言った。

 カメラのレンズを丁寧に革製の黒いケースに入れた。

「とてもいい表情でしたよ。この絵のモデルのようにしっかりと正面を見ている」

 頷いて綾子を見た。

「まるで気持ちが乗り移ったようだ。良いモデルでしたよ」

 

 その日の撮影の後、護が東京に行くと言った。

 護が出て行くとき「必要なものを冷蔵庫に残してゆく」と言った。 それと老婦人への薬の投薬について説明を受けた。説明をする護に綾子は言った。

「私が・・もし地下の階段を見つけて逃走しないとでも?」

 そう言うと護は横目で寝ている老婦人を見た。

「綾子さん、頼子を頼みますよ」

「ちょっと・・」

 護の視線を追うように老婦人を見た。

 老婦人の顔を見ると心が痛んだ。

(結果として外出を許してしまった)

 老婦人の横に椅子を引き寄せて婦人の手を握りながらそう思った。そして二日が過ぎた。

 夜半、綾子は老婦人を寝かせるとソファで小説を読んでいた。

 読んでいると外で音がした。少し風が入り込んできたと感じると護が大きなバッグに入れた荷物を肩に抱えて入って来た。

「おや、起きていましたか」

 綾子は時刻を見た。

 丁度午前零時だった。

「寝ていると思いましたよ」

 綾子はすっと立ち上がった。男の白髪が交じりの髪とジャケットの肩が濡れていた。

 そして疲れた表情をしていた。

「外は雨ですか」

「今、降り出したようです」

 庭に耳を向けると小さな雨粒が草を叩く音がかすかに響いてきた。それが次第に大きくなってゆく。

「雨が激しくなりそうですね」

「かもしれませんね」

 そう言うと護は荷物を下ろした。そして大きなバッグから中身を取り出すと梱包を解きはじめた。

 綾子は近づいた。

 護は特に気にすることもなく梱包を解いてゆく。

 長方形の荷物に合わせた梱包を解くと荷物が何か分かった。額に入った絵だった。

 裏を向いていた。

 そのまま三枚を床に置いた。

「これは絵・・?」

 裏を向いている為、何の絵か分からない。

「そうです」

(三枚の絵・・この人のコレクションだろうか・・)

「見たいですか?」護が言った。

 綾子は静かに頷いた。

「良いでしょう。いずれはあなたにお見せする作品でしたから」

「私に・・?」

(どういうことだろう・・)

 ガタンと音がした。

 護が絵をひっくり返した。

 綾子は護が表を返した絵を見た。

 その絵は左を向いた薄い水色のドレスを着た少女の絵だった。肩から腕にまで流れるように伸びた髪が印象的な作品だった。

(これはルノワール・・ 確かこの絵のタイトルは《イレーヌ嬢》)

「この絵は知っていますね?」

 綾子は頷いた。

「では、これはどうです?」

 その絵は裸婦だった。緑の木漏れ日の中に立つ裸婦が描かれていた。

「これは《陽光の中の裸婦》です。同じくルノワールの作品です。これは私のコレクションじゃないがとても良い作品だ」

(コレクション・・?)

「さて次です。これをあなたに見てもらいたくて東京に行ったのです」

 そう言って護が絵をひっくり返した。そこには綾子が良く知る絵があった。

 護は額ごと絵を持つと綾子の前に立った。綾子の驚く顔を見て護が冷静に言った。

「そう・・・《芦屋の向日葵》ですよ」

 そう言った後、静かに護は絵を床に置いた。

 そして雨に濡れた髪に手をやりながら暖炉の上に置いてある木箱の鍵を開けた。

 その箱にはピストルが閉まっているのを綾子は知っていた。

「どうして父の向日葵の絵がここに・・」

 綾子の問いかけには護は答えなかった。

 護はピストルを手に取ると険しい顔つきで暫く眺めていた。

 それは何か思い詰めている表情だった。

(何か・・あったのだろうか?)

 綾子は護の心に響くように静かに言った。

「これは・・・この絵がここにあるのは・・どういうことですか?」

 その言葉に反応して護は綾子に向き直りピストルを構えた。

 意外な態度を見て綾子は身構えた。

 数秒の沈黙が流れた。

 その沈黙の後、護はピストルを構えたままジャケットの内側から何かを綾子の足元に放り出した。

 新聞だった。

 綾子は護のほうを見ながら屈んで新聞を手に取った。

(見ろと言うことかしら・・・)

 綾子はゆっくりと新聞を開いた。

 開くとあるページで新聞の端が折れていた。

 そこを開いた。地方欄のところだった。

 そこに目を遣ると小さな記事が鉛筆で丸囲みされていた。

 綾子はその記事に目を落とした。

(6月19日午前五時ごろ女性の水死体が安治川河口で浮かんでいると釣り人から通報在り。現在のところ身元は田川洋子(女性)職業不詳と判明しているが目下他殺の疑いで大阪府警が捜査中)

 目線を上げて護を見た。

 護はピストルを構えたまま寂しそうな顔で綾子を見ていた。

「この記事は・・・?」

 綾子は聞いた。

「私の同志が亡くなった」

「同志・・?」

 そうです、と護は言った。

「いずれその事件の件で警察が動くでしょう」

 綾子はその言葉に反応した。

「それは・・」

(私の事とは関係のないこと)と言おうとした。

 言うとした時、護がピストルを静かに下ろした。

「そう・・それはこの誘拐とは関係のないことです」

 護がピストルを木箱の中に入れてふたを閉めた。そして「予定を急がなくなければならなくなった」とぽつりと言った。

「同志とは・・?」

 綾子は再び聞いた。護は首を振りながら綾子から視線を外して黙った。

 綾子は視線を床に置かれた三枚の絵に向けた。

(今、彼が言った“同志”とこれらの絵が関係するのだろうか)

 絵を見つめる綾子の耳に護がピストルを木箱にいれて鍵をかける音が聞こえた。

「良く考えれば乾さんが誰かを差し向けて同志を殺害するようなことをするはずがない。ピストルを抜けてあなたを威嚇しても意味が無いことでした。そう・・あなた達には弟が残した向日葵の絵の秘密など何の利益もないのだから」

