第2話
水野はアトリエに差し込む朝陽で目を覚ました。
昨日は遅くまで作業をしていた為、自分の家に戻らずソファに身体を投げ出したまま昨晩は眠りについた。
その為か少し身体がだるくて眠い。
壁に掛けてある時計を見た。午前六時を過ぎたところだった。
(二時間しか寝ていない)
水野はぼさぼさの髪を手で束ねるような仕草をしてから、ソファに身体を横たえたまま思いっきり身体を伸ばした。
(さぁ起きろ、仕事だ)
自分に言い聞かせると眠気を取るためこのままソファに横たわって煙草を吸おうと思った。
(煙草・・どこだ)
煙草を探そうと頭を動かすと床に一本落ちているのが見えた。手を伸ばして落ちている煙草を拾うと口の端に咥えた。
咥えながらライターを探した。
ライターはポケットにあった。
(寝覚めの一服・・)
そう思って火を点けようとしたが火が付かなかった。
ライターを手で振った。見るとガスが切れていた。
ちっ、と舌打ちをした。
舌打ちして口の端に咥えた煙草を部屋のどこかにポイと投げた。
(仕方ない。顔でも洗って目を覚ますか)
煙草を吸うのをあきらめると水野は起き上がろうと首を動かした。
その時シャツの襟首が首の擦り傷に触れ痛みが走った。思わず声が出た。
「っ・・痛ぇ」
首を押さえながら声を漏らした。寝てしまった為、首の痛みを忘れていた。
「あの野郎・・」
水野は首を押さえながら洗面台に向かって蛇口をひねった。
水が出てきて手ですくった。
水が冷たい。顔を洗うと一気に眠気が飛んだ。
タオルで顔を拭き、壁にかけている鏡に映る自分の顔と首を見た。
無精髭が見えて髭の下の首筋が赤くなっている。
これは浦部進がアトリエを出て行くとき捨て台詞を言いながら襟首を羽交い絞めにした跡だ。
「お前、ええか、しらきってもあかんで。今日はこのまま帰るけどな。きっちりあれはルノワールと一緒に返してもらうからな」
浦部の凄味の聞いた声が頭に響いた。
(あの野郎・・)
水野はタオルを水で濡らして絞ると赤いところにゆっくりと当てた。タオルが触れるとヒリヒリと痛んだ。
(警察へ行くか・・)
そう思ったがあの近松と言う刑事の顔が浮かんだ。
浮かんで、すぐやめようという気持ちになった。
(どんな面して行けばいいのか、容疑者同士が喧嘩沙汰をしたなんて言えば、きっと何が原因だったか得意げにあの刑事に聞かれるにきまっている)
そう思うと不機嫌になった。
(まぁ、いい。警察へ行くのは事の成り行きを見てからだ)
鏡に映る自分の姿を見た。
自分の目に女性の姿が映るのが分かった。
(田川洋子・・か)
この天神橋界隈に引っ越してくる前、水野は鶴橋から上本町へ向かう坂の途中にある小さな雑居ビルの一室にアトリエを構えていた。
アトリエのあるビルはいくつかの飲み屋が入っていたが、それらは活動が夜であり自分の絵を描く日中の時間と重なり合うことは無く昼間は誰もいなく静かで、絵を描く環境にはよかった。
ただ早出してくる若いホステスとはすれ違うことはあった。
そのホステスの一人が田川洋子だった。
いつもすれ違う度、彼女の黒く長い豊かな髪先のウェーブが肩に触れてうなじから薔薇の香りが漂った。鼻腔の奥に残る薔薇の香りに触れる度、彼女は美しいと水野は思った。
だが彼女は若くて美しいだけでなく何か内面に危険さを潜ませているとも水野は思った。そしてそう思うことがあった。
遅くまで絵をアトリエで描いていた帰りに水野はビルの出口で年の離れた中年の男と一緒にいる彼女を見た。
彼女は中年の男を目の前に立たせ何か話をしていたが、不意に男の頬に唾を吐きつけた。
唾を吐きつけられた男はそれでも、嫌な顔をすることなくむしろ恍惚とした表情で彼女を見ていた
そして彼女の頬を寄せキスを迫った。
彼女は再び男に向かって唾を吐いたが男は気にすることなく勢いよく彼女の唇を奪うと、そのまま後ろを通り過ぎる水野の存在など気にすることなく、まるで彼女の唇の唾液を飲み込んでいるように見えた。
その時水野はすれ違いざまに田川洋子の目を見た。
彼女は唇を男に奪われながらも、瞳の奥はひどく静かで何か自分自身が出演している映画を見ているような感じをしていた。
その目が水野と合った。
すると瞼が薄く閉じられ、唇に絡みつく男の首に彼女の白くて細い腕が絡みついた。
「先生、他の人が見ているわ。スキャンダルになる」
「気にしないさ、俺はお前となら何も恥ずかしいなんてない。だってお前は俺のかわいい娘だ」
そういう男の言葉が聞こえると彼女は水野に手を振った。
行けということだろう、水野はその場を離れた。
離れながら水野は彼女の精神の中に鋼のような強さを感じた。そしてそれを人生の中で訓練して兼ね備えてきたのではないかと思った。
(ピカソのキュビズムの作品を鑑賞する時に感じる完成された芸術に勝てない恐怖と同じものをあの女から感じる)
この出来事が水野に彼女を何か危険さを潜ませている女だと強く印象付けさせた。
そんなことがあってからは暫く彼女とも会うことは無かったが、ある日水野がルノワールの模写を抱えてビルの階段を上がっていると上のフロアから深い青のドレスを来て降りてきた田川洋子が目の前に現れた。
不意に出会ったことに水野は少し驚いたが、黙礼して過ぎ去ろうとした。
アイシャドウと薄いピンクに塗られたルージュの唇が見えた。見えたと思うと、田川が声をかけてきた。
「失礼だけど、あなた画家なの?」
深く落ち着いた声音だった。
その声音の奥に潜む危険に引き込まれるような魅力を感じて、水野は唾を飲み込んで言った。
「ええ、有名ではありませんが。一応画家で生計を立てています」
「いい絵ね、それ。ルノワールかしら」
田川は微笑して絵を指さした。腕にかけられた香水の香りが、水野の首に絡み付いて鼻から喉の奥に入り込んできた。
「ええ、そうです。ご存知でしたか」
声が掠れた。首に絡みついた香水の香りと、一緒に唾を飲み込んだ。
「その絵、《陽光の中の裸婦》ね。未完成のようだけど、いい出来ね。もし仕上がったら教えてくれるかしら。あなたのアトリエにいって完成品を見せてもらいたいから。」
田川洋子はそう言うと、ドレスのスカートを持って階段を下りようとした。
「いつかモデルになってくれます?」
不意に水野は階段を下り始めた田川洋子の背に向かって手を伸ばして言った。
何故だか分からない。彼女を掴みたいと思ったのか、しかしその伸ばした掌は汗ばんでいた。
田川洋子は水野の言葉に振り返ると頬にかかる黒髪の隙間から、輝く目で水野を見た。
そして短く「いいわ」と水野に言った。
「だけどその絵の出来を見てから考えるわ」と髪を掻き揚げてピンク色の唇を開いて微笑して、階段を下りて行った。
本格的な冬がもう近くまで来ていた。
水野の描くルノワールの《陽光の中の裸婦》の模写が完成した。
水野はビルの入り口の前で夕暮れ時の空を見ながらコートから取り出した煙草を口に咥えた。咥えたときに吐いた息が、少し白くなった。
冷たくなる指先でマッチを摺った。
火のついたマッチの先を左手で包むようにして顔を隠しながら口に咥えた煙草を持って行き、火をつけた。
そしてゆっくりと顔を離すと火の消えたマッチを捨て、空に向かって煙を吐いた。
道路を横切るハイヒールの音が聞こえてきて、水野の前で止まった。吐いた煙草の先に田川洋子が立っていた。
「どうしたの?」田川洋子が水野に言った。
「絵が出来ましてね。見せようと思って」
「じゃ見せてくれる」
「良いですよ」水野はそういうとビルの階段を上がった。
アトリエのドアを開けた。ドアを開けるとイーゼルに置かれた絵が見えた。
水野は目で田川洋子に見るように言った。田川洋子がアトリエに入るとルノワールを見た。
暫く無言のままでいたが、不意に水野に言った。
「ねぇ、この絵。いただけない?」
水野は下を向くと小さく笑った。
「あらおかしい?私みたいな水商売の女が絵を見たりするのが」
「いいえ、違いますよ」首を振った。
「じゃ、何?」
田川洋子の黒い瞳が水野を捉えた。
「一度、美人に言ってみたいセリフがありましてね」
「良いわ、聞いてあげるわ」
今度は水野の瞳が田川洋子を捉えた。
深い暗い底から言葉が伸びてきて、水野はその言葉を掴んだ。
「もし一緒に寝てくれるなら絵は差し上げますよ」
それは極めて事務的な響きだった。
(それ以後の彼女のこともルノワールの絵のことも俺は知らない)
首にタオルを押さえながら、水野は作業室のドアを開けた。
(ましてや刑事や浦部と言う男が何を言おうとも向日葵の絵の事も知らないものは知らない)
ドアを開けると部屋の中央にイーゼルに掛けられたキャンバスが見えた。
キャンバスには《芦屋の向日葵》の写真と同じ向日葵が木炭で描かれていた。
浦部が帰った後、痛む首筋を押さえながら水野は向日葵を木炭で描いた。
開けたドアの下に先程投げた煙草が落ちていた。
それを拾うとポケットに入れて部屋に入った。
向日葵の絵の前まで歩くと立って静かに絵を見つめた。
オレンジ色のキャンバスの中でゴッホ独特の太い線で描いた向日葵が自分を見つめていた。
