黄金色の涙 1945 himawari

日南田 ウヲ

第1話

 少年は暗闇を照らす紅蓮の炎を呆然と見ていた。

 その燃え盛る炎の中へ父親が母の静止する声を聞かずに飛び込んだ時、炎の中でぱちりと音が鳴ると火の粉が大きく噴き出すように空に舞い上がった。

 少年は手の平で顔を覆った。

 頬が熱かった。

 指の隙間から燃える自分の家を見た。炎が少年の家を暴れる竜の様に渦を巻くように動いている。

 何故こうしたことになったのだろうと、少年は思った。

 母屋のどこから出火したのかは分からなかった。少年が焦げるような臭いを風呂場で嗅いでから家が炎に包まれるまで十分もかからなかった。

 火は瞬く間に母屋全体を包んで空を焦がすほどの炎となった。

 最初、異変に母が気づいた。

 気づくと少年を外に急いで連れ出した。

 直ぐに父親も出てきたが母親と何かを話した後、燃え盛る炎の中に飛び込んで行った。

 やがて火事に気付いた人々が通りに出て来た。

 遠くでサイレンの鳴る音が人垣の中で反射して聞こえ、それが段々と近づいてくるのが少年には分かった。

 バンと大きな音が空に向かって鳴った。

 少年の背をはるかに超える火柱が上がり大きな爆発音を立てながら家の柱が傾いて熱風が少年の頬に当たった。

 家に飛び込んだ父は助かるまいと、少年は直感的に感じた。

 そう思うと少年の頬に涙が伝い始めた。

 何が父を燃え盛る炎の中に駆り立てたのだろうと少年は思った。

 燃えてしまえば全ては灰になって無に帰るだけではないか、少年はそう思った。

 何ものにも代えられない虚無感に襲われたが、父親を助けようと人垣をかき分けて燃え盛る家のほうに走り出そうとした。

 それを母の腕が押さえた。

 少年は母の腕を振り切ろうと暴れた。

(おとうは馬鹿や、阿呆や、俺達家族より大事なものがあの炎の中にあると言うのか)

「おとうは馬鹿や!」

 そう言うや熱風より熱く激しい痛みを右頬に感じた。

 母が少年の頬を平手で打った。

 そして母は少年を強く抱きしめた。

「おかん、おとうは馬鹿や!大馬鹿や!いや、とんでもない阿呆や!」

 少年は炎に向かって絶叫した。

 炎が暗闇を竜のように昇っていくのが見えた。

「死ぬな! 死んだらあかん、おとう!」

 少年はううぅと呻き声を出した。

 やがて溢れ出した涙が口に入ったのか少年はしくしくと泣き出し、母の手を振りほどくと地面に突っ伏して声を出して泣いた。

 サイレンの音が少年を抱く母親の側で止まり、消防車から一斉に水が放水された。

 消火活動が始まった。


「よう、贋物屋」

 低い男の声が水野の背に届いた。

 今しがた大阪天満宮の通りにある饂飩屋から昼飯を食って出てきたところをいきなり後ろから声をかけられた。まだ口の中には先程食べた天粕の味が残っている。

(俺のことじゃないだろう)

 だから立ち止まるのはやめた。

(人様が描いた絵を描くのが俺の仕事だが、それで贋物屋呼ばわりされる覚えは無い)

 一瞬で考えを巡らしてそう結論づけると、ジャケットの内ポケットの中に手を入れて煙草を取り出し、歩きながら火をつけた。

 口の中に煙草の苦いタールの味がして、先程の食べた天粕の味と混じった。

「おい、おい、お前だよ、兄さん」

 水野は別段気にした風も無く煙草の煙を吸い込んで、歩いてゆく。

「おい、兄さん! いや、水野先生、止まりな。話がある」

 凄みのある声でそう呼ばれて水野は煙草を口に咥えながら後ろを振り返った。

 初老の男が立っている。背は低い。頭に白の帽子を被り、ぴたりとした灰色の上下のスーツを着て首元に深い青色のネクタイを締めていた。

 足元の汚れのないピカピカに磨かれた白の革靴が、この男の性格を滲み出しているように見える。

 神経質なのだろうな、水野はそう思って帽子の下から覗く男の顔を見た。

 金縁のサングラスをかけた顔が満面の微笑を湛え、にっと開いた口の中から金歯が見えた。人懐っこい微笑に見えたが、サングラス越しに見える切れ長の目は冷静に水野の動きを観察したまま動かず、笑っていなかった。

 普通の社会で生きている連中の目つきではないな、と水野は思った。

(こいつ極道か?)