(弟が残した向日葵の絵の秘密・・・)

 綾子は唾を飲み込むと護に聞いた。

「弟がいるのですか?」

 護は首を縦に振った。

「既に故人ですがね。その《イレーヌ譲》は弟の描いたものです」

「この《芦屋の向日葵》の絵は?」

「それは弟がある画家から頂いたものです。その絵は乾さんが持っている向日葵ではない。私が取引で欲しいのはあくまで乾さん所蔵の《芦屋の向日葵》です」

 綾子はもう一度向日葵の絵を見た。

 絵のどこを見ても我が家にあるものと同じだった。

(どこが違うのか分からない・・、むしろこちらの絵のほうが素晴らしくもある。それなのに何故彼は我が家の向日葵を欲しがるのだろう)

 心の中で唸った。

「弟は模写が専門でね。優秀な画家だった」護が言う。

「その弟が同志?」

 綾子の言葉に護は首を振った。

「それは違います」断定した口調で言った。

「今私が言った同志とはある男と戦う仲間の事です。決してあなたを誘拐した仲間という意味ではありません。その向日葵の絵は長年行方が分からなかったのですよ。それを私の同志が見つけて敵の手に渡る前に私に送ってくれたのです。弟の思い出のある絵があの男に渡らなくて良かった」

「教えて下さい。我が家の《芦屋の向日葵》の秘密とは何ですか」

 護はそれには無言で答えた。

「無言ですか」

 綾子はもうわからないと言った表情で護に強く言った。

「私はここに来てすべてが分からないことばかりです」

 雨が強くなり壁を叩く音が聞こえてきた。 

 護が綾子の目を見た。

「あなたは敵と戦う同志とか、向日葵の秘密とか言っている。妄言にしては真に迫る響きがあって嘘のようには聞こえない。私は知りたい、それが私の誘拐とどんな関係があるのか・・・何も分からないことの為に私はここで一人犠牲になっている」

 綾子はいたたまれなくなって床に置かれた《芦屋の向日葵》を素早く手に取って頭上に掲げると床に叩きつけようとした。

「こんな絵など消えてしまえばいい」

「待ちなさい!!」

 思いもよらない行動に出た綾子に護が言った。

「その絵は・・私の死んだ弟が頂いた大事な絵だ。そしてそれは・・・」

 目を伏せて低い口調で搾り出すように言った。

「乾さんにとっても、とても大事なものだ」

(父に?)

 綾子は絵を上に掲げたままゆっくりと壁際に歩いた。

 自分がこうした行動に出たのが以外だったのか、明らかに護が動揺しているのが分かった。

(このまま逃げ出せるかもしれない)

 そう思ったが老婦人の顔を思い出すと、その気持ちが失せてしまった。

 病気の老婦人を残してゆくのはつらかった。穏やかな老婦人の微笑が綾子の心を湿らせた。

「あなたが知っていることを教えてください」

 男に言った。

「それが私とあなたとの取引です。私の腕が痺れてこの絵を床に落とす前に。さぁ、早く」




 一週間が過ぎた。

 七月に入るとアトリエ近くで蝉が鳴き始めた。

 それに合わせるように太陽が道を照らす時間が増え、木陰に入って陽ざしを避けないと汗が噴き出してしまうような日が増えた。

 水野は首元に垂れる汗を拭きながら、キャンバスに向かっていた。

 背景の青色は既に塗られ、中央の二つの向日葵を今着色していた。

 左の向日葵は黄色と茶色を重ね、右の向日葵は黄色とオレンジを重ねては筆先で軽く叩き、そして細い筆で絵具を残すように丁寧に筆を動かしていた。

 少し身体を後ろに反らした。

 向日葵の着色のバランスを見る。

 木炭で描いた時にはあまり感じられなかったことだが着色をするにつれこの向日葵に対してゴッホが仕掛けたことが分かり始めた。

 水野は最初背景を塗り終えた。

 そして右上の向日葵を丁寧に着色して完成させた。

 だがその向日葵の着色を終えるとキャンバス全体を違和感が包んだ。

 あまりにも強いコントラストの為か、色彩の均衡がとれないのだ。

 青色と黄色は補色の関係だ。それは別にいい。

 まだ完成途上であることも別にいい。

(右上に黄色が残っただけで描き手の中で不安が残り色彩感覚が狂いそうになるのはどういうことだ?)

 こうしたことはルーベンスやフェルメール等では無いことだった。

 古典絵画ではこうした色彩の不均衡感覚には襲われない。

 こうしたことが起こり得ることがゴッホの作品の特徴なのかと、水野はその感覚にとらわれながら次に中央の二つの向日葵に手をつけた。

 二つに色彩が着くと今度はキャンバス全体で色彩のバランスが取れ、描き手に安心感を与えた。

(これは・・)

 水野は筆を止めた。

 最初水野は順に向日葵を仕上げて行こうと思った。ゴッホもそのように仕上げただろうと思ったからだ。

 ペインティングオイルに筆をたっぷりつけるとパレットの黄色を筆先につけ着色していない下の二つの向日葵を手早く荒く塗った。

(やはり・・)

 水野は腕を組みながらキャンバスを見た。青色の中で黄色い点が五個所できると絵が安定した。

 黄金比ではないが色彩がもたらす比率が向日葵の絵の全体を建築物の様に安定させた。

(待てよ・・)

 そう思って席を立つと隣の部屋の書庫からゴッホの画集を取り出した。それを捲るとロンドン・ナショナル・ギャラリーの向日葵、フィラデルフィア美術館の向日葵を見つけた。

 そのページを開いたまま先程の部屋に戻り、《芦屋の向日葵》の写真を見た。

 それを見比べた。

「成程な・・」

 水野は呟いた。

 ペンと紙を持ってきて机の上で紙に○を書いた。○は向日葵のつもりだ。

(これで向日葵のポジションを描く)