光は反射されず、線が押し出されることもなかった。
(寝起きだが少し進めるか・・)
首に当てたタオルと机の上に置くと深く溜息をついて椅子を引いて向日葵の前に座った。
指を動かして白い皿を手に取った。それに水を注ぐと今度は木炭を手に取り指先で潰した。
潰した木炭を今度は先程注いだ白い皿の水に入れると筆先で潰した。
水の表面に炭が広がった。
筆先に炭をたっぷり染みこませると《芦屋の向日葵》の写真を見た。
水野はロイヤル・ブルーとクローム・イエローの中で色の濃い部分を見極めると絵筆を自分がキャンバスに描いた向日葵のその場所へ持って行き、慎重に動かした。
薄く黒い染みが影となり、それが絵に質量感と存在感を与えた。
水野は再び筆の先に炭をつけると同じようにもう一度向日葵に影をつけた。
筆が動く度、作品としての輪郭がはっきりと鮮明になってゆく。
水野は首の痛みを忘れて作業を続けた。
そして筆を置いた時、時計を見ると午前九時を回っていた。
二時間ぶっ続けで作業をしていた。
(少し休憩するか・・)
ポケットに手を入れて煙草を取り出すと口に咥えた。
ライターを探そうとしたが、ガスが切れていたのを思い出して煙草を口咥えたまま椅子にもたれて天井を見た。
天井の壁の染みが見えた。
煙草が口からポトリと折れて床に落ちた。
落ちた煙草に目をやった。
(ライターを買いに出掛けるか)
水野は立ち上がった。
立ち上がると首がヒリヒリと痛んだ。
(ついでにバイクで少し走るか。絵が乾くまで時間があるし、昨日の事と言い、少し気持ちを整理したい気分だ)
水野はドアの近くに掛けてある鍵とヘルメットを手に取ると部屋のドアを開けた。
そしてそのまま螺旋階段を下りた。
外に出ると空を見た。青空が広がっていた。
道路脇に止めてある450ccのバイクのところに行くとヘルメットを被り水野はバイクに跨った。
スターターを回してエンジンをかけるとヘルメット越しに低いエンジン音が響いた。
(須磨まで海を見に行くのもいいな。そこで朝の一服だ)
そう思うと水野はアクセルを吹かして一気に加速して走り出した。
バイクが走り出すと国道に停まっていた一台の車が水野の後を追うように出て行った。
それを権田がビルの影に隠れて見ていた。
まだ空が暗いうちに玲子は起きて窓辺にもたれながら空が明るくなるのを待っていた。
昨晩父と電話をした後は、自分宛の電話は無かった。
遠くに瀬戸内海を往く船の明りが見えた。船はゆっくりと右へと動いていた。
街を見るとまだ暗く街灯だけが見えた。
「くれぐれも軽率なことをしないように」
父が電話で自分に言った言葉が玲子の頭の中で響く。
(自分は軽率なことをしてしまったかもしれない)
自責の念に心が締め付けられベッドに入っても寝付けなかった。だから起きてひとり海が見える窓辺で朝が来るのを眺めていた。
誘拐犯から最初の電話を受けてから一週間が既に過ぎていた。玲子は海を眺めながら犯人から電話があった日のことを思い出していた。
電話が掛かって来たのは陽も暮れ始めたころだった。
「あなたの妹さんをお預かりしています」
男は引き続き玲子に言った。
「あなたのところにゴッホの向日葵・・《芦屋の向日葵》があるでしょう。それと引き換えに妹さんをお返ししたい」
男は向日葵と交換で妹を返すと言った。
玲子は頭が真っ白になった。
確か妹は今日東京に用事があり正午過ぎの新幹線に乗ると言って屋敷を出た。
それが誘拐された。
心臓の鼓動が早くなるのを押さえるように、玲子は向日葵の絵のことについて考えた。
向日葵の絵は実のところ今は屋敷のどこにあるのかは知らない。自分達兄弟が幼いころは居間に飾られていたが、母が亡くなった頃屋敷のどこかに父によって隠された。
だから今どこにあるかは知らない。絵の場所は父だけが知っている。
玲子は電話口で向日葵の絵がどこにあるのかは知らない、父だけが知っていると言った。
男は玲子の返事を聞いて無言だった。
そして次に「冗談はよして下さいよ」と言った。
「家族であるあなたが知らないはずはないでしょう。冗談が悪すぎる。あまり悪い冗談で妹さんの命と引き換えにするのは良くないと思いますがね。それだけではない。あの絵には秘密がある。それを私は知っていましてね。もし絵が手に入らなければそれをマスコミに流そうと思っています。もしマスコミに広まるとあっと言う間に名士乾洋一郎と乾グループの信用はがた落ち、結果としてグループを支える皆さんにも大変ご迷惑がかかることになるでしょう」
「しかし、知らないものは知らないのです。今父はヨーロッパに出かけています。早くても日本に戻ってくるのは八月の初めです。それまでは分かりません」
ふふと笑う男の声の後に一呼吸沈黙があった。沈黙の後、男は鋼の様に鋭くなった声音で命令調に玲子に言った。
「探してくださいよ。屋敷中くまなく」
そう言ってから男は抑え込んだ吐き出した怒りを隠すように、静な口調で話し出した。
「まぁ、いいでしょう。確かにあの名画だ。お父さんがどこかに隠されているのかもしれない。今はあなたの言葉を信じ、八月まで待ちましょう。こちらとしては何も急いではいない。ですがそれまで妹さんは大事に預からせていただきますよ」
「妹を電話に出してください」
玲子は男に言った。
「それは取引の引き合いとしてはいさかか不釣り合いだ。だがこちらが本当に預かっているという証拠をそちらに見せないと嘘だと思われてもいけない。だから近いうちに妹さんをお預かりしているという証拠をお届けしますよ。そちらに本気になってもらわなければなりませんからね」
「証拠・・?」
玲子の不安な言葉を聞いて、男は笑った。
「何も指とかを切って送ろうとしているわけではない。ちゃんと絵が手に入れば無傷でお返ししますよ。それが紳士的取引と言うものだ。それではまた電話しますよ。分かっているかと思いますが、勿論警察に連絡などしないで下さい。では、また」
電話はそれで切れた。
切れた受話器を持ちながらしばし呆然としてその場に立っていた。
それを見ていた年老いた女中が玲子に声をかけた。
その声を振り払うようにしながらその場を離れると庭に出た。庭に出ると走り寄って来た小さな白い犬を抱きかかえた。
心配した女中が追いついてきて玲子に声をかけた。
「たまきさん・・」
玲子は女中の顔を見た。
「妹が誘拐された・・」
玲子は電話の内容を話した。
話し終えると一人になりたいと言って庭の青いベンチに腰を掛けた。
犬の毛を触りながらどうすべきか考えた。
警察へ電話すべきだと思った。
しかし犯人は電話口で最後に何かを含ませるかのように言って電話を切った。
(おそらく警察へ連絡すれば妹は無事に済まない)
玲子は直感でそう感じた。
(絵を探そうか)
屋敷をくまなく探せばもしかしたら見つかるかもしれない。そうすれば妹と交換で犯人に渡すことができるかもしれない。
だが、と思った。
父の大事な絵を無断で渡すわけにはいかない。あの絵のことについては父だけが決める事柄だった。
しかし、その父はヨーロッパに行っており留守だった。
一人で考えなければならなかった。
留守の家を任されている自分として何をすべきかと思った。
犬の甘える声が聞こえた。
玲子は犬の頭を撫でながら窮地に追い込まれた自分はいま誰かに甘えたいのだと思った。
長女として妹の世話を見ている自分としては普段から誰かに甘える姿など見せることはできない。
そして父は乾グループを率いるリーダーだ。
その長女として普段から当然ながら毅然としていなければならない。
病気で伏せる日々が続いているがその気持ちは忘れたことがない。
しかし今回だけはそうはいかない。
(父に甘えるべきだ・・)
相談しようと決めて席を立った。
そして父の書斎へと向かった。書斎の机の上に父の予定表があった。それを見て今日泊まっているホテルへ電話を入れようと思った。
書斎へ入ると玲子は部屋の電気を点けた。
部屋が明るくなり重厚な造りの机の上にペンと手帳が見えた。
(手帳に父が止まっているホテルの電話番号が書かれている)そう思うと少し足早に机の側に行き手帳を開きたいと思った。
手帳を手に取って開こうとした。
(ん・・?)
玲子は手帳の下に青いアルバムがあるのが分かった。
向日葵の写真が入っているアルバムだった。
父は必ず海外へ行くときはこれを忘れずに持って行った。それがここに置いてあった。
玲子は手に取った手帳を置くとアルバムを開いた。
開くと向日葵の絵の写真が出て来た。
(父の向日葵)
玲子は心で呟いた。
幼い頃に見て以来久しかった。
原画は屋敷のどこにあるのか知らない。だから写真としてもこの絵を見るのはかなり久しぶりだった。
(美しい・・)
玲子は思った。
子供の頃には思わなかった感動が心に広がった。この絵が世間で芦屋の向日葵と言われているのは知っている。
だが妹と自分のなかでは「父の向日葵」だった。
アルバムをめくると同じ向日葵の写真が出て来た。
(同じ向日葵の写真?)