 水野は目を細めて、男を見た。

 そして何かを思い出したかのように、心の中で呟いた。

(この男、もしや地上げ屋か・・)

 戦後の高度経済成長期を過ぎて八十年代に入ると特に人の集まる都心部は異常に土地の値段が騰がった。

 そしてここら天神橋界隈一帯もその影響を受けて土地の値段が高騰し始め、地上げの話が多くなってきていた。土地を出て行かない連中には土地の所有者が極道者を寄越して脅しをかけるという話も水野は聞いている。

(成る程・・先週のあれか)

 水野は思った。

 先週、アトリエのある雑居ビルの家主が水野に立ち退きの話をしてきた。家主は口元に豊かな白髭のある男だった。

 名前を権田と言った。

 その時は、アトリエのあるビルを壊して新しいビルを建てると言い、建て替え後のビルに水野のアトリエ用の一室を約束すると言った。

 それが嘘だというのは水野にも分かった。そんな都合のいい話は聞いたことがない。

 おそらく更地になった後は、新しいスーパーか何かがその土地に建って水野との約束のことなど忘れてあとは何知らぬ顔をしているだけだろう。

 だから水野は丁寧に断った。

 そうですか残念です、と家主は水野に声細く言って頭を下げると階段へと静々と歩いて行った。去ってゆく家主の背を見ながら水野はアトリエのドアをそっと閉めた。

 そしてドアを閉める時、僅かに出来た隙間から外を覗くと、奥の階段の踊り場に別の男の白の革靴が見えた。

 そして家主が誰かとひそひそと話す声が聞こえた。

 その時は取り止めて気にはしなかったが、今考えるとその時居たのがこの男ではないかと思った。

 立ち退かない水野に対して極道者を使って、ビルから追い出そうと画策したのだろう。

 だからこの男がいま自分の前に居るのだ。

(あの温厚な家主に限ってそんなことはないとは思っていたが・・)

 家賃も滞納した覚えは無かった。その他、特に何か不都合な事をした覚えも無い。

 人は顔に似合わずやることはえげつないものだ、と心の中で毒づくと水野は家主の穏やかな顔を思い出して空を見上げ鉛色の曇り空に向かって煙草の煙を吐いた。

(さすが銭の街だな。安い家賃をこれからせこせこと頂くより、目の前の土地を高く売って大金を一度に手にして食うや歌えの老後に備えるほうが賢いか)

 今更だが難波の商人連中の心根が見えて、水野の顔に自虐的な笑みが浮かんだ。

 水野は煙草を道に捨てて踏みつけて潰した。

(芸術はいつの時代も銭の前には無力だな)

 水野は踏みつけた煙草の火が完全に消えるのを待って男を見た。

 この初老の極道者とのこれからのやり取りを思うと水野は憂鬱になった。出て行くのは良いが、まだあのアトリエでやるべき仕事が在った。

 今日もこれから絵の依頼人と会う約束があった。その仕事も家主からの依頼だった。それを思えば、益々人の心は分からないものだと水野は思った。

 そんなことを思っているうちに男は年に似合わないしっかりとした足取りで肩を揺らしながら水野の前までやって来た。そして帽子を取ると襟首を広げてパタパタと仰いだ。

 視線を水野から外して空を見上げて言った。

「まだ夏は来てないと言うのに、六月の曇り空でこんな暑さじゃ、この先の夏が思いやられる」

 水野は嫌な顔で男に言った。

「何の用です、残念ながら極道者と関わるようなことは今まで一度も身に覚えがありませんけどね」

 それを聞いて男は視線を水野の顔に向けてから破顔した。

「極道者だって。この俺が?」

「そうでしょう、違うのですか」

「違うわ、どちらかといえばその逆や」

 水野は怪訝そうな顔をした。どう考えても身なりや雰囲気からして、それ以外にまず考えられない。

 水野は鼻を鳴らして言った。

「じゃ、その逆というのは何なのです」

「ポリやポリ、警察や。俺の名前は近松寅雄と言うて曽根崎のもんや」

 水野は(ちっ)と心の中で舌打ちした。

 そちら方面なら身に覚えがある。

 仮にも美術の仕事をしていればアトリエにヌードモデルを頼んで絵を描くことがある。

 大学や洋画研究所等のちゃんとしたところであれば裸の女が出入りしても問題は無いが、別段有名ではない画家でそれも人があまり住んでいない雑居ビルのようなところにアトリエを構える輩がそんなことをしていれば、それが芸術と関係の無い人間に見られでもすれば如何わしい人間がいると疑われる。