 まずは《芦屋の向日葵》、次にロンドン・ナショナル・ギャラリーの向日葵、フィラデルフィア美術館。

 そしてそれぞれそれらを丸の中心を線でつないでゆく。

 ○から伸びてゆく線が引かれると紙を手に取った。

「やはり・・」

 水野はつながれてゆく線がどの方向にも三角形を描いていることに、唸った。

(ゴッホは向日葵の色彩が全体的に均等に見えるようにするため三角形の中にすべての向日葵さが収まるように描いている。つまりゴッホの向日葵はトライアングルのハーモニーの中に色彩の関係を繋ぎ合わせた・・ゴッホの魔法なのだ)

 紙から目を離すと《芦屋の向日葵》見た。

(世間ではポスト印象派と言われているが、改めて思うとやはりルネサンス絵画など古典絵画も正確に理解して、それを実験的に取り組んだ画家だったのだな)

 手にした紙を持ってキャンバスに近づこうとした時、アトリエのドアをノックする音が聞こえた。

 その音にドアを振り返った。

 人影が見えた。

(浦部か?・・)

 少し身構えるようにしてドアをノックする音を聞いた。

(あいつかもしれん・・)

 そっとドアに近づいた。

 再びノックの音が響くと今度はドアノブを回す音がした。

 ガチャガチャとした音の後に男の声がした。

「おーい、先生留守か?」

 近松の声だった。

(なんだ、刑事か・・)

 心の中で呟くとドアを開けた。

 廊下に金縁のサングラスをかけてよっと近松が言った。

 そしてにっと笑って開いた口元から金歯が覗いた。

「入るで」

 そういってアトリエに入って来た。

 水野は後ろ手にドアを閉めると近松に言った。

「今日は何の用ですか?」

 水野はソファに座るよう手を出して促した。

「おう、なんや。礼儀正しくなったな」

 ふん、と水野は鼻を鳴らした。

「別に。あんたに礼儀正しくしようと思っているわけではないですよ。一応目上の方に対する礼儀は知っているのでね」

「成程。年寄りを大事にしてくれると言うわけか」

 笑いながらソファに腰をかけた。

 水野も向かいに座った。

 しかし顔は横を見て視線は外したままだ。

「で・・・、刑事さん」

「なんや」近松が素っ気無く答える。

「いつまで、僕は容疑者扱いですか」

「はぁ・・それは知らんなぁ」

 頭を撫でながら近松は言った。

 それに少しむっとしながら水野は言った。

「いい加減にして下さいよ。この前LEONでも言ったとおり僕は何も持ってないし、詐欺のことは知らない。早く容疑者から外してください。近松さん、あなた担当刑事でしょう」

「もう担当ちゃうんねん」

 その答えに水野は少し目線を上げた。

「担当じゃない?」

 近松を見た。

「おう、担当ちゃうねん。今日有給出してきたからね、定年までもう警察の仕事はせぇへん」

(そういえば、そんなこと話していたな)

 水野はLEONでの会話を少し思い出していた。

「今日からあの玲子さんと言う美しいお嬢さんの雇われ私立探偵や」

 そしてどや、と言って顔を近づけてきた。

「どや?じゃないですがね・・」

 少し呆れ顔で近松を見た。

「せやから先生がどうなるかは後任次第や」

「そうでっか」

 関西弁で水野は吐き捨てるように言った。

「まぁ、いいですがね。別にこっちには何もやましいことは無いですからね」

「そうか」

 そう言うと近松は首を後ろの部屋のドアに向かって振った。

「向日葵はあの部屋か?」

「ええ、そうです」

「見せてはもらえんやろうね」

 水野は顎に手をやると首を縦に振った。

「まぁ・・せやろな」

「ええ、残念ながら。それにまだお見せできるような段階ではないですからね」

 近松は軽く首を縦に振った。

「完成したら見せてもらえるんやろう?」

「まぁそれは依頼人次第ですがね」

「そうか」

 近松は足を組み直すと水野を見て言った。

「今日来たのは二つ用件がある」

 水野は軽く頷くと手を顎からポケットに伸ばして煙草を取り出した。

 そしてライターで火をつけるとゆっくりと白い煙を吐いた。

「話を聞きましょう」

「まず一つ目」近松が言う。

「あの玲子というお嬢さんやけどな急病で三宮の総合病院へ入院した」

 水野の眉間に皺が寄った。

(やはり何か身体に変調があったのだな)

「今朝、病院へ見舞いに行ってきたがまぁ顔色が少し良くない。止まっていた喀血がこの前LEONに言ったとき再発したらしいわ。まぁ身体に熱があるようだがたいした事はないそうや」

 LEONを出たあの日、去り際に見た玲子の顔色が悪かったのが水野にも分かった。

 初めてアトリエに来た時も玲子が病気を持っていると権田は言った。中村彝の話をしたとき喀血の話をした時も、反応したのを覚えていた。

 それを思うともしかすると中村彝と同じように結核なのだろうか、と思った。

(結核は過去の病気だと思ったが・・)

 そういって煙を吐いた。

「彼女の病気は何なのです?」

「さぁ、それは知らん。二、三日検査入院して退院やということやから聞いてみたらどうや」

 そういってサングラス越しに卑猥な目つきで水野を見た。

(まったく・・・)

 ちっと舌打ちをした。

「まぁそれはそういうことや。そして次や」

 近松が手を膝の上に組んだ。

「この前、浦部がここに来たな?」

(ほぉ、さすが刑事。情報が早いな)

 水野は煙草を咥えながら頷いた。

「その浦部だがな、俺たちがLEONで出会わせた翌日の早朝、新御堂筋の交差点で血だらけで発見された」

 水野は思わず煙草のフィルターを噛んだ。

(どういうことだ)