また次のページをめくると同じ向日葵が出て来た。
それが六枚あった。
そして空のページを挟んで今度はまた同じ構図で六枚の向日葵の写真があった。この六枚は少し写真のふちが黄ばんでいた。先程の六枚より古い時期に撮影されたものだと分かった。
(写真が全部で十二枚・・どういうことだろう。写真が劣化したときの為だろうか・・)
玲子は丁寧に新しい写真と古い写真を二枚取り出して並べた。
見比べたがやはり同じものだった。
(誰が撮影したのだろう・・でもこうして同じ構図の写真が並ぶと誰の撮影かわからない)
玲子はそこではっとして顔を上げた。
(そう、同じものであればそれが本物であるか分からないのでは・・)
玲子は急いで書斎を出て電話のところに行った。
向日葵の絵のことで何かあれば権田さんに相談するようにと父から聞いている。
だが電話をすれば妹が誘拐されたことも話さなければならない。
(権田さんなら秘密は守ってくれる)
電話を掛けた。玲子は掛けながら思った。
(同じものであれば、それが本物に近ければ近いほど・・)
電話の向こうで男の声がした。
(父が戻る八月までに終わらせなければ・・)
ギャラリーLEONの前オーナー権田の声だった。
「権田さん、玲子です。あの向日葵の絵のことで少しお願いしたいことが出来ました。大変なことが起きたのです。妹が・・、どうやら誰かに誘拐されたのです。ええ・・、そうです、冗談ではありません、本当のことです。相手は向日葵の絵と妹を交換条件にと言ってきました。そのことで力を貸していただきたいのです」
空が白むのが分かった。
玲子が物思いに耽る間に船は淡路島のほうに流れていった。
(同じものを用意して男にその絵を渡す。そして綾子を取り返す。それですべてが解決する・・・それが私の考えた方法・・)
そのことを権田に電話で相談した時、非常に危険な綱渡りだと権田は言った。
「しかし、それしか方法がありません」
玲子は強く権田に言い放った。
玲子の気迫に飲み込まれるように権田は電話口で言葉無く黙り込んだ。
「権田さん、誰かお心あたりはありませんか」
唸るような権田の声が続く。
玲子は受話器を手持って待ち続けた。
数秒の後、ようやく権田は口を広げた。
権田はもし相手にばれないような作品を描ける作家となると無名の作家で腕の立つ人物が適当ですと言った。
そして心当たりが「一人います」と言った。
「その方はどこにいるのですか」
「私が所有している大阪の天神橋のビルに部屋を間借りしている画家の男がいるのです。私は彼の模写をした絵を見たことがあります。彼なら問題ないと思います」
玲子はコクリと頷き唾を飲み込んだ。喉が渇いているのが分かった。
「彼に会いますか?」
「会います」
そう言って、昨日玲子は天神橋の権田のビルで水野静という男性に会った。
物静かで仕事には熱心な印象を受けた。
また時折見せる表情にも誠実さが漂い、玲子にも権田にも何も余計なことは聞かなかった。
秘密を守ってくれる人物に見えた。
しかしその絵を頼んだ事が父の言う「軽はずみなこと」になってしまっていないかと思った。
父と妹を誘拐した男との電話の内容はどうだったのか、そんないくつかのことが胸に去来して昨晩は眠れなかった。
眩しい朝陽が部屋に差し込んで来た。
玲子は立ち上がると窓から外を見た。街も海もはっきりと見えた。
鳥が飛ぶ姿が見えた。
(連絡を待つしかない)
朝陽に照らされながら静かに鳥が飛んで行く先を見つめた。その先に雲の切れ間が見え、そこから青い空が見えた。
その空を見て、深く息を吐くと次に父から連絡があったら聞きたいと思った。
それは男が言った向日葵の絵の秘密とは何かだった。
白樺の木々の中から鳥が飛ぶのが見えた。
もう三日が過ぎた。
監禁されているのだが、特別何か行動に制限を受けているわけではなかった。
食事もできた。男との一緒の食事だが内容はとても良いものだった。どこかにシェフが居るのかとても良い料理ばかりだった。
食事だけではなった。入浴も自由に家を歩き回ることも、書斎で本を読むことも散歩もできた。
散歩をして建物の外観が分かったのだが、四方が白い壁でできておりまるで小さな私設の美術館を思わせた。
唯、建物の中には外部と接触できるようなものが何も見当たらなかった。
テレビもラジオも電話もなかった。
(不思議だ、まるで桃源郷のような場所だ)
綾子は思った。
耳を澄ませても車の音は聞こえず、鳥の鳴く声だけが聞こえた。
逃げ出そうと思えば逃げ出せたが、不思議なことにこの屋敷に通じる道が見当たらなかった。
短く刈り取られた庭の向こうは白樺の林だった。その林のどこにもこの建物に通じる道が無かった。
夜は明りがほとんど見えず、暗闇の中に輝く星々が見えた。
全く街との距離が分からなかった。これでは逃げ出したとしも途中で発見されるか、下手をすれば林の中で迷い餓死するかもしれなかった。
正午に綾子は居間に呼ばれた。食事をする部屋だった。
そこに行くと男がいた。しかしそこに居たのは男だけではなかった。
年老いた身なりの整った車椅子に乗った婦人が居た。綾子は驚いた。
それを見た男が綾子に言った。
「驚かれましたね」
綾子は老婦人のほうを見ながら男にええと言った。
老婦人は綾子を見るとにこりと微笑した。
綾子も軽く頭を下げた。
「どうしてこんな山奥に・・」
綾子は男を見て言った。
「さぁどうしてでしょうね、それは秘密ですよ」
「何時頃からここに?」
綾子は老婦人の側に寄りながら言った。
老婦人は言葉に反応することなく、ただにこにこしていた。
「おばあちゃん・・?」
綾子は不思議そうに老婦人の顔を見た。
「重度の糖尿病でね、視力も悪くなっているのですよ。耳はもう殆ど聞こえません」
男の言葉に綾子は振り返った。
「なぜ、こんなところに?病院へ連れて行った方がよいのでは?」
「心配は不要です。定期的に病院に連れて行き医者には見てもらっています。薬も十分にありますからね」
男は車椅子をテーブルの側に寄せて、自分も席に着いた。
「それに彼女はあなたより先にここに来ているのですよ。まぁ別の部屋で過ごしていましたが」
それを聞いて綾子は驚いた。
この三日間、自分とこの男以外の人の気配が全くしなかったからだ。
「同じ建物に居て顔を合わせないものあまりにも変でしょう。だから今日は三人でランチでも一緒にと思いましてね」
男が顎髭をさすりながら、綾子に言った。
老婦人は相変わらずにこにこしながら綾子を見ていた。
「さぁかけて下さい。今日は鴨料理です。お口に合えばいいですが」
綾子はたまらず男に言った。
「あなたは一体何者です?こんな人気もない山奥にこのような見事な邸宅を構え、多くの美術品に囲まれて住んで居る。そしてここに通じる道もないのにこうしたお年を召したご婦人が住んでいる。月に一度の診察?どうやってこの隔離されたところから行けるのか私には分からない。全てが私の想像を過ぎている」
男は綾子の紅潮した顔を見ながらはははと笑った。
笑い終えると、指を立てて綾子に言った。
「成程、あなたの言うことはごもっともだ。確かにおかしいことばかりですね。隔離された世界で何故こうも生きているのか。あなたは道が無いといましたね。それは本当でしょうか。見落としていないでしょうか?」
「それは無いと思います」
「それなら結構です。では言いましょう。この建物に通じる道は地下にあるのですよ」
「地下ですって?」
驚いて綾子は言った。
男は立てていた指を床に指さした。
「そうです、地下にあるのですよ。この建物のどこかからか通じているのです。まぁそれは言えませんがね」
困惑した表情をして綾子は男に言った。
「まるで、空想・・」
「事実です」
男が手短く言った。
「事情は色々あるのですよ。正直に言いましょう。ここは戦時中日本陸軍のある施設だった。そしてそれは秘密の場所とだけ言っておきましょう。その施設の機能をそのまま生かしてここに邸宅を立てたということですよ」
そこで老婦人が手を叩いた。
「護さん、食事にしましょう」
綾子は、老婦人を見た。
「護さん?」綾子が言った。
「護さん、食事にしましょう」
老婦人が確かに言った。
綾子は男のほうを見た。
「あなたの名前ですか?」
男は照れたように、ばれましたかと言った。
「ええ、そうです。今日から護と言ってください」
護と言われた男は、冷蔵庫から鴨肉料理を取り出すとそれを三人分それぞれの机に置いた。
それを見た老婦人がはしゃぐのが分かった。
それぞれにナイフとフォークを渡すと、老婦人はきれいに鴨肉を取り分けて口に頬張った。
「護さん、今日の料理はおいしいわね」
護が老婦人に答えた。
「そうだね、とてもおいしいね」
綾子はナイフを手にしたまま護に言った。
「この方はあなたの奥様?」
護はそれには答えず無言だった。
その代り綾子に別のことを言った。
「食事のあとあなたの写真を撮らせていただきますよ」
「写真?」
綾子は護の顔を見た。
「裸で撮らさえてもらいますよ。あなたの神戸のご家族に送りますから」
「何を言っているのですか?何故、裸に・・?」
「あなた方のご家族が本気になってもらわなければなりませんからね」
呆然として綾子は護を見た。見るからに紳士そうな男が自分の裸の写真を撮るという意味が分からなかった。
もし、自分の身体に何かするものであれば舌を噛み切ろうと一瞬で思った。
綾子の強張る表情を見て男は笑った。
「モデル料は払いますよ。勿論現金であなたのご家族のもとに写真と一緒に送りますよ」
「どういう事ですか」
「なぁに写真を撮らせてもらうだけです。ヌードでね。まぁヌードモデルになってもらうということですよ。何もあなたが今考えたような猥褻なことなんてこれっぽっちも無いですよ」
綾子は顔を赤くして何か言いだそうとしたが男の言葉がそれを遮った。
「あなたは《芦屋の向日葵》を乾さんから手に入れるための大事な商品だから傷等つけるつもりはこれっぽっちもありませんよ。僕は何事も穏便に進めたい性分ですから」
綾子は呻くような思いに駆り立てられる心を押さえながらナイフを鴨肉に差し込んだ。
自分を呼ぶ女中の声で目を覚ました。
窓から朝陽に照らされて変わってゆく芦屋の街を眺めていたが、どうやらうとうとして眠ってしまった。
自分を呼ぶ声が玄関から聞こえるのが分かった。部屋の時計を見ると午前十時を少し過ぎていた。
その声が少し急いでいるのが分かる。
部屋を出ると階段を下りた。急ぎ足で玄関へ向かう。
途中で鈴の音が近づいてくるのが分かった。愛犬のコローだった。尻尾を振りながら小さな足取りで小走りに玲子の足元に寄って来た。
「コロー、今日もご機嫌様ね」
玲子の言葉にコローが甘い声で低く鳴いた。
コローを抱いて玄関へ行くと女中が封書を持って立っていた。
「たまきさん、それは?」
「先程郵便が来てその中にこれが入っていたのです」
玲子はたまきさんから一通の黄色い封書を受け取った。
表には住所と自分の名前が書かれている。
「お嬢さん、差出人を見て下さい」
そう言われて封書を裏返した。
「これは・・・・」
差出人の名前が“乾綾子”と書かれていた。
「どういうこと?」
表をもう一度見た。差出先の郵便局の消印は東京都新宿になっていた。
「東京都・・新宿・・」
呟くと玲子はたまきさんを見た。