 過去にも何度かそうした事で警察とトラブルがあった。

 その度アトリエを変えてやっとここ数ヶ月、この天神橋界隈で落ち着いて仕事に取り組むことが出来ているところだった。

 水野は男の顔を見て思った。

(結局、立ち退きかよ)

 水野は下唇を噛むと煙草を消した足で地面を蹴った。

(また部屋探しか)

 くそっ、と水野は小さく叫んだ。3Lの間取りの良い部屋で自分としてはすごく気に入っていた。それだけでなくビルの外観や内装のアールヌーボー調のデザインが好きだった。

 男はそんな水野を見てにやりと笑って言った。

「先生、昼飯食ってきたばかりのところで悪いんやけど、少しこちらの昼飯に付き合ってくれへんか。酒が飲める店がええわ。何せこちらは先生が饂飩屋から出てくるまで暑い日向で立たされたおかげで体の水分が干上がってもう喉がカラカラやから」

 男はそういって水野の腰に手をやって、ポンポンと叩いた。

「どこか安くて飲める店知らへん?そこで先生の何や如何わしい話をちょっと聞かせてもらうわ。わざわざ高い電車賃使うて曽根崎からここまで来たんやから、手ぶらで帰らせんといてくれよ、先生」

 そう言って笑う男の金歯が水野には忌々しく見えた。



 曽根崎の通りを一台の黒塗りの高級車が過ぎて行った。

 車の窓から街の通りを行き交う人々の姿が陽炎のように女には見えた。

 人が揺らいで見えるのは先程まで眠っていたせいだろうか、それとも主治医に処方してもらった薬が効いたせいだろうか、そんなことをぼんやり車の後部座席にもたれながら女は思った。

 神戸の三宮を出て一時間ばかり車に揺られていた。車内で主治医の処方した薬を飲んだ後、どうやらうとうとして眠りについてしまったらしい。

 運転手の自分を起こす声で目が覚めた。

 今日は三宮にある総合病院へ行く定期健診日だった。

 いつもなら昼前ごろに病院へ出かけるのだが、今日は午後に大阪である人物に会う約束があったので、午前の早いうちに芦屋の屋敷を出た。

 だから外出のときはいつも一緒の愛犬のコローも屋敷に置いてきた。

 女は後部座席の誰も座っていないシートに手をやりながらくすりと笑った。

(コロー・・、大人しくしていれば良いけれど・・。部屋中走り回ったりして女中のたまきさんをこまらせたりしてないかしらねぇ)

 そんな女の顔を見ながら運転手が言った。

「玲子お嬢さん、そろそろ天神のほうに着きますよ」

 運転手の声が、女の耳に聞こえた。

 フロントガラスの向こうに中ノ島公会堂のドーム型の屋根が見えた。

 屋根の向こうに曇った低い空が続いている。

「ねぇ、高木さん、空は曇っているけれど雨は降らないかしら」

 運転手はうーんと言って、どうですかね・・・と呟いた。

「曇りの日は気持ちが憂鬱になるから嫌い。特に雨はもっと嫌い」

「はは、そうですか。まぁ確かに曇りや雨が好きだという人は少ないでしょうね。私も運転するときはやはり、晴れの日のほうが良いですから」

 そうよね、と玲子が言うと車は公会堂の側の川沿いの道を進みやがて通りを左に折れて天神橋を渡り始めた。

「お嬢さん。天神橋を渡ればもうすぐ天満宮です。あと十分ほどで、権田さんのビルに着きます」

 運転手の高木の声に玲子は、うんと頷いた。

 橋を渡り終えたとき、車が小さな窪みを越えたのか、上下に大きく揺れた。その振動で玲子の身体が揺れ、息が胸に詰まった。

 玲子は詰まった息を追い出すように、激しく咳をした。

 運転手がバックミラーを見て、慌てて玲子に言った。

「すいません、大丈夫でしたか」

 玲子は小さく手を運転手に振った。

「大丈夫よ、高木さん」

「そうですか。良かった、すいません」

 玲子は運転手に微笑すると窓の外を見た。中ノ島公会堂の屋根は既に遠くに見えていた。

 息を吸うと大きく吐いた。

(身体は大分良くなったみたいね。殆ど咳をするとき血が混じらなくなったわ)