 噛んだ煙草を手に取って灰皿へ押し潰した。

「浦部がここに来たのは奴のパチンコ会社の従業員が教えてくれた。何でも、ごっつい向日葵の名画を取り返さなあかんと店で言うてたらしいわ」

 水野はふんと鼻を鳴らした。

「来ましたよ。あいつ、僕に言いがかりをつけやがって。おかげでこちらは散々でしたがね」

「それで今日来たのは、先生。あんたに浦部進の傷害容疑がかかっていると言いにきたんや。いずれ府警の人間がこちらに来るやろう」

 水野は流石に顔を丸くして近松に食いかかった。

「一体どういうことです。警察は何を考えているのですか!!全然、僕は関係がない!!」

「そんなん言われてもストーリできてるやん」

「どんな?」

 水野が矢継ぎ早に言う。

「絵を取りに来た浦部と何かの理由で口論になり、ついかっとなって暴力沙汰になる。そして早朝の新御堂筋で誰も見ていないところを見計らって車から投げ出す、どう、簡単やん」

 水野があきれた様に少し口を開けてソファにもたれた。

 そしてふふと笑い出した。

 笑い声を聞いて近松は不思議そうに水野を見た。

 一段と水野の笑い声が大きくなっていく。

 流石に頭でもおかしくなったのかと近松は思った。

 腹を抱えこむように笑いながら水野はやがて静かになった。

「おい、先生?」

 その声にくくっと低い声で笑った。

 そして顔を上げると言った。

「流石、名探偵。ご名答。犯人は僕です」

「何やと!!」

 今度は近松が驚いた声を出した。声を出しながら手を自然と身構えた。

 その動きを見て水野は大きく笑い出した。そして笑い終えると言った。

「冗談ですよ」

「へっ?」

「冗談です」

 それで意味が理解できた。理解できると小さな怒りが沸いてきた。

 近松の顔が赤くなるのを見て、水野は両手を上げた。

「怒らなくてもいいでしょう。お相子です。お相子。もしLEONの翌日にそれが分かっていれば数日立っても僕がここで絵など描けている筈がない。直ぐに警察が来ていますよ」

 近松ははぁと息を吐きながら言った。

「しかし、警察相手にあまり良い冗談ではないな」

 真顔だった。

「まぁ先生の言うとおりや。警察は先生をマークしていない。別の人物をマークしている。それには理由がある」

「どんな?」

 近松は視線を横に向けた。

「その日、浦部がパチンコ店の駐車場である人物の車に乗り込んだ。それを従業員が見ていた・・」

「それは誰なのです?」

 じっと視線を横に向けたまま近松はそれに答えようとしなかった。

 水野は相手が話すまで待とうと思い、新しい煙草を取り出して火をつけた。

 口の中で舌を動かし煙を吐いた。白い輪が出来て天井へと上っていく。

「その男もそういう風に輪を作って煙を吐くのが好きやった」

「その男?」

 横を向いた近松の眉間に皺が寄っていた。

「知りあいですか?」

 それにはふんと答えて、いやな奴だと一言言った。

「俺が若い頃にある事件で絵を落としたことがあるんや。恥ずかしい話だがするっと手を滑らせて落としてしまった。その絵は外国のあるお偉いさんの所有物だったがそれがある男の芦屋の邸宅で飾られているときに盗難にあった」

「外国のお偉いさんって?」

「連合国軍最高司令官総司令部、つまりGHQのさるお偉いさんさ。名前はええやろう」

(ほう・・意外な)水野は煙草の煙を吐いた。

「その絵は芦屋に邸宅を構える政治家宅に飾られていた」

 近松がポケットから紙片を出した。

 それは名刺だった。

「それがこの男や」

 水野は名刺を受けとると書かれている名前を見た。

「鮫島新平。明治華族の生まれで戦時中はある部隊にいた」

 名刺を見て水野は言った。

「なんという部隊なのです?」

「731部隊や」

「731部隊?」水野が反芻した。

「という噂や・・・。確証はない」

 近松は手を振った。

「どんな部隊だったのです?」

 煙草の灰がひらりと舞った。

 近松は頭の後ろに手を組むと目をつぶって話した。

「第二次世界大戦に存在した研究機関。正式名は確か、関東軍貿易給水部っていうて・・生物兵器の研究・開発機関やった。なんせ、何をしていたか資料が無い。敗戦前後にほとんどの資料が焼かれた。噂じゃ、多くの人体実験が行われたとか・・もう歴史の闇に消えた謎の部隊や」

 水野は黙って聞いていた。

 今自分も手掛けているのは美術史に消えた名画だ。今聞いた話も同じように歴史の暗闇に消えた部隊だ。

(まだこの世界にはいろいろ暗闇に消えたものが存在するのだな)

 黙って聞いている水野に近松が声をかけた。

「まぁ、そんな噂を聞いたことがあるんや、その鮫島からは。でも俺が個人的にあいつを嫌いなんわそんなことやない」

 近松が立ち上がると水野を見下げて言った。

「あいつ、俺が絵を落として駄目にしたとき、めっちゃ怒りやがったんや。ボロカスに!!こっちはまだ新人やと言うのに、あろうことか杖で叩こうともしやがったんや」

 水野は笑い出した。

「刑事さん、そりゃそうでしょう。ピカソでしたっけ?LEONで話していましたよね。それは怒るでしょう、落としたご本人が悪い。逆恨みも甚だしい」

「ちゃうわ、怒り方にも程度があるわ。詫びいれたら、そうでしたかと言ってにこりと笑って大人の態度をとらなあかんやろう、政治家なんやからな」

(無茶苦茶やな、大阪にはこういうタイプが多いな。怒られたら怒る方が悪いと言う奴)

 苦笑しながら、水野は立ってドアに向かって歩き始めた近松を見た。

「帰りますか」

「ああ」近松はそう言ってから水野を振り返った。

 そして「そうそう」と言った。

「明日、時間・・・開いてるか?」

 唐突に言われ水野は言葉を探した。

「いやな、明日滋賀県の朽木ってところに行くんや。例の田川洋子の実家を他の部署のもんが調べて分かってな。そこらしい。それで明日そこに出向いて少し調べたいことがある」

(田川洋子の実家?)