日付は昨日だった。
「差出日は昨日・・」
玲子は女中と目を合わせて、ゆっくりと封書を開けた。
中に写真とむき出しの現金が見えた。
玲子は丁寧にそれらを取り出した。
現金は六万円入っていた。
写真を玲子は見た。
「これは・・」
玲子は写真を見て唸った。
写真は綾子の裸婦だった。
白黒の写真ではあったがベッドに身体を寄せて両方の乳房を出して横たわっている。肩の一部と腰に薄い生地が掛けられていた。
写真の下に白いペンで1945年8月5日と書かれていた。
写真を手にしたままでいると電話が鳴った。
女中が電話を手に取った。
玲子は写真を手にしたまま、写真の綾子の表情を見た。決して脅迫されて無理やりと言う感じがしなかった。
(妹は、決してなにか強制的にモデルをさせられている感じがしない・・)
「お嬢さん」
振り返ると受話器を持った女中が自分を見ていた。
「ギャラリーLEONの権田さんです」
玲子は側に駆け寄り受話器を受け取った。
そして息を整えてから電話に出た。
「玲子さん、権田です」
しっかりとした口調で権田の声が聞こえた。
「おはようございます。玲子です。昨日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。大阪まで足を運んでいただきありがとうございます」
「とんでもありません」
「玲子さん、今日はお時間がありますか?昨日の向日葵の件で少しお話をしたいことがあるのです」
玲子は受話器を強く握りしめて権田に言った。
「権田さん、実は私もお話ししたいことができたのです」
「そうでしたか」
「ええ、そうなのです。権田さん・・実は」
そこで言葉を切ると、息を大きくついた。
「実は妹の写真が送られてきたのです」
「ええ?綾子さんの写真ですか?」
「そうです。現金が六万円入っていました」
「現金・・・」
権田が考え込むような唸り声が聞こえるのが分かった。
「そうですか。何かあったのかもしれません。私の方もあの向日葵の絵の事で大変なことになりそうなので、玲子さんにお伝えしなければいけないことができたのです」
「それは・・?」
今度は権田が息を切った。
「実は・・・・警察が動いているようなのです」
「え・・っ、警察が?」
「そうです。今朝、私も昨日のことが心配だったので水野さんのところにお伺いしたのです。しかし彼は出かけた後で行き違いになりましたが、その時出て行く彼の後を警察の車がつけてゆくのを見ました」
「何故警察が・・」
玲子は途方に暮れるように言葉を漏らした。
「玲子さん、私はそのことであなたに事情を説明して謝らなければならない。どうでしょう、今日元町の私のギャラリーでお会いしませんか?幸い今日ギャラリーは休みですので、誰も来ません」
玲子は時計をちらりと見た。
「分かりました。それでは午後二時にお伺いしましょう」
「ええ、結構です。その時間にギャラリーでお待ちしています」
それで権田は電話を切った。
玲子は胸の動悸が耳に聞こえるのが分かった。
父の軽率なことはしないようにと言う言葉が今背中に強くのしかかってくるのが分かった。
乾洋一郎は電話口で直ぐに自分に繋いでくれるよう英語で言った。
数秒の後、電話のノイズが切り替わったのが分かった。それと同時に男の声が聞こえて来た。
「こんばんは、乾さん。日本には確認がとれましたか」
洋一郎は努めて冷静に答えた。
「日本に確認は取った。確かに君の言う通りだった」
「そうでしょう。僕は嘘を言いませんから」
洋一郎は電話口に強く耳を押さえるようして相手の言葉や背景に聞こえる音を探るように注意深く電話応対をしようと思った。
「それでいかがです?《芦屋の向日葵》を僕に渡していただけますかね」
「まず娘を電話にだしてくれ」
洋一郎は強いしっかりとした口調で男に言った。
相手が電話口でふふと笑う声が聞こえた。
「何がおかしいのかね?」
「いえ、さすが親子だと思いましてね。ご実家に電話をさせていただいた時、娘さんも同じことを私に言いましたから」
眉間に皺を寄せて洋一郎は見えない男の顔を睨み付けた。
「君、もしもだ。もし、玲子にも手を出すようなことがあれば俺はお前を絶対に許さない」
怒張を含んだ声に、男がいやこれは失礼と言って来た。
「失礼しました、乾さん、笑いまして。ですがね、いまここに娘さんはいない。別の場所に居るのですよ」
「別の場所?」
「ええそうです。安心してください。手荒なことはしていませんし、娘さんにはそこで私の身内の者の看護をしていただいています。逆にこちらの方が感謝しているくらいですよ」
洋一郎は皺を寄せた眉を開いて男に言った。
「看護・・?だって、どういうことだ」
「おや、余計なことをおしゃべり過ぎたみたいです。それは忘れて下さい」
男は咳を払うと洋一郎に確認するように言った。
「娘さんの身柄がどうなるかはこちら次第であることは変わりない」
男は息をついた。
息の切れ目からヒューと音が鳴った。何かが男の背後でスピードを上げて過ぎていく音のようだった。
(何の音だ?)
洋一郎は耳を澄ませた。
その音の中に何か規則的に動く音が聞こえた。
(これは・・貨物の車輪が動く音では)
その音を遮るように男は話しを続けた。
「乾さん、そちらのご実家に娘さんが確かに生きているという証拠をお送りします」
「証拠?」
「ええ、心配しないでください。何も髪や指を切ったりして送るなんてことはしませんよ。楽しみに待っていてください」
「君!!娘に手荒なことをしたら・・」
「許さないのでしょう?大丈夫ですよ、乾さん。娘さんはあなたから《芦屋の向日葵》をいただく為の大事な商品だ。僕は何事も穏やかに進めてゆきたい性格なのです」
洋一郎は受話器を強く握りしめると男に言った。
「良いだろう。あの絵は君の物にするがいい。だがあの絵がどこにあるのかは私しか知らない。私は直ぐには日本には戻れない。それでもいいか?」
男の吐く息の音が聞こえた。
その音に交じってカンカンという踏切の音が聞こえた。
(踏切の音だ)
洋一郎は思った。
どこか近くに線路があるようだった。
「乾さん、わかりましたよ。こちらとしては別に何も急いでいる訳ではない。待ちますよ、あなたが日本の戻られるのを」
「八月だ、八月の初めには必ず戻る」
洋一郎は語調を強めて男に言った。
「ええ、わかりました。それでは一か月近く、娘さんはこちらで大事に預かっておきますよ」
男の声が少し遠くに聞こえた。電話を切ろうとしているのが分かった。
洋一郎はしがみつくように言った。
「まて、一つ聞かせてくれ」
男の遠くなる声が近くに聞こえた。
「何です?」
「君は何者なのだ。そして何故家族しか知らないあの向日葵のことを知っているのだ」
洋一郎の声に男は黙った。
「残念ながら私の知り得る人物で、このように娘を誘拐して脅迫するような人物はいない」
男は黙りつづけた。
「君は一体、誰なのだ」
洋一郎は自分の言葉が相手の心に届くことを期待した。
男はゆっくりと唇を動かして言った。
「私はあなたの家族ですよ。忘れたのですか。だから向日葵の絵のこともあなたが隠している秘密も知っているのですよ」
洋一郎はそれを聞いてえっと言った。
(向日葵の秘密だと?)
洋一郎は眉間に皺を寄せた。
(そんなものは無い・・、何を言っているのだこの男は?)
「では近い内にご実家に娘さんが生きているという証拠を送ります。それが確認できた頃にまたお電話します」
それで電話は切れた。
洋一郎は受話器を持ちながら相手が言った言葉を心の中で反芻した。
(絵に秘密等何もない、それは相手の詭弁だ!それよりも忘れた?私の家族?・・だと・・・)
洋一郎は男が残した謎かけに身体が痺れる思いがした。
(自分には兄弟はいない、亡くなった父に母以外の女がいて腹違いの兄弟がいるわけでもない・・あと私の家族と言えば、それは娘二人に亡くなった妻・・あと血のつながりの在る叔父も従兄弟たちも、一族の皆はグループの各関連会社のトップとして仕事をしている。こんなことをしようにもしようがない。私の家族ではもう・・それ以外には・・)
懸命に考えた。
男の言葉が耳に響く。
(家族だと・・)
頭を抱えながら、昔の記憶を遡った。
(誰かを・・忘れていないだろうか・・・)
洋一郎は煩悶しながら、自分の幼少の頃の記憶を探った。
もし、自分が何かを忘れているとすればこの頃の大人たちの会話にあるだろうと感じた。
しかし覚えている事など数少ない。
自分が幼少の記憶としてはっきりと覚えているのはゴッホの向日葵を見た時だった。
その時自分は父に連れられて大阪に居た。
そのビルの一室で初めてゴッホの絵を見た。
青い背景に描かれている黄色い向日葵だった。洋一郎は二、三人の人に囲まれて大きな向日葵の絵の前に立っていた。
その時誰かの声が洋一郎に聞こえた。
「先生、この向日葵・・僕にも描けるでしょうか」
青春の輝きに満ちた挑戦的な若い青年の言葉だった。
その声で洋一郎は青年の顔を見た。
洋一郎はそこではっとした。
そう思うと同時に自分がいつも手にしている向日葵のアルバムが音もたてず開くのを感じた。
洋一郎は思い出した。
(しかし、彼は既に・・・)
洋一郎は、そう思いながら「在り得ない・・」と呟いた。
何故なら・・
洋一郎はふらつくようにして歩くとベッドに腰を下ろした。
「土岐護さんは、既にもう亡くなっている」
電車に揺られながら近松は元町を目指していた。
今日は非番だった。
朝起きて何をしようかと思いながら顔を洗い朝刊を開いた。地方欄のところを見ると小さな記事が載っていた。
“安治川河口で若い女性の水死体が発見される”
“女性の名前は田川洋子”
近松は朝刊を閉じると柱時計を見た。時刻は九時を過ぎたばかりだった。
隣の部屋を覗くと誰もいなかった。
(そう言えば、今日朝から心斎橋に出かけると言うてたな)
昨晩遅くに帰ってきた近松に妻が言った言葉を思い出した。
(となると、朝飯は無いな・・)
腹を押さえながら台所に行き、冷蔵庫を開けた。
ラッキョウが浸かった大きな瓶が見えた。奥を覗き込んだが何も食べるものが無かった。
(これしかないか・・)
近松は瓶を取り出して蓋をひねるとラッキョウを取り出し口に咥えてガリッと噛んだ。
酢のなんともいえない味が口に広がった。
ラッキョウを噛み砕きながら近松はシャツを着てズボンを履いた。
そして手にサングラスをかけると玄関を出た。
(元町のLEONへ行こう)
そうきめて我孫子にある自宅を出て、電車を乗り継ぎ元町へと向かった。
電車がリズム良くガタゴト音を立てて工業地帯を抜けてゆく。 そのうち大きな川に出た。
(武庫川か・・・ここもだいぶ昔と変わったな。対岸の道も整理され宝塚の方へ向かう場所には住宅が建ち始めている)
思えば新婚生活は武庫川だった。
もう三十年も前になる。その後妻の両親が亡くなったのを境に妻の我孫子の実家に移り住んだ。
(あのころは俺も若かった)
近松は目を細めながら過ぎてゆく武庫川を見つめながら思った。
(刑事になってあっという間に時間が過ぎた。多くの事件も見てきた。中にはもう二度と見たくないものもあった。そんな俺ももうあと二週間足らずで退職する)
電車がゆっくりとカーブを曲がり始めた。
(俺みたいなやつでも社会には役に立っただろうか)
電車のブレーキの音が耳に響く。