 玲子は手を胸に当てて、今度は小さく息を吸って吐いた。

 ここ数ヶ月は咳をするとき血も混じることなく、熱のある日も殆ど無かった。

 健康は小康状態を保っているようだった。

 しかし主治医からは「安静にして過ごすように」と言われていた。

(一年前なら外出なんて絶対できなかったわね、でも例え体調が悪くても、今日は絶対権田さんが紹介される方に会わなくては・・)

 玲子は、胸に当てた手を膝の上に置くと深くシートに持たれて薄く瞼を閉じた。そして今日これから会う人物の事を思った。

(良い人であれば良いのだけれど・・)そう思いながら閉じた瞼を開いて窓の外の空を見ながら、あの子は今どこにいるのだろう・・とぽつりと呟いて険しい表情を作った。

 ここ数日、玲子は妹の綾子のことで頭が一杯だった。

 警察には届けてはいないが、妹が行方不明になっていた。正確には誰かに誘拐されたのだ。



 水野は近松と名乗った男と一緒に天満駅の高架下沿いに歩いて一軒のトタン屋根の店の暖簾を潜った。入り口に白く塗られた鉄板に赤いペンキで「三割徳」と書かれた看板が出ていた。

 水野は背を伸ばして席を探した。

 狭い店内は昼飯時の労働者で溢れ、焼酎や焼けた魚の匂いが漂っていた。

 壁に備え付けられた扇風機がぶうんと音を立てて回りながらクーラーの冷気を店中に運んでいる。扇風機の首が回るたびに風に吹かれて品書きが小さく揺れた。

 匂いが扇風機の風に運ばれて男の鼻腔に入ったのか、腹がぐうと鳴ったのを水野は聞いた。

 へへっ、と近松の笑い声が聞こえる。

 水野は奥の扇風機の下に誰も座っていない小さなテーブルを見つけるとそこへ向かって歩き、椅子を引いて座った。

 近松も水野の後に座り、店の壁に駆けられた品書きを見た。

 ふーん、と鼻を鳴らす。

(成る程、三割徳とは良く言ったな)

 ちらりと他の品書きも見る。

 壁の品書きを見れば大体の飲み食い物の値段が普通の店より三割は安いのが分かる。男は視線を店の奥に居る女に送り顎を引いた。

(成程、客に三割は得させる、それで“得”と“徳”をかけてるわけか。まぁ徳は店の人徳っちゅう訳や。それがこの店の売りで看板の名前の由来か)

 年増の女が布巾を持って注文取りにやってきた。出された布巾で手を拭き「ビールをくれ」と言った。

「先生も飲むかい?」

 水野は黙って首を横に振った。

「ほんなら、コップはひとつでええわ。あと玉子焼き頂戴。砂糖やなくて塩いれて焼いてくれるかい」

 それを聞いて女は店の奥に入った。

 サングラスを取って布巾で顔を拭き首もとの汗を拭いた。

「気持ちええなぁ、クーラー利いて、極楽や」

 近松の声が響くと女が瓶ビールとコップを持ってきた。

「全品ほぼ三割安やな」

 女にそう言って、空のコップを差し出した。瓶ビールの蓋を抜く音がして泡がこぼれ出てくる。

 年増の女がほつれる髪をもどかしそうにしながらビールを注いで言った。

「戦後にそこの国鉄の高架下で店を始めたころは名前を二割徳と言うてたんよ。その名前の通り酒も食いもんも二割安くして商売してたんやけど、それがうけてね。お客さんに得してもらって、自分たちも徳を得たくて。そのせいかも知らんけど次第にお客さんが沢山来るようになった。それでその後、店が繁盛するにつれ今度は名前を今の三割徳にして、その名の通り三割安くして今商売をしてる」