 水野は近松を見上げた。

「解剖の結果、大量の睡眠薬が胃袋から見つかった。自殺の可能性もあるが他殺の可能性も否定できない。彼女の大国町のアパートを捜査したが、残念ながら向日葵の絵もルノワールの絵も見つからんかった。あったのはごみ箱に捨てられた一枚の荷物の送り状やった」

 これがその送り状から書き写した住所や、と近松はメモを取り出して水野に投げた。

 受け取るとそのページを開いて水野は立ち上がった。

「東京都新宿・・、送り先は“写真スタジオ青騎士”・・・」

 ソファから立ち上がると近松に返した。

「どうや、明日?」

「いいですよ、ご一緒しましょう。絵は今日またこれから進めますから」

「おっしゃ、ほんなら明日朝七時にここに来るわ」

 近松は手を上げて背を向けた。

「ちょっと、何で行くのです?」

 慌てて水野が言った。

 それにくるりと振り向くと言った。

「先生とおんなじようにバイクで行くわ。それで先生が警察を巻いた腕とやらを一緒にツーリングしながら確認するから」

 そう言うと近松は階段を下りて行った。

(バイクだって・・あの刑事さん、歳だろう。大丈夫か)

 そんな水野の心配をよそに階段を下りる近松の鼻歌が聞こえて来た。

 

 

 病室に差し込む朝陽で玲子は目を覚ました。

 静かな白い部屋で リネンの冷たさを肌に感じながら落ちてゆく点滴を見つめていた。

 LEONから帰った夜、咳が止まらず喀血をした。それで急遽病院へ入院することになった。

 幸い大きなことにはならなかった。

 ただ治療を受けた後、医者から数日入院することになるだろうが自宅に戻られても外出はせず安静にするようにと言われた。

 溜息交じりに息をゆっくりと吐いた。

 点滴のチューブから落ちてゆく液体が細くなって下のほうに落ちて行く。

(身体の少し調子がいいからと言って、無理をしたせいだ)

 腕を額に当てながら、これからどうすべきかと考えた。

 こうしたことになると予想はしていなかったが偶然にも権田の勧めで協力者を得ることができた。

 近松と言う刑事、そして画家の水野の顔が浮かんだ。

(皆さんに助けてもらわなければ・・)

 そう思って壁に掛けてあった時計を見た。

 午前九時を過ぎていた。

 すると部屋のドアを開けて近松が訪ねて来た。

「おぉ、起きとったか。面会時間より早かったからどうかな思ったけど」

 芦屋の自宅に電話をしたが玲子は三宮の病院に緊急入院したと電話に出た女性が言ったので、見舞いを兼ねて訪ねて来たと言った。

 近松はベッドに寝ている玲子の顔を見ると、「大丈夫そうやな」と言って籠に入ったフルーツと一輪の薔薇をそっと置いた。

 外見からは判断しかねるそうした心配りとのギャップにおかしくなり玲子は少し微笑んだ。

「なんや、可笑しいかい?」

 薔薇の花を置くと金縁のサングラスの縁に手をかけながら近松は玲子に言った。

 微笑してその言葉に答えた。

「たまらんなぁ、ただ笑われると、照れてまうわ」

 そう言って椅子を引き寄せ腰を掛けた。

「質問に答えない沈黙の微笑。まるでモナリザの微笑やな」

 手元を隠しながら、玲子は笑った。

「フルーツは儂からの見舞い。ほんでその赤い一輪の薔薇はあのちょっと胡散臭い暗い水野先生からの見舞い品や」

 それには玲子は反応して目を開いた。

「本当ですか?」

 玲子はそれでも微笑を隠している。

 成程、水野からの贈り物なら少し洒落ていていい感じだが、どうもそれは近松のちょっとした心配りに違いないと思った。

(この方は見かけによらないが心は意外と繊細な人物なのだ)

 きっと妻女にも優しい男なのだろう。

 だがここは近松の優しい嘘に乗りかかることに決めた。

「刑事さん、水野さんにありがとうございますと言ってください」

 玲子の言葉に近松は「ん?」と言う表情をして笑いながら「言っとくわ」と素言った。最後に「あいつめっちゃ喜ぶでぇ」と言うのを忘れなかった。

 そして「それから・・」と言った。

「お嬢さん、もう刑事とは言わんといて。近松さん・・いや、松さんでいいわ。一応刑事やけど有給届を定年退職日までさっき署に出してきたから、もう自由気ままなおっさんや。いや違ったな、近松寅雄はあんたお抱えの私立探偵や」

 笑う近松に玲子は頭を下げた。

「すいません、こんなことに巻き込んでしまって、きっと立場がお困りになることになるというのに」

「いや、ええ。気にせんで。それよりもLEONの権田さんに過去の秘密をばらされる方が困る」

 頭を掻きながら、ほんまにと近松は呟いた。

「申し訳ありません、近松さん」

「あ、それそれ、お嬢さん、松さんね。松さんで頼むよ」

 玲子は両手で口をふさぎながら笑った。

「そうでしたね、では。お願いします。松さん」

「おう、任しときや。妹さんは無事連れて返す。あと、向日葵も渡すこともさせへんからな」

 軽く顔を突き出して近松は敬礼をした。

 それが少しおかしかったのかそれを見て玲子は笑った。

 同じように近松も笑った。

「そうそう、美人は笑顔が一番。それで大抵の男はころりや。あの男、水野もその手で転がすんやで」

「できますかね?」

 少し真面目になった玲子の表情に、何とも言えない水野への気持ちを近松は汲み取った。

「ここから出たらやってみると良いわ。あいつを本気にさせればきっと良い向日葵の絵ができるやろうから」

 うんと玲子は素直に頷いた。

「さて」近松が言った。

「お嬢さん、いや。乾玲子さん」

 玲子が少し顔を上げた。

「お父さんは乾洋一郎、神戸に本拠地を置く乾グループの総帥さんやな」

 玲子が首を動かさずに黙ったままでいるのを近松は目で押さえた。

 それは鋭くなく、優しく玲子に答えを迫るものではなかった。

「まぁ、そんなことは黙っていても直ぐこちらで調べればわかる。権田さんもお嬢さんの素性については何も言わへんかったからLEONを出た時お嬢さんが乗った車の番号を控えさせてもらったんや。まぁそんなことは簡単なことやし、それで大体の素性が分かった」