今度は右に電車がカーブしてゆく。
(LEONの権田君には特に世話になった)
近松は今の部署に配属されてから権田と知り合った。美術品についてはやはり業界のプロの助言が必要なことが多い。
配属されたばかりの何も知識が無かった近松を色々権田の知識が助けてくれた。
知識だけでは無かった。
ある美術品の盗難事件で近松は決定的なミスを犯した。それを権田が助けてくれた。
西宮の或る邸宅で一枚の絵画が盗まれた。
その絵画は神戸港の倉庫でアメリカ向けの船に積まれる直前発見された。
若い近松は興奮を抑えながらそれを証拠品として押収する為に警察車両に積みこもうとしたところ誤って手を滑らし額ごと地面に落としまった。
その日、天候は悪く朝から激しい風雨に見舞われていた。
犯人を取り押さえて気持ちが安心したのか手を滑らしてしまい絵画は額もろとも水濡れになった。
初歩的なミスだった。
雨に打たれながらどうすべきかと思った。
絵画は塗料が落ちて滴が額にまで垂れていた。
その時その場に捜査に協力する為、現場に来ていた権田が近松を見て近づいて来た。
雨に濡れて途方に暮れている近松の側に来て傘を差した。
近松は側に来た権田を見て言葉を漏らした。
「やってしまった・・あろうことか、個人にとって大事な作品を駄目にしてしまった」
権田は落とした絵を見て近松に小さな声で言った。
「近松刑事、もし宜しければですが・・暫く・・数日この絵をお預かりさせていただいても宜しいですか」
意味を理解できず近松は権田を見た。
権田は含み笑いをしながら近松を見てにこりと笑った。
「私のほうで修復しておきますから」
権田は額に濡れた髪を払うと「できますか?」と言った。
「大丈夫です。腕のいい画家を知っていますから」
権田はオールバック髪型の額に皺を作りながら近松に笑って言った。
「大丈夫ですよ」
近松は唯黙って頭を下げた。
そしてその日から三日後、絵は完璧に修復されて近松の手にもどった。
近松は面目を保った。
絵が無事に戻って来たその日の夕方、近松はLEONを訪ねた。
店は閉店間際だったがガラス扉越しに権田が居るのが分かった。
近松は静かに扉を開けるとギャラリーに入った。それに権田は気が付くと顔を上げてにこっと笑った。
近松は頭を深く下げた。
そして顔を上げて権田に言った。
「権田さん、あなたに一生分の借りが出来ました。この近松寅雄、何か権田さんのことで困ったことがあれば必ずご恩を返します」
権田は真面目に話す近松の顔を見て、破顔して大きく笑った。
「いや、いや。そんな真面目に近松さんに言われたら僕の方こそ緊張しちゃいますよ」
「しかし、今回の件は自分でどうなるものでもない。あの絵は見事な修復だった。恐れ入りました」
再び、近松は頭を下げた。
権田が近寄って頭を上げてくださいと言った。
「どうです、コーヒーでも?それとも元町の高架下の串カツ屋で一杯行きますか?」
今度は権田が破顔して、手を振った。
「いや、いや権田さん。今夜は流石にいけないわ」
そして小さく笑った。
「じゃそこに座って下さい。いまコーヒー持ってきますから」
そう言うと権田は奥に入った。
近松はソファに腰を掛けると壁をゆっくりと見回した。
前衛的な作品が並んでいた。特に一枚の絵が気に入った。
絵を見ている近松にコーヒーカップを持ってきた権田がソファに腰を掛けながら言葉をかけた。
「その絵、いいでしょう?」
「うん、ええな」
近松が絵から目を離してコーヒーカップを口に含みながら権田に言った。
「シュレリアスムと言います」
「難しい名前や?作品のタイトルかい?」
「いえ、絵のジャンルです。ほらジュルジュ・デ・キリコやダリなんかと一緒です」
近松は再び絵を見て頷いた。
「あんまりその辺は詳しくはないけど、ええもんはええな」
権田はそうですねと言った。
「今、近松さんが見た絵は飯田操朗の作品でタイトルは《朝》と言う作品です。飯田さんの作品は戦争の為、殆ど無くなってしまいました・・・」
「戦争か・・・、まだ身近に感じるんやな。もうすでに何年も過ぎたというのに・・」
「そうですね・」
権田はカップに口をつけるとコーヒーの表面に語りかえるように言った。
「多くの画学生が前線に行き亡くなった。この前もそんな出征して亡くなった画学生達の作品を探しているという男性が来ましたよ」
言葉がカップの中を流れるように走り小さく波立った。
近松は小声でそうかと呟いた。
近松はそれで言葉を切った。戦争で自分は二人の兄を失った。自分は二人の兄の顔を知らない。出征前の写真だけが自分と兄弟たちとの繋がりだった。
近松は小さく息を吐き出した。
「ところで、権田さん」
権田が近松を見た。
「あの絵の修復はほんまに見事やった。もしよかったらあの作家の名前を教えてくれないか」
権田がコップを置いた。
「近松さん・・」
「ん?」
「あの作家はプロではないのですよ」
「じゃ、素人なん?」
ええ、と微笑しながら権田は答えた。
「そうか、しかしすごい腕だな。あのピカソを修復するのだからな」
権田はありがとうございますと言った。
盗まれた作品はピカソの作品だった。そのピカソを見事に修復した画家を権田は抱えているのだ。
「いや、もちろん権田さんにも世話になった。だがそれを修復した画家にも助けられた。だから恥ずかしいのだがその画家の絵を一枚買わせてもらおうと思ってな」
権田は深く息をついた。
「その方は・・実は模写を専門にしているのです」
「模写を専門?」
眉をひそめて近松は言った。
「近松さん、心配しないで下さい。贋作屋ではありませんから」
「まぁ・・そうやろうね。権田さんの贔屓やからね」
「ですので、その画家の自作は無いのですよ」
権田はそこで膝をポンと叩いた。
「うん、わかった。じゃその画家にはありがとうと伝えてください。近松寅雄が感謝していると」
権田は笑顔になってソファから立ち上がった近松からカップを受け取った。
「ほな、権田さん、行きますわ」そういうと扉に向かった。
権田も立ち上がり、急いで扉を開けた。
「また、来てください、近松さん」
「うん、また来ますわ」
そう言うと右手を出した。
権田もその手を握り軽く握手をした。
近松は手を離すと背を向けて手を振って元町の繁華街の中に入っていった。
ガタンと音がした。昔を思い出しているうちに電車が人の溢れているホームに入って行った。
近松が駅のホームを見ると三宮の看板が見えた。
(次やな・・)
そう思うと腹が鳴った。
(朝飯食うの忘れとったな・・やっぱラッキョウじゃ腹がもたんな。元町で降りたら串カツ屋で腹ごしらえをしてLEONに行くか。店には行く前に電話したらええやろ)
丁度昼飯時や、そう思いながら近松は三宮を出て行く電車に持たれながら車窓から見える青い空を見た。
(夏も近い・・・)
今年は天神祭りを久々に妻とゆっくり見れるな・・そう思ってぐぅと音を立てる腹を隠すように押さえた。
「高木さん、ここで待って下さい」
玲子は運転手の高木にそう言うと車を降りた。
下りて手早く日傘を差した。
少し急ぎ足で歩き始めた。
元町の目抜き通りから少し入ったところにLEONはあった。
コンクリートを白く塗った壁に緩やかに地下へと降りる階段がある。
玲子は階段を下りた。
階段を下りるとガラス張りの扉が見えた。内側からカーテンが掛けられているが中から明りが見えて人影が動いているのが分かった。
玲子は人影が止まるのを待って声をかけた。
「権田さん、乾です」
人影が玲子の声に反応して扉に近づいてきた。
そしてカーテンを捲ると権田が顔を出した。
扉を開けるとさぁどうぞ中へと言った。
カーテンを潜ってギャラリーの中に入った。
近くにソファがあった。
「玲子さん、そこにおかけ下さい」
権田はギャラリーの奥に入り、玲子は言われた場所へ腰を下ろした。
ソファの上に新聞の朝刊が置かれていた。
ギャラリー内を見回すと白い壁に小さなライトが天井に掛けられその下に作品がいくつか展示されていた。
それらの作品は自分が良く知っている印象派の作品ではなく現代的な作品ばかりだった。
奥から権田が紅茶をいれて戻って来た。ソーサに輪切りの檸檬が置かれていた。
「どうぞ、玲子さん。紅茶を召し上がってください」
ありがとうございます、と言って玲子は紅茶に口をつけた。紅茶の中に含まれているのかヴァニラの香りがした。
玲子はカップをソーサに戻した。
「玲子さん、お呼び出しして申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。私も権田さんに妹のことで相談しなければならないことができましたから」
そう言って玲子はハンドバッグから黄色の封書を取り出した。
「これが、今日届いたのです」
権田は失礼します、と言って封書を取り中身を取り出した。
現金六万円と写真が見えた。
現金を取り出して机に並べた。
「特に何も・・ない、普通の紙幣ですね」
次に写真を見た。
玲子は目線を少し写真から外して壁に掛けられた絵を見た。
自分の姿ではないとはいえ、肉親のそれも妹の裸婦を他人に見られるのは恥ずかしかった。
権田は玲子のそうした気持ちを汲むことなく写真を冷静に注意深く見た。
そして腕を組むと玲子に言った。
「この写真を撮られた方はプロの方ですね。素人の方が撮ったものではないです。一目で分かります」
玲子は言葉に振り返った。
「プロの方の?」
「ええ、そうですね。写真の中で白いシーツの部分があるのですがここに青白さというか、そうした部分が見受けられない。白を見せるには陽光の四方をきちんと押さえなくてはなりません。恐らくちゃんとしたスタジオで撮影が行われていますね」
続けて権田が言った。
「それに、このポーズですが・・・僕はこのポーズの絵を知っています」
権田は玲子の顔を見た。
「この写真と似たポーズの絵があるのですか?」
「ええ、ちょっと待って下さい」
権田は席を立つと奥の方に行き、何かを探し始めた。
(綾子はプロの方のモデルをした?何のために?それに似たような絵がある・・・どういうことだろう。何かのメッセージだろうか)
考えていると、権田の「在った」と言う声が聞こえて来た。
権田は手に一冊の画集を手にして戻って来た。それを机の上に置いた。
タイトルがあった。《夭折した画家達の歌》と書かれていた。
「これです。玲子さん。この中にありますよ」
手早く権田は画集を捲り始めた。
最初のページには佐伯祐三の絵があった。走り出すような強烈は筆跡で描いた巴里の街の絵が見えた。それが数ページ続いて次にモディリアー二の絵が見えた。イタリア人の画家だった。強烈な生命に満ちたオレンジの裸婦が見えた。
「これだ・・」
権田がそう言って玲子の顔を見た。
「これです、見て下さい。同じポーズでしょう」
玲子は身体を乗り出して権田が開いているページを見た。
タイトルは《婦人像》
作者:中村 彝
その絵は赤いカーテンのバックに一人の少女だろうか、若い女性が乳房を見せてベッドの上のシーツに寄りかかりしっかりと正面を見ていた。
(同じだ・・、綾子のポーズと・・)
玲子は綾子の写真とその画集を見比べるように見た。
ベッドのシーツのガラは違うがほぼ同じポーズだった。
(これは・・・やはり、なにか父や私達に対するメッセージなのだろうか)