 そしていずれは五割安までにする予定だと、言った。

「店が大きくなるのはお客さんあってのことやし、だからそれに感謝してその恩を返していかなあかん。だから値段を下げるんよ。そうせな、お客さんは来うへんからね」

 それを聞いて男は笑みを浮かべながら

「売値安くして利益も下がって店ができるんかい。おもろいな、この店」

 と言ってビールをコップいっぱいになるまで女に注がせ、そして「おおきに、姐さん」と言うや、ビールを一気に飲み干した。

 それができるから大阪は不思議なんよ、と女は男に言って他のテーブルに呼ばれて行った。

「おもろいな、大阪は。隣の神戸ならそうはいかんで」

 近松はそう呟きながら空のコップに手酌でビールを注いだ。そしてそれを唇に持って行きビールを舌で薄く舐めた。

(下品だな)

 水野は益々この男が警察の者だとは思えなかった。

(卑しすぎる。表情に品も風格も無い。やはり下町の落ちぶれ極道者だな、それ以外に無い)

 水野は頬杖のまま、ぷいと横を向いた。

(時間の無駄だ)

 ちっ、と舌打ちをした。大きい舌打ちの音が近松の耳に聞こえた。

 その音を聞いてやれやれという表情をしながら、近松は手を上着の内側に入れた。

 上着の内側に腕を動かすと一枚の写真を水野の前に出した。

 人差し指に磨かれた銀の指輪が見え、ごつごつとした指先に置かれた写真に裸婦の絵が写っていた。

 水野は目を細めて視線を動かし、その写真を頬杖のまま見た。

「先生。この写真の絵な・・、見覚えあるやろう。警察・・、いや違うた、会社や、会社。会社の市場調査にこの絵が引っかかったんや。俺は会社でこうした美術品関係を主に扱う部署におる。そこで一ヶ月前この絵の持ち主と取引する機会があった。贋物をつかまされてひどい詐欺におうた言うてな、一人の中年男が被害届を書きに曽根崎までやって来よった。それでその話が俺の部署に回ってきて俺がこの仕事を引き受けることになり、この絵の信用調査やな、それをすることになった」

 そう言って写真を上から指でトントンと叩いた。

「その絵の信用調査というのは、つまりこの絵が本物か贋物かの調査や。先生、意味分かるやろ、つまり贋作かどうかちゅうことや」

 水野は視線を近松のほうに向けた。

 金縁のサングラス越しの切れ長の目が、しなやかな猫科の動物のように細くなった。獲物を見つけた時のあの輩の目だった。

 先程までの卑しさが沸騰して品格が何か別のものに変わり、本当の姿を顕させた。

(こいつ顔つきが変わりやがった)

 水野は頬杖していた腕を組みなおすと煙草を取り出し、そして足を組んで煙草に火をつけると唇の端に咥えた。

 初対面の人間と話しをするのは緊張する性分だ。緊張を落ち着かせる為には煙草を吸わずにはいられない。

 咥えた煙草の灰がゆっくりと水野の肩に落ちた。

「近松さん、いや・・刑事さん。その絵は確かに僕が一年前に描いたルノワールの《陽光の中の裸婦》です」

 煙草を手に取りながら口調を改めて言った。

 近松は水野の口調が変わったことに満足したのか笑顔になった。

「間違いないか」

「ええ、僕の絵です。この作品を知っている人が見れば本物でないことは一目で分かりますよ。左の薬指にリングが描かれているでしょう。それはその当時僕が付き合っていた女性がつけていた指輪です。それを描いていますから、間違えませんよ」