 頷きながら玲子は言った。

「そうです。父は今お話しをされた通りです」

 無言で手を軽く上げると近松はズボンのポケットから手帳を取り出して言った。

「質問があるんや。聞きたいのはゴッホの《芦屋の向日葵》が何故あるのかと言うことなんやけどな」

 ちらりと玲子を見た。

 玲子は首を振った。

「いつ頃からあったのかわかりません」

「その絵は本物かい?」

 核心に迫る質問だった。

 当然、その絵が本物かどうかで戦災で消えた名画の理由がわかる。もし本物であれば、それはあの空襲時に山本顧弥太氏の邸宅から何らかの理由で運ばれたことを意味する。

 そしてその絵はそれ以後忽然と歴史から姿を消して沈黙をしている。

 玲子は首を強く振った。

「残念ながら、本物かどうかはわかりません」

 続けて玲子は言った。

「家族のだれもが父にその質問をしたことはありません。それは父に答えを聞いて不安になって何かの恐れを感じるとかではなく、私達姉妹には普通の家庭に飾られている絵でした。本物とかどうかということは別にどうでも良いことでした。絵の真贋で家族の地位が上がり、また家庭の価値が変わる訳ではありませんから」

 玲子の言葉に近松は頷いた。

「まぁ、そんな本物とか偽物とかは別にそれほどお嬢さん達姉妹には確かに関係のないことかもしれんな。それで家庭の価値や幸せが変わることなどもないしな」

 そうですね、と玲子は呟いた。

「もし、それが知りたければ父に聞いていただくしかありません」

 近松は手帳を閉じてポケットに入れた。

「そうみたいやな。分かった。そのことはいつかお父上に伺うわ」

「すいません」

「いや、ええよ」

 近松は立ち上がった。

「明日、滋賀県の朽木ってとこに行ってくるよ」

「朽木?」

 玲子が反芻した。

「そう。少し遠いとこやけど久々に愛車のバイクでね。唯一の若い頃からの道楽でな、大型のバイクで旅するのが好きなんや。まぁ明日はひとりになるか、それとも水野先生と一緒に行くか分からんけど」

「そうですか」

「その帰りに京都で権田さんと会うことにしている。なんでも京都の三条で関西ギャラリーの定期会合があるらしい。そこでちょっと昔のある研究所のことを調べてもらってその結果を聞く予定や」

 そして唐突に近松は言った。

「帰りに寄ろうか?」

「え?」

「水野先生と一緒に」

 玲子が返事をしようとした時、看護婦がドアを開けて入って来た。

 点滴液の交換に来たのだった。

 近松は入れ替わるようにドアを出た。その時軽くウィンクを玲子にした。

(あ、ちょっと・・)

 そう言おうとする玲子の返事を聞かずに近松はそのまま去っていった。

 唯、去り際に一言、玲子に言った。

「これからまた別の病院に行くねん」

 









「松ちゃん、来たか」

 壇吉が愛想の良い声で病院のロビーに現れた近松に言った。

 LEONを訪問した翌日、曽根崎署に来ると壇吉から電話を受け取った。

 電話の内容は浦部進が重傷を負って淀川区の救急病院へ搬送されたのことだった。

 正午を丁度回ったところだった。

 おう、と言って手を上げて壇吉に答えると、サングラスに手をかけながらほんでどうや?と言った。

「まぁ、奴さんなかなか丈夫な身体してるようで医者が言うには腕とあばらを骨折している以外は頭の傷が少し深くてあとは手足に数箇所の擦り傷があるだけらしい」

「出血は?」

「まぁ今はおさまっている。頭の方は縫ったらしい」

 ふーんと近松は言った。

「ほな、ナシは出来るんかい?」

「まぁ数分ぐらいならなんとか。今は薬が効いて寝てるけどな」

 そうか、と呟くと近松はロビーの革張りのソファに腰をかけた。

 その横に並ぶように壇吉が座る。

「ところでいつどこで発見されたんや、浦部は?」

 壇吉が手帳を開いた。

「今朝午前五時、東三国から新大阪近に向かう交差点で朝の出勤中のサラリーマンが倒れている浦部を発見したそうや」

「えらい繁華しているところやな。他に誰も見てなかったん?」

 近松がサングラスを取ってはぁと眼鏡に息をかけた。そしてポケットからハンカチを取り出しながら眼鏡を拭いた。

「朝早くは誰も出歩いとらんよ。まぁ倒れているところやったから、もしかしたらひき逃げにあったんかもしれん」

「ひき逃げ?」

 眼鏡を拭く手を止めた。

「ああ、本人も救急車に乗ったとき救急隊員にそう漏らしたらしい」

「ひき逃げね・・」

 そう呟くとサングラスをかけた。

「それで、そのひき逃げで捜査するんかい?」

「そうなるやろうね・・・」

 壇吉が顎をさすりながら言った。それが少し腑に落ちない顔をしているのに近松は気づいた。

「なんや壇吉、腑に落ちへん顔してるな」

 ん・・、と低く声で喉を鳴らした。

「いやな松ちゃん。さっき医者から聞いたんやけどな。血中の中から睡眠薬の成分が大量に出てきたらしい」

「睡眠薬?」眉間を寄せて近松は壇吉を見た。

「そう、それが田川洋子の検死の際に出てきたものと同じやったんや」

「偶然か?」

 近松の問いに壇吉は黙った。

「実はな、調べていくうちに分かったんやけど、あのスパイダーって店で洋子の馴染みが浦部以外にもう一人いたんや。その男は政治家でな・・」

 ほう、と近松は言った。

 壇吉が手帳から名刺を差し出した。

「こいつや」

 白い名刺を受け取るとそこに書かれた名前を見た。近松は名刺を見るときまずそうな表情で壇吉を見た。

「新島か」吐き捨てるように近松が言った。

「そう、新島幸雄。あの新島新平の息子や」



 ミラノのホテルに着くと洋一郎は自分宛にメッセージが無いかフロントに確認した。

 すると日本から電話があったことが分かった。

(田林君だな)