玲子は何か込み上げるものを感じて口を押えた。
そして咳をした。
急いでハンカチを口に当てた。ハンカチの中で咳を数回繰り返した。
権田が慌てて身を乗り出して玲子の背を撫でた。
「玲子さん、大丈夫ですか」
玲子は息を整えながらハンカチをしまった。
そして深く息をついた。
「権田さん、大丈夫です。ちょっと考え事をしたら急に胸が詰まりました」
「そうですか・・・」
背を撫でた手を放しながら権田は腰をソファに戻した。
玲子は権田がソファに腰を掛けるのを見てゆっくりと話し始めた。
「権田さん・・、私思うのですが、これらは父や私たちに対する何かのメッセージではないでしょうか」
「メッセージ?」
「ええ、恐らく妹を誘拐した男はこの写真を見れば必ずこの絵を見つけるだろうと考えたはずです。だからこの絵が持つ何かが私達へのメッセージなのではと思うのです」
「うーん・・成程・・・、では一緒に入っていた現金も何か意味があるのでしょうか」
「かもしれません、しかし、それは私の想像なのですが」
玲子はそう言って現金と写真を見た。
「玲子さん・・」
権田の声に玲子は顔を上げた。
「お電話でもお話しした通り僕はあなたに謝罪しなければならないことがあります」
権田の苦渋に満ちた表情を玲子は見た。
「実は警察が動いているというお話です」
玲子は唾を飲み込んだ。
「権田さん、もしや警察にお話しされたのではないでしょうね」
権田は首を横に振った。
「それはありません、玲子さんこれを見て下さい」
権田は玲子に新聞を手渡した。
先程から置かれていた新聞の朝刊だった。
日付は今日だった。中に織り込みがありそこを静かに開いた。
新聞に目を通した。
開いたところは地方欄のところだった。
それを上から順に目を下ろしていくと赤いペンで丸囲みされているところがあった。
そこには
“安治川河口で女性の水死体が発見”と書かれていた。
玲子は内容に目を通した。
(6月19日午前五時ごろ女性の水死体が安治川河口で浮かんでいると釣り人から通報在り。現在のところ身元は田川洋子(女性)職業不詳と判明しているが目下他殺の疑いで大阪府警が捜査中)
そこで権田のほうを見た。
これが権田の謝罪とどう関係があるのか意味が分からなかった。
権田は目を伏せた。
「実はその記事に出て来た女性は以前、このギャラリーに来た人物です」
ますます意味が分からなかった。
「権田さん、私・・意味を把握しかねます・・」
玲子は戸惑いながら権田に言った。
権田は伏せた目を上げて玲子に言った。
「実はその亡くなった女性がうちに来た時、ルノワールの絵を持ってこられたのです」
「ルノワール・・」
「ええ、そうです。正確にはその絵は誰かが描いた模写だったのです」
そこで玲子ははっした顔をした。
「ええ、そうです。昨日私が水野さんにお話ししていた内容を思い出されましたか。そう、そのルノワールはあの水野さんが描いた絵なのです」
権田は絞り出すように話を続けた。
「その亡くなった田川さんは実はある詐欺事件を起こしたのです。内容は知りませんがルノワールと何かの絵を交換したのです。それはなかなかの名画のようで、その持ち主が被害届を警察に出した。その届を受けて捜査に当たった刑事は私と昔からの馴染みの人物でした。それでその人物から私に腕の立つ贋作屋や模写が描ける人物を知らないかと連絡があったのです」
玲子は唇を噛みながら権田の言葉を聞き続けた。
「それで私はその刑事に心当たりがあると言ってその人物の名前を言ったのです。そう、その人物は水野さんです。勿論、私は彼がシロだと思っていますから、あくまで目通しだけと言うことで終わるだろうと思っていました。しかし、警察はそうではなくどうも重要な参考人として人をつけたようです・・」
唇を噛みしめていた玲子は自然に涙が溢れて来た。
(失敗した)そう思った。
それも父に信頼されていた人物に、だ。
「玲子さんから妹さんのお話を受けた時はまだその詐欺事件の話は出ていませんでした。それであなたに紹介したのですが・・」
「権田さん」
玲子は涙でこぼれる顔を上げた。
「彼は信頼のおける人物だと言いながらあなたは私をだましたのですね」
「いやそれは・・」権田の声を押さえるように玲子は言葉を続けた。
「もし水野さんのことを警察が調べ出したら・・、例え彼が依頼の事を黙っていたとしても私の依頼した内容が警察に知れ渡るのも時間の問題でしょう。そうなればきっと《芦屋の向日葵》について事情を探ることになるのに決まっています。あなたは初めから妹の誘拐が警察に知れ渡るように仕組んだのではありませんか」
「玲子さん・・そんなつもりは全くありません」
玲子の強い口調に押されるように権田は言った。
「しかし・・しかしですよ・・玲子さん。冷静に考えて下さい。やはりこれは明らかに誘拐犯罪です。それに犯人に偽物を渡すと言うのはあまりにもリスクが高すぎる。警察へ連絡するべきですよ」
権田は玲子に哀願するように言った。
「権田さん!それができるなら私は最初から・・」
そう言って玲子は泣きじゃくりながら体を投げ出すように膝を抱えて、声を詰まらせて言った。
「これで相手と取引が・・、できなくなる・・」
権田は膝を抱えて泣く玲子に声をかけようとした。
その時、男の声がした。
「なんや、警察、警察、言うて」
その声に権田は顔を上げた。
カーテンを潜って近松が顔をだして権田を見ていた。
「警察なら、ここにおるけど」
近松はにこりと笑って権田を見たが、権田の顔は強張り引きつっていた。
須磨の海が見えた。
水野は岸壁に腰を下ろして煙草を咥えながら静かに海を眺めていた。
行き交う小さな漁船やヨットが沖に見えた。
時より打ち寄せる波が柔らかい潮風を運んできてそれが頬に当たった。
海を眺めるのは好きだ。唯、見ていれば良い。
絵画は常に観察力を必要とする。“見る”のではなく“観る”だ。
自分は模写が専門だ。
本物を見極めながらそれを言わばコピーする。ひとつの見落としもあってはならない。だからその作品の全てを見極めなければならない。
時には美術史にもない発見もある。
色彩の中に隠された空白、途切れてしまった消えたアウトライン。
それもどれもが画家のその時を物語っている。
そうしたものを発見して触れる時、何とも云われない物語をそこから感じる。
そうしたことは絵画を深く観察することでこそ発見できることだ。
(模写は常に高い集中力がいる。海の様に漠然と眺めて良いというものではない)
遠くで汽笛が聞こえた。
小さな船がポンポンと音を立てながら進んでいった。水野は眉間を指で軽く押さえた。
(だが、海を眺めるのは良い。唯ひらひらと木の葉の様に漂えばそれで良いという気持ちにさせてくれる)
潮風と一緒に煙草の灰が前髪にかかって流れた。
消えかかりそうな煙草を地面に押しつぶして消すとポケットに手を入れて新しい煙草を出した。
煙草を口に咥えるとライターを寄せて火を点けようとした。
風が吹いて掌の中で小さな火が風で消えた。
小さく舌打ちしてもう一度火を点ける。
また、風が吹いて火が消えた。
(何だ・・ついてない)
水野はライターをポケットにしまうと口に咥えた煙草を海に向かって投げた。
投げると首の擦り傷が痛んだ。
それを軽く指で撫でた。
(浦部って野郎・・俺がルノワールと向日葵の絵を持っているような話しぶりだったな・・)
昨日、浦部が来て水野にそう問いただしていたのを思い出した。
(俺は絵なんか持っちゃいない。まぁ俺からは一言もあいつには言わなかったが。勘違いさせるだけ、させておけばいいさ)
小さく意地悪な微笑すると水野の頭上を鳥の群れが飛んで行った。
群れは空へ上り大きく旋回した。
水野は鳥を見上げながら依頼人のことを思い出した。
(乾玲子といったな・・)
瞼の下の長い睫毛で揺れる憂いを含んだ瞳を思い出すと水野は腕を動かした。
腕が動くと空にラインを引いた。
心に浮かぶ彼女の面影に沿って顔を空に描いた。
(美しい・・女性だった)
水野は空に描き終えると腕を下ろした。
(《芦屋の向日葵》・・戦争で消え去った伝説の名画だ。それを何かしらの理由で彼女は所有している。それをLEONの権田さんも知っているようだった)
片膝を抱えると海の上を行く鳥の影を見た。
(その伝説の名画を俺が複製する。その理由は分からない)
玲子が去り際に流した涙を思い出し、水野は薄く瞼を閉じた。
(何かしらの理由があるのは事実だ。だが俺はそれを詮索はしない。唯、仕事としてあの絵を描くだけだ)
鳥の群れが波間に鰯の群れでも見つけたのか集まり始めた。
(鳥は良い目をしている。空からでも小さな鰯の群れを見つけることができるのだから)
ヘルメットを手にするとバイクのほうに向かった。バイクに跨りヘルメットを被る。
そしてミラーを調整する。停車している車が見えた。
(ずっと、後をつけてきやがる)
水野はエンジンをかけた。
(警察か・・気分が悪い。俺は容疑者扱いか)
反転すると勢いよく加速した。
(巻いてやる)
そう思って勢いよく海辺の道を走り出した。
車が後をつけて走り出したのが分かった。
(神戸の市街で巻いてやろう)
須磨から神戸の中心街まではそんなに遠くはない。
(それからLEONに飛び込もう。もし権田さんがいれば少し話を聞きたい)
ソファに三人が腰を掛けていた。
権田と玲子と近松がそれぞれの時間の交わりを確認するかのように静かに目を伏せている。
近松が時計を見ると午後三時を過ぎたのが分かった。
既に沈黙して五分が過ぎていた。
玲子は赤くなった目をハンカチで隠している。
沈痛な表情で権田は沈黙していた。権田にしても自分の手違いがあったことは、玲子を見れば痛々しく感じた。
自分の見通しの甘さがこうした事態を招いている。
責任は感じている。
しかし事件は誘拐犯罪であり個人で処理をするなどと言うレベルではないと理解している。例え犯人が警察へ連絡をするなと言っても、それは無理な話だ。
だからこの事件の推移を見ながらどこかのタイミングで玲子を説得して警察へ連絡するのがベストだと思っていた。
だがそのタイミングを見極める前に思わぬところで招かざる客が来た。
その客の顔を見た。
金縁のサングラスの中で薄く瞼を閉じて近松は何かを考えているようだった。
「近松さん」
権田は声をかけた。
「ん・・・?」
少し瞼を開けて権田を見た。
「今お話しした通りです。彼女の妹の綾子さんが誘拐されて既に一週間以上が経過しています。そして犯人はこのように玲子さんに綾子さんが生きていることを私達に連絡してきています」
無言で近松は頷いた。
「警察として誘拐事件解決に力を貸していただけませんか?」
ちらりと権田は玲子のほうを見た。
玲子はハンカチで目頭を押さえたまま何も言わなかった。
「玲子さん、このように刑事さんがここにいらっしゃっています。それにお話を聞いていらっしゃる。もう立場上黙っているわけにもいきません。ぜひ協力をお願いして下さい」
玲子は首を振った。
(ほう・・)近松は思った。
「強情ですよ、玲子さん。これは素人である私達では手に負えるものではない」
(首を振らなかったな。余程、何か芯のある人物らしい)
権田は玲子のほうを見た。
「権田さん、私だけではありません。父も・・それは駄目だと私に言っているのです」
「乾社長も?」
(社長・・?)