 昔の恋人の面影を思い出して、水野の心が揺れた。

 恋人が今何をしているか、分からない。

 水野の吐いた深い溜息が、肩に落ちた煙草の白い灰を床に落とした。ひらりと落ちてゆく灰が扇風機の風に吹かれて、誰とも分からぬ人のところへ飛んでいった。

「その絵は勉強の為に描いたものです。贋作なんてとんでもない」

「成程」

 近松は頷くと目を鋭くして水野に言った。

「そしてその絵を恋人の田川洋子に売った。違うか」

 水野はその名前を聞いて眉間に皺を寄せた。

「田川洋子は知っているな」

「ええ、知っていますよ、彼女のことは。でもね、違いますよ。彼女は僕の恋人なんかじゃない。唯の知り合いです」

 水野は煙草を灰皿に押し当てて火を消した。

「それにその絵は彼女に売っていない。譲ったのです」

「譲った?ただでか?」

「そうです」

 水野は指の爪先の皮を噛んで黙った。

 正確には違う。

 田川洋子は水野にその絵が欲しいと言った。金を出すから買いたいと。

 しかし、水野は「この絵は金では売れない」と言った。

「もし一緒に俺と寝てくれるならただで呉れてやってもいい」と、言った。

 田川陽子はそれを聞くと笑った。

 笑うと裸になって水野の前でベッドに横たわった。

(田川洋子か・・)

 水野は目を伏せて憂いを含んだ彼女の瞳を思い出した。

(白い肌をした顔立ちの美しい女だったな)

 暗闇で動く女の白い肌と髪から洩れる匂いの記憶が蘇った。

 女の身体に対する疼きが爪先の皮の味と一緒に口の中で広がるのが分かった。

 水野はそれを唾液と一緒に飲み込んだ。

 飲み込むと水野は近松に自分の思いを悟られぬようにわざと渋い表情を作った。

 近松は水野の顔の変化から何かを読みとったのかにやりと笑った。

「何か顔に出てるで、先生。隠し事すると後で損するから気をつけや」

「いや、別に。何も隠し事なんてありませんよ」

 水野は何食わぬ顔して言った。

「そうか、そうなら良いけどな、ほな、話を続けるわ」

 そしてちびりとビールを飲んだ。

「その中年男は芦屋に住んでいる金持ちでな、新地のバーで或る女と知り合った。まぁ、その女というのが美人のホステスで新地のスパイダーというクラブの一番の女や。そう、そしてその女は先生、あんたも良く知っての通りの人物・・っていうことや」

 男が顎を指で掻きながら水野の言葉を待った。水野は男の猫科のような目を見ながら言った。

「それでその人物が田川洋子ということですか。彼女とは二年ほど前に鶴橋の雑居ビルにアトリエを構えたころ知り合って、そのころ少し仲良くさせてもらいました。だけどそこでこの写真のルノワールの絵を渡してから彼女とは音信不通ですよ。新地で働いているのも今初めて聞きましたからね。それに申し訳ないですがね、彼女のことはもう全然関心も興味も無いですから」

「関心も興味も無いか」

「ええ、残念ながら」

 近松はじろりと水野を見た。

「田川洋子が死んだ、って言うてもか?」

「えっ!!」

 水野は驚いて席を立ち上がった。立ち上がった時、水野の膝が机の脚に当たりコップが転がり床に落ちて激しく割れた。

 その音に周りの客が驚いて水野のほうを見た。

 近松は手を上げて水野にまぁまぁと言いながら、先程の年増の女に向かって目でコップを持ってくるよう合図を送ると水野に席に着くように促した。

 女が空のコップを持ってくると「おおきに、ありがと」と近松は言って手酌でビールをコップに注いだ。

 促されるまま席に腰を下ろした水野は眉間に皺を寄せたままビールを注ぐ近松を見ていた。

 注いだビールをぐいと飲み干すと濡れた自分の上唇を舌で舐めた。

 そして、ふふんと鼻で笑って、水野を見た。

「関心も興味も有り有りやな、先生。未だ田川洋子に未練たっぷりちゅう感じや。まぁええ、今は田川洋子の死んだことの話や無い。その田川洋子が詐欺を働いたって言うことが大事な話や。良く聞きや、その田川洋子が新地のクラブでその中年の男に先生の描いた絵と男が持っている或る絵を交換したいって言うたんや。勿論先生の絵は本物ということでな。中年の男が持っていたという或る絵については、先生、そこらへんのこと田川洋子から何か聞いてないか?」

 水野は黙ったまま静かに首を横に振った。

「そうやった、音信不通やったな」

 近松はくくっと微笑した。

「よう聞きや、先生。その中年の男が持っていた絵というのはゴッホの絵や。ゴッホの向日葵は知ってるやろ、その中のひとつ、戦争の真っ只中の神戸大空襲で焼失して無くなった筈の《芦屋の向日葵》という作品や」