 直ぐに自分の部屋に入ると神戸の本社に電話を入れた。

 暫くすると電話口に若い女性が出た。

「若江君かい?私だ、乾です」

「あ、社長、すいません。私・・・ミスをしてしまいまして」

「ん・・?」

 心当たりのないことを唐突に言われて洋一郎は困惑した。

「何か・・あったのかね?」

「いえ、実は総務部長から社長のご友人欄のところに最近走り書きが書いてあったので誰か知らないか?と言われたのです」

「それで?」

 洋一郎は秘書が話し出すのを待った。

「ええ、実はそれ・・私が書いたのです。社長がヨーロッパに行かれた後、森哉さんからお電話を頂きまして・・その・・社長と急な御用事ができたということで直接お話をしたいと言われました」

「電話があったのかね?」洋一郎が言う。

「はい。それで社長とどのような御関係かと聞きましたところ、土岐護さんの義理に兄にあたると言われたのです。前年から私が社長のご友人関係のご進物の担当はしており、その方のことは知っておりました。それも土岐さんは当社でも特別な位置におられる方とも部長からきいておりましたので・・それで」そこで言葉を切った。

「森さんが社長の海外の連絡先を知りたいと言っていたので社長のご予定先の電話番号を全てお教えしました」

 洋一郎は受話器を持ちながら一瞬黙った。

(それだ・・森氏が私宛にホテルに電話をしてきたのだ・・きっと)

「社長?」

 秘書の自分を呼ぶ声に我に返ると「いや、何でもないと言った」

「すいません勝手に社長の予定を話してしまって。軽率でした」

「いや、それは仕方ない。そのファイルは社にとって重要な人物のリストで何かあれば対応をすべき人達ばかりなのだから、君に責任はないよ」

「すいません」小さな声で秘書が答えた。

「それで森さんは何の用事と言っていたのかね?」

「それは大事なことなので社長へ直接伝えたいと言っていました。ただ、・・」

「ただ・・?」眉間を洋一郎が寄せた。

「弟が預けた絵の事で大事な話があると言っていました」

「絵だって?」

「はい」

「そうか・・・」秘書の言葉に洋一郎は言葉を無くして黙った。

 洋一郎はそれで娘を誘拐した人物が誰だか分かった。

(しかし、何のために娘を誘拐したのだろう。絵のことであるならば直接私に会って言えばいいことだ・・)

「社長」

「ん?」秘書の言葉に洋一郎は心無く返事をした。

「総務部長が電話を代わってくれと言っています」

「そうか、わかった。代わってくれ」

 暫く保留中の音が流れると電話口に男の声がした。

「社長、田林です。お疲れ様です」

「田林君、ご苦労様」

「すいません、先程若江君から聞いたと思いますが大変申し訳ありませんでした」

 陳謝する田林の声が洋一郎の耳に響く。

「いや、気にしないでくれと君から若江君に言ってくれよ。おかげで僕の謎が解けたのだから」

「謎ですか?」

 慌てて洋一郎が言った。

「いやいや、何でもないのだ、こちらの事さ。それよりお願いしていた森さんの事、何か分ったかい?」

「ええ、そのことですがね・・」

 田林がメモを開く音が聞こえた。

「社長、東京支店の木村部長に営業のついでに近くまで行っていただきました。確かに新宿にその写真スタジオはありました。ただ営業はしておらず休みの看板が出ていたそうです」

「そうか、休みだったか。木村君には忙しいところ悪いことをしたね」

(店は休みか・・おそらく娘と一緒に居るのだろう。これでほぼ森氏が誘拐を企てたと考えて間違いはないだろう。あとは、どこに潜んでいるのかということだな)

 洋一郎は心の中で思いを巡らせながら机の上のカレンダーに目を遣った。

 日付は七月七日だった。

 既に娘が誘拐されて十日以上が過ぎていた。

(警察へ電話すべきか・・)

 洋一郎はそこで少し首を横に振った。

 確かに心配ではあったがこの犯人が無下になにか危害を加える様なタイプではないと思った。

 電話口で話す相手から自分に対する敵意を感じなかったからだ。

 むしろ何かを諭させ、思い出させるような話し方をしていた。信頼をしていると言うのは可笑しな話だが、相手に余程何か急なことが起きない限り娘には手を出さないだろうと思った。

 それに相手は自分のことを身内だと言った。

 それは謎だ。未だに自分でも分からない。

 もしそれが本当ならば今回の件は唯の身内間の不祥事に過ぎない。

(あの海難事故で父が土岐さん以外に庇護した人物がいるのだろうか・・)