近松は腕を組んだ。
(このお嬢さんは、どこかの社長令嬢か・・その妹が誘拐された・・)
「そうです。昨晩父と話をしました。このことは警察には言うべきではない、と。言えば恐らく犯人は取引を中止して妹の生命を・・」
玲子はそこで言葉を切った。これ以上起こり得るべき悲劇を想像したくなかった。
「乾社長にはあとで私の方からすべてお話をさせていただきます」
玲子は顔を上げた。
「警察に連絡したために妹が死んだとしたら、あなたは父にどのようにお話しされるのですか」
強い口調で睨むように権田に向かって玲子は言った。
「玲子さん・・それは」
そこで近松が手を上げて話に入って来た。
「まぁ、まぁ落ちついて、二人とも」
権田はまぁまぁと言いながら交互に二人を見た。
「つまりだ・・一週間前に誰かが玲子さん、あんたの妹を誘拐、犯人は男。男はあんたとあんたのお父さんに誘拐の事実を連絡。そして相手からは絶対警察には連絡するな、・・・ちゅうことやな」
二人は黙って頷いた。
「ほんで妹さんはまだ生きている、で、その証拠がこの写真。裸のえらい格好の写真や・・。まぁそれでこれからどうしようかと相談しているところにたまたま事情も知らん非番の刑事がのこのこ来てもうた」
近松は手を頭の後ろに組んでソファにもたれて足を組んだ。
「で、犯人は何が目的で妹さんを誘拐したんや」
じろりと近松は二人を見た。
誘拐に至るための原因が常に犯人側にあることは限らない。性的犯罪を目的とすればそれは犯人側にあるが、被害者側にもその原因がある場合もある。
現に二人の会話の中に「取引」というキーワードが出てきている。
(つまり・・こちら側に何か原因があって、犯人はその原因の為に何かを欲しがっているのだろうな)
地松は目を閉じた。
(果たして話すかな・・)
腕を組んだまま誰かが話すのを待つことにした。
「玲子さん」権田が言った。
「私がお話ししても良いですか」
玲子は無言だった。
良いとも悪いとも言わなかった。
(強情なお嬢さんやな)
近松は心の中で笑った。
(一昨年嫁いだうちの娘もかかぁに似て強気で強情やったけど、この娘も中々やわ)
権田は何も言わない玲子にどうすべきかと思った。
先程言われた言葉が心に突き刺さっている。
(確かに妹の綾子さんが無事でなければ・・私は自分の不注意では済まされない。だが犯人の言う通りこのまま私達で取引を続けても、大丈夫だとは限らない。警察の協力は絶対必要だ。そうしてもらわなければ向日葵が犯人に渡ってもご本人が無事に帰れるとは限らない)
ソファにもたれて瞼を閉じている近松を見ながら思った。
(だがそのことが公になれば・・それも危険だ)
玲子を見た。無言の責めが心に痛い。
(だとすれば秘密裏にそれを行う必要がある。しかしそれができるだろうか・・警察が大々的に動けば情報が洩れ危険だ)
ちらりと近松を見た。
(近松さんだけを抱え込めないだろうか)
権田は何故かふと近松の顔を見て思い当たることがあった。
(そういえば私はこの人に貸しがあったな)
そして顔を玲子に向けたまま言った。
「玲子さん、この刑事さんは私に借りがあるのです」
玲子の肩が少し動いた。
(ん・・?)
思わぬ内容に権田は眉を寄せた。
(どういうこっちゃ・・)
「玲子さん、この刑事さんは私に個人的な借りがあります。過去の事件で絵を修復したことがあるのです」
(げっ)と地松は声を心の中で上げた。
「その絵はピカソの作品でとても高価なものでした。それを事件の最中、破損してしまい。それを私があるルートで修復したのです」
近松は組んでいた腕を頭から外して、顔を上げて権田を見た。
「いや・・・権田さん、それは」
その言葉を押さえるように権田は言った。
「そうですよね?」
その言葉に近松は困った表情になった。
「まぁ・・そうやな・・」
突然何を言うのだろうと、近松は権田に顔を向けて問いただすような表情をした。
玲子は、そこでゆっくりと顔を上げた。
「近松さん、その時の借りを今返していただけませんか?」
組んだ足を外して、権田は交互に二人を見た。
「どういうことや、権田さん」
権田は近松の目を見ながら言った。
「秘密裏に私達に協力して下さい。近松さんのところにならば情報が集まるでしょう。それに犯罪者の情報もある。それを私達に流して下さい」
さすがにぎょっとして近松は権田を見た。
「それは・・流石に」
(恐ろしい・・)
近松は話の展開に驚きを隠せなかった。
過去に借りがあったとしても情報漏洩は重要禁止事項だ。
(在り得ん・・)
そう言おうとしたところを権田が抑えた。
「あの時、あの絵があのまま修復されずにいたら、大阪府警、兵庫県警もマスコミに攻撃されて大きな信用失墜は免れなかった。民間における大きな事件として取り上げられ県警の幹部の方も近松さんも懲戒免職・・」
「いやいや、権田さん・・」
手を出して権田は言った。
「それにあの絵の本当の所有者は権田さん勿論知っているでしょう。その絵をあなたは破損させた。もしその絵の所有者が・・総理にでも話をしたらどうなっていたか」
「総理・・?」
玲子は顔を上げた。
(あかんな、これは・・)
ここで手を近松は上げた。
「わかった。権田さん。あの時俺はあなたに言ったことは忘れていない。約束は守ろう。俺はあと数日で定年になる。それまでは署に休みを届け出る。それでその期間は個人的に協力をしよう。これなら別に警察に連絡したことにならないだろう。秘密を守ってそのままこの事件を誰にも言わず俺は退職する」
近松はそこで大きくはぁと溜息をついた。
玲子は近松のほうを見た。
頭を掻く近松の顔を見てから権田を見た。
「権田さん、それは犯人との間で問題になりませんか?」
首を権田は振った。
「近松さんは刑事としてではなく、私たちが雇った私立探偵として動いてもらいます」
(成程・・)
玲子は心の中で頷いた。
権田から警察が動いている理由を打ち明けられたときからどうすべきか考えていた。
まだその時は何とかしらが切れるものではないかと思っていた。
そこに偶然にもこの刑事が現れた。
それもこの刑事は今朝の新聞に出ている女性の詐欺事件の担当だった。水野をマークしている刑事だった。
既に事が露見している。
例え刑事に黙っていてくれと言っても自分が乾グループの総帥の娘であることが知れれば、この刑事の心のうちにとどめるだけの事では済まなくなるのは理解していた。
権田の話はいわば妥協点の提案だった。
最善であるかは分からないが権田と刑事の会話からリスクは少ないと感じた。
何やら二人の中には漏らすことができない秘密が共有されているようだった。
(総理と言っていた・・何やら大きな秘密があってそれに二人は繋がれている。だが父には刑事を私立探偵にして動いてもらったとは言えない・・しかし、それが妥協と言うものだろうか)
そこまで考えてぐっと力をいれて息を漏らすように玲子はゆっくりと言葉を漏らした。
「お願いできるものでしょうか」
権田と近松がそれを聞いて玲子を見た。
二人の視線を見て玲子は頭を下げた。
「玲子さん・・」
権田が玲子の心にのしかかるものをどけるように言った。
「あなただけに責任を負わすことはしません。犯人から必ず無事に妹さんが戻るよう努力させていただきます」
「はい・・」
返事した玲子の言葉の後に近松が言った。
「お嬢さん、なんも心配せんでええ。誘拐のことは伏せておく。約束するわ。俺のほうでもその辺の筋に渡りはつけておくから何か入り次第あんたに伝えたる」
「お願いします」
そこで玲子は近松のほうをしっかりと見た。
(美しい娘や・・)
近松は思った。
少しやる気が出たのを否定できなかった。
(田川洋子の詐欺の件で来たんやけど、違う事件に巻き込まれたな)
ちらりと横目で玲子の顔を見た。
(まぁ美しい娘に頼られるのはいつも悪くない)
少しずれたサングラスを戻すとふとおもった。
(定年後は私立探偵なんてのも悪くないな)
「ところで近松さん、今日はうちにどんな用事だったのですか」
権田が言った。
「そうそう・・それなぁ・・」
そこまで言って《芦屋の向日葵》のことを言うべきか一瞬迷った。
この絵が存在して水野の描いたルノワールと交換されたと言うことは誘拐事件とは全く関係が無い。
(これは言うまい)
そう決めて、話を変えた。
「いや、ちょっとある洋画研究所のことを聞きたかってん・・まぁええんよ、それは」
近松は作り笑いをしながら一つ咳をすると二人に言った。
「権田さん、話しをもとに戻すけど、一体相手は何と交換したいと言ったのです」
話が大きくそれてしまったが近松が聞きたかったのはその事だった。
(また、はぐらかされるかな)
ちらりと玲子を見た。
玲子の唇が動くのが分かった。
「刑事さん・・その絵のことは一部の方しか知らない秘密です。その事を知っているのはここにいる権田さん、私、誘拐された妹、そして・・・」
玲子は押し出すような声で言った。
「誘拐した犯人・・」
「なる程・・・絵ですか?名画なのでしょうね、きっと」
「そうです。ですが私はその絵を渡さずそれと同じ絵を渡そうと考えています」
「ほう・・・」近松が声を出した。
「犯人を罠に嵌めるのですか」
顎に手をかけて眉間に皺を寄せた近松に権田が言った。
「そしてその絵を・・・ある人物に描いてもらいます」
そう言って近松を見た。
(ん・・・?)
神妙な顔つきで権田が近松を見ている。
(何や?)
いkそう思う近松に玲子は言った。
「そしてその絵は世間では・・」
玲子は小さく息を吐いて言った。
「ゴッホ作の《芦屋の向日葵》と言われています」
それを聞いて近松は体制を崩し、サングラスが鼻からずり落ちた。
「え・・なんやて!!」
近松は二人が驚く様な声を出した。
「そんな偶然あるんかい!!」
その声に二人は顔を合わせた。
権田が近松に言う。
「近松さん・・それはどういう意味ですか?」
(あ、あかん、しまった!!)
近松は流石に舌打ちをしないではいられなかった。
そこへ「失礼」という男の声がした。
その声に全員が振り返った。カーテンを潜って顔を出した男の姿が見えた。
その男は水野静だった。
三宮の駅から少し海岸へ出たところに乾グループの本社ビルがあった。
本社は八階ビルでそれぞれのフロアにグループの関連企業が入っていた。
一番上のフロアには乾海運が入っていた。
この乾海運がグループ企業の中心事業だった。
創業は古く江戸時代には瀬戸内海に船を出して廻船問屋をしていた。その後明治に入ると近代化された西洋船を購入し、大阪の木綿問屋を中心に顧客に取り込みながら綿布や糸を外国へ運んだ。
日露戦争後、徐々に規模を大きくしてゆき、関東大震災、第二次世界大戦で一時規模を縮小することになったがその後の高度経済成長と歩調を合わせるように近代的な企業へと変わっていった。
そして現社長の乾洋一郎の時代に主要事業の海運事業から保険業、建築業、銀行業等、事業の幅を一段と広げ関西を中心に事業を大きく展開した。
午後十時を少し過ぎたところその乾海運の秘書室で電話が鳴った。
手早く若い女性の秘書が電話を取った。
「はい、秘書室です」
「おはよう、若江君かい?私だ、乾です」
秘書が手に持った受話器の向こうで洋一郎の声が響いた。
「はい、社長、おはようございます。若江です」
「うん、若江君。おはよう。ところで総務の田林君は今本社にいるかい?電話を繋いでほしいのだが」
洋一郎が言うと、お待ちくださいと秘書が言った。
直ぐに内線が変わると男の声が聞こえた。
「社長、おはようございます。田林です」
「おう、田林君。そちらは何も変わったことはないか?」
洋一郎は男の声に笑いかながら話しかけた。
「ええ、特になにも変わったことはないです。そう、そう、社長。港湾課長の林君が先週結婚式を挙げましたので会社から祝電を送っておきました」
田林の陽気な声が受話器から聞こえて来た。
「そうか、そう言えば林君の結婚式だったな。行けなくて申し訳なかったな。専務が代わりに行ってくれたのだろう?」
「ええ、戸部専務に行っていただきましたから大丈夫ですよ。式前日には社長からのお祝い金も渡しておきました」
「いや、ありがとう。何から何まですまなかった」
「とんでもありません、ですのでこちらでは特に変わったことはありません」
洋一郎はうんと頷くとはそこで一呼吸置いた。
「ところで田林君、ちょっと聞きたいのだがね」
「何でしょう?」
「この前社史編纂をしただろう。その時、親父・・いや先代の会長の時代に大阪湾でうちの船と尼崎浜の漁師の漁船が衝突した海難事故のことがあったのを覚えているかい」
ええ、覚えていますと田林は言った。
「あれは終戦近くでしたね、うちの船が軍事物質を明け方大阪湾から紀伊沖を経て関東へ運ぶ途中でした」
「ああ、そうだったね」
洋一郎は内容を思い出しながら確認するように呟いた。
「うちの船は大型船で相手は小型の漁船でした。衝突の際、相手の漁師達は衝撃の振動で海へ投げだされ全員が亡くなったと言う悲しい事故でした」
事故の簡単な説明が洋一郎の耳に響いた。
(もう既に戦後四十年近くが過ぎようとしているのか)
洋一郎は押し黙ると改めて時間の流れの速さを思った。
先代の会長、父の乾幸二郎は戦後数年たって亡くなった。まだ若かった洋一郎は乾海運の事業を叔父に一時任せ経営を学ぶためにハーバード大学へ留学した。
そして大学を卒後後、暫くアメリカの海運会社で海運事業を学んだ後、神戸へ戻り社長として乾海運の舵取りをしている。
それだけでなくこれからの時代の変化に会社が対応できるよう様々な分野へ進出して今では乾グループと言う様々な分野を抱える近代企業に仕上げた。
思えば会社の成長ととともに慌ただしく歩んだ人生だった。
「社長・・いかがされました?」
田林の声が洋一郎の沈黙を破った。
慌てて洋一郎が答えた。
「いや、もう四十年も前なのだなと思うと時間が過ぎるは何とはやいものかと思ってしまったよ」
受話器の向こうでそうですね、という田林の声が聞こえた。
「それで田林君、その時の事故なのだがね、その後遺族の一人を親父が引き取ったのは覚えているだろう」
「ええ、覚えています。確か土岐さんでしたね。ご両親が漁船に乗られていてそのままお二人とも・・海へ投げ出され亡くなられました。それで会長が一人息子の護さんを成人になるまでご自分のお手元で預かり養育されました」
当時洋一郎は突然父が自宅に一人の青年を連れて来たのを覚えている。
父を迎えに玄関へ出かけるとそこに一人の青年が父とともに立っていた。
母は何か既に知っていたのか、涙ぐみながら青年の背に手をおいて申し訳ありませんと言った。
「僕は大丈夫です」
しっかりと母に言った言葉を今でも洋一郎は覚えている。
そして青年の真っ直ぐな瞳が洋一郎と合うと静かに頭を下げた。
「洋一郎、今日から一緒に暮らす土岐護さんだ。少し年上のお兄さんが出来たと思ってくれ」
(あの時、僕は初めて土岐さんにお会いした。それから土岐さんが画家志望であることも知った。それで週末になると父と良く大阪に出て絵を見たり洋画研究所に行ったりした)
思えばゴッホの向日葵を見たのも大阪だった。
(初めて向日葵を見たのは中之島にあった洋画研究所だった。父と土岐さんと一緒だった・・)
そこで思いを切ると田林に言った。
「その土岐さんだがね、その後尼崎に戻り御両親と同じように漁師になる道を歩んだ。父はうちで働かないかと言ったのだが、十分世話になったので両親の家業を継ぐと言った。そしてその後体調を崩されて最後は肝臓癌で亡くなった」
土岐護が漁師となって尼崎に戻っても洋一郎との交流は亡くなるまで続いた。
土岐護は仕事をしながら絵を描いた。
だが彼は自分の作品を描くことはなかった。あくまで誰かの模写だった。
私邸を訪れる度、洋一郎は護が描くそうした絵の素晴らしさを見ては心の中で唸った。
洋一郎も父や護達と行動するにつれ絵画を見ることに興味が湧きそれが成長するにつれ次第に段々と自分の芸術的な感性を呼び覚まして行くのに気が付いた。
アメリカ留学時も多くの美術館を回っては多くの作品を見た。
だが洋一郎は画家と言う芸術の創造者ではなく、鑑賞する立場を選んだ。
自分は企業のリーダーとして立つ身であり、そうした道に進むことは先代以前から続く暖簾を自分の代でたたむことになり、申し訳がないと思った。
そして芸術に対してはそれぞれの立ち位置があるということもアメリカ留学で学んだ。
パトロンとして芸術家を育てるのも経済人の義務であることを知った。
(自分は、それが良い)
そう思うことで事業に専念でき、一方で有望な才能を経済的に支援しようと思った。
その支援はギャラリーLEONを通じて行った。あくまで私財を投じてだった。
「社長、その土岐さんのことで何かありましたか」
洋一郎は頷くと言った。
「確か八月が命日だったと思うのだけどね、実はそれをすっかり忘れてしまって。あと・・香典はいつも土岐さんの親族の方に送っていたと思うのだけど・・すべて会社任せにしてしまっていただろう?だから今度八月に一度夏季休暇をとって日本に戻ったら親族の方を訪ねて墓前に手を合わせたくてね」
「そうでしたか、では送り先を少し調べますのでお待ちください」
電話の保留の音が響いた。
数秒後その音が切れて田林の声が聞こえた。
「社長、わかりました」
「そうか、どうなっている?」
「送り先は・・・、東京都新宿ですね」
「新宿?だって」
意外だった。もしかしたら親族の方がそちらに越したのかもしれなかった。
「尼崎ではないのだね」
「そ・・う、み・・たいですね・・・」
田林が何かを見ているのか言葉を継ぎたしながら言うと、何かを見つけたのか確認したようにはっきりと言った。
「送り先は写真スタジオ《青騎士》」
(写真、スタジオ?)
「受取人は?」
洋一郎が聞くと、田林は言った。
「森哉となっています」
(モリ・・ハジメ・・?)
心でその名前を反芻したが、全く分からなかった。
(誰だ、まったく心当たりがない・・)
困惑している洋一郎に田林が言った。
「社長、横に誰かの控えが書いてあります。これ誰だろう?最近誰かが記入したようですね」
乗り出すように洋一郎は田林に聞いた。
「何が書いてある?」
「ええ、言います。“亡き護氏の義理の兄”と書かれています」
その声に洋一郎は驚いた。
「だろうね・・土岐さんは事故で孤児になられたのだから・・」
義理の兄か、どういう関係だろう。
「田林君、その方義理の兄にあたるのだね。その方の事、少し調べてもらえないかい」
「ええ、わかりました。分かり次第連絡します。社長は今日からスイス経由でイタリアへ移動でしたね」
「ああ、ミラノへ向かう」
「ではミラノのホテルに着いた頃こちらから連絡します」
「分かった。何かわかり次第、連絡をくれ」
「それでは社長、くれぐれもお気をつけて」
洋一郎は分かったと言うと電話を切った。
電話を切ると遠くで自分を呼ぶ声が聞こえた。スイス経由でイタリアへ向かう視察団の一人が手を振っていた。
今、自分はスイスへ向かう駅のホームから会社へ電話をかけていた。
時計を見ると、あと数分で列車が出る時間だった。
洋一郎は手にアタッシュケースを取ると駆け足で視察団のところに行った。そしてにこやかに笑うイギリス人の背を軽くたたいて次の目的地に向かう車両に乗り込んだ。
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