 洋一郎は頷くと警察へ連絡するのはもう暫く様子を見るべきだと思った。

「それから、社長に報告があります」

 田林の声が急に耳に聞こえた。

 田林の声に思いから覚めると受話器を持ち直して言った。

「何かあったのかい?」

「ええ、社長。うちの乾建設に話が来ているダム建設の件ですが、昨日、新島の若先生がお見えになってその後の進捗はどうかと言ってきました」

「ああ・・その件か・・・」

 洋一郎は気のない返事をした。

 乾建設は洋一郎の叔父を社長に据えて事業を展開している。

 当初は住宅建設等を主にやっていた徐々に公共事業へと規模を広げてゆき瀬戸内海の離島を繋ぐ陸橋工事を請けて以降、徐々にインフラプロジェクトを受けるようになった。

 そして乾建設にダム建設の話が飛び込んできた。

 地元の政治家新島幸雄からの斡旋だった。同じ地元の企業と言うことで強い推薦を受けた。

 これからは大都市部では電気エネルギーが不足する、その為に必要な事業だと言うのが新島の言葉だった。

「乾さん、是非に」

 洋一郎は自分より年若の新島が話すのを聞いて最初は躊躇した。

 ダム建設にはまず大きな資本が居る、それだけではない。やはりそれなりの建設における技術が不可欠だ。

「当社には、とてもそうしたものが不足しております」

 洋一郎は新島にそう言った。

 新島は手を出して「いやいや」と言いながら

「そうしたことは心配しなくていいよ。これは親父から声が出ていることだから。資金のことも技術者不足のことも何もご心配されることはありません」

 そこで洋一郎は考えを巡らせた。

 新島の言う親父と言うのは、新島新平のことだ。

 戦後政治において特にGHQとのパイプ役として裏で大きく活躍した政治家だと洋一郎は聞いている。

 その為GHQ関連のプロジェクトとつくインフラ事業では常に名前が出てきていた。

 基地建設だけでなく道路整備等、多くの事業が彼とのパイプが無い場合、殆ど仕事を受けることができないと言うルールがあるとも噂で聞いている。

 当時の内閣が発表した列島改造計画における事業には彼の公認が無ければ事業に参加できないと人づてに聞いていた。

(あの新島先生の推薦であれば・・)

 洋一郎は考えた。 

 これからエネルギーを軸にすることは経営戦略上悪くはない。自分自身もこれからの海運事業を商業貨物と共にエネルギー輸送も見据えて両輪として運営して行きたいと考えている。

 その為、近い将来ヨーロッパへ出かける予定にしている。

 少し首を縦に振りながら新島に言った。

「新島さん、その件少し預からせて下さい。取締役会にかけさせていただきます」

 そう返事した。

 その新島からの催促だった。

 洋一郎は取締役会にダム建設の受注の是非について会議にかけた。

 役員会では専務以下、すべての役員がダム建設には否定的な意見を出した。

「その理由として」と専務の戸部が言った。

「社長、ダム建設にかかる膨大な資金、技術力不足もさることながらダムにより水没される集落があります」

「水没する集落か・・」

 洋一郎は腕を組んだ。続けて常務が言った。

「その土地などの金銭的賠償は国がするとしてもその地域に根差している人々の土地を追われた恨みにも似た感情が遠い将来に渡って工事を請けた乾グループへむけられるのではないでしょうか」

「それは企業イメージを損なうだけでなく、今後の事業に少なからず影響が出る恐れがある」

 叔父の乾建設社長が続けて言った。

 その言葉の後で多くの役員が同じように首を縦に振った。

 洋一郎は個人としては様々な分野でエネルギー事業への進出は悪くはないと思っている。

(役員はダム建設事業には反対だった)

 となれば、洋一郎も強くそのことを推すことはできない。

 ただ、一度で決める必要もないだろうとも思った。

 その為この件は自分の欧州視察から戻ってから、再度話し合うことにして取締役会を解散した。

 洋一郎は一つ咳払いをすると田林に言った。

「それで新島さんは何と?」

「ええ、その後どうですか?と言うことでした。唯、親父さんの新平氏が若先生にえらい返事を急がせているようで辟易しているとこぼされていました」

「親父さんがね・・」

 そこで洋一郎の部屋をノックする音が聞こえた。

 洋一郎は受話器を持ったまま返事をした。

「田林君、誰かが僕を呼んでいるみたいだからこれで電話を切るよ。その件についてはまだ検討中だと言っておいてくれ」

「社長分かりました。新島先生にはそう言っておきます」

 また、電話をすると洋一郎は言うと受話器を置いた。そしてドアを開くと、ドアの前にアレックス卿が立っていた。アレックス卿は洋一郎を見てにこりと笑うと言った。

「洋一郎、長旅で疲れていると思うがラウンジで一杯いかがかな」

「これは喜んでご一緒させていただきます」

 洋一郎は急いで部屋の奥に行くとジャケットを手にして部屋のドアを閉めた。

 そしてアレックス卿と並んで歩くとエレベータを下りてラウンジへと向かって行った。


 

「今日、幸雄は神戸かね?」

 年老いているがしっかりとした口調で老人が言った。

 調度品が並ぶ部屋でゆっくりと天井へ向けて大きな輪の煙草の煙が昇ってゆく。

「大先生、若先生は東京です。神戸の乾建設へは昨日行かれましたよ」

 スーツを着た若い男の秘書が手帳を捲りながら予定を確認した。

「そうか」

 そう言って革製のソファで座り直すと、再び煙草を口に咥えて煙を吐いた。

 ゆっくりと小さな煙の円が段々と大きくなり天井に当たると消えた。

「まずい煙草だ、こんなものを国内で保護しようとする連中の気持ちが知れない」

 灰皿へ煙草を押して消すと秘書へ目を遣った。

 秘書も合図を心得ているようで部屋の奥から木箱を持ってくると箱を開けた。

 並べられた葉巻から一つを取り出すとそれを秘書が受け取りナイフを取り出すと水平に切り落とした。

 そして葉巻を受け取ると老人は口に咥えてゆっくりと火を点けた。

「大先生、いかがですか?」

 若い秘書の声に無言で頷くと窓の外を見た。雲の切れ間から見える七月の青い空が見える。

 その空を鳥が横切ってゆく。

「七夕も過ぎればもうすぐ終戦記念日だな」

 老人は空を見て呟いた。

「いや、君達若い世代はもう戦争のこと等知らないだろうが、私の青春時代の頃はこうした季節の祭りが来ると、次はもう自分はこの季節を迎えられないだろうと思っては胸が引き締まるような気持ちだった」

 秘書は黙って言葉を聞いていた。

 老人は雲が窓から消えるまでじっと見ていたが雲が切れると横を向いて秘書にとぽつりと言った。

「向日葵の男はあの後どうした?」

 その声に秘書は低い声で答えた。

「ええ、彼はここでぐっすり眠って帰っていただきました」

 老人はそうか、と答えた。そしてぽつりと言った。

「彼には悪いことをしたな」

 そう言って再び空を見た。

「全てをやっと歴史の闇に消す時が来たのだ」

 老人は目を細め葉巻を口から離して煙をゆっくり吐き出した。 吐き出した煙が円を描くとやがて静かに天井に当たり音も無く消えた。

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