 近松は得意気に鼻を鳴らして水野に言った。



 1920年、ゴッホの向日葵の絵が兵庫県の芦屋のある実業家の邸宅にあった。

 その絵は兵庫県芦屋市の実業家山本顧弥太が白樺派の作家武者小路実篤の美術館建築構想のために二万円で巴里の画商から購入したものだった。

 その後、その絵は1945年8月の空襲で焼失。戦争による一つの悲劇ともいうべき事件であった。

《芦屋の向日葵》と聞いて自分が知っている内容はそれぐらいだと水野は思った。

 額に入った向日葵の白黒写真を学生の頃に美術雑誌で見たことはあったが、それ以上特に興味は無かった。薄ぼんやりとした記憶しかなかった。

 男はそんな水野の記憶に語りかけるように話を続けた。

「ええか、先生。知らんなら教えとく。その絵は縦98センチ、横69センチのキャンバスに青色の背景を背にして黄色の向日葵が描かれている。ロイヤル・ブルーに輝くクローム・イエローが鮮やかな作品や。向日葵の数は5本、まぁ枯れているのを含むと6本。なんで俺がそんなこと知ってるのかという顔をしてるやないか。そりゃぁ・・仕事柄、贋作は良く見るから本物のことは一応知っている。特にゴッホは贋作が多い。作品数が多いというのも贋作を作る奴らにとっては有利や。だから男からその話を聞いたときは別に良くある話やと思った」

 そこで近松はビールを飲むと先程運ばれてきた玉子焼きを上手に箸で切り口に運んだ。

「この玉子焼き・・ええ塩加減や。旨いで」

 近松は部屋の奥に居る先程の年増の女に聞こえるにように言うと、女がおおきにと言うのが水野に聞こえた。

「だが・・」

 近松の太い声が女の声の後に続いた。

「今回は違った」

 近松は切った玉子焼きを口に入れるとビールを手酌でコップに注いだ。

「曽根崎に来た中年男の名前は浦部進。その男、今でこそ関西で多くのパチンコ店や風俗店を経営して芦屋の一等地に身上を構えることができる身分だが、十代の若い頃は万引きや窃盗なんかをする手のつけられない奴やった。まぁあれから年数が大分たったことやからかもしれんが今回被害届を出しに来たときは、あっちは俺のこと分からなかったみたいだった。しかし俺は良く浦部のことは覚えとったので年とっても直ぐ奴やとわかった」

 続けて近松は言った。

「俺はこいつがそんな真っ当なものを持っているはずがないと思った。だから俺はあいつに聞いたんや、いつごろそれを入手しましたのか?とね。その時、奴は一瞬表情が白くなったが、作り笑顔で自分が二十歳の頃に手に入れたと俺に言いよった」

 水野はそれを黙って聞いていた。近松はビールを飲み干すと、辺りを見回しながら水野に指を立てた。

「本物は一つしかない。それは事実や。先生、あんたみたいに絵の模写を生業にしている稼業やとその意味分かるやろ。所詮、偽物は本物には敵わない」

 強い語調で言った後にへへっ、と近松は笑った。

 その笑い顔を見て水野は不愉快な表情になり、首を後ろに回して壁の時計を見た。

「人の職業のことをとやかく言うのは勝手ですがね、なんでそれで僕があなたに卑下されるような目つきで言われなければならないのです?不愉快ですね。申し訳ないですが、僕はこれから仕事があるので自分のアトリエに戻りたいのですが」

 水野は腰を浮かした。

 まぁまぁ、と言いながら近松は水野の肩を押した。

「まぁ座って続きを聞いてや。俺は浦部が帰った後、あいつの若い頃の犯罪の資料等を調べた。そしたらちょうど奴が二十歳の頃に尼崎の或る漁師宅に侵入した事件の資料を見つけたんや。その事件は住居等侵入罪で立件されたが、そこで窃盗はなかった。あいつは、その家に侵入したのは認めたが何も盗らずそのままその家を出たという事件や。あの頃の奴にしてはおかしな事件で、そして不思議なことにそれ以後犯罪をすることはなかった。一応、真っ当な人生を歩いているというわけだ」

 水野は時計を見た。午後二時まであと少しだった。依頼人がアトリエに来る時間までもうあまり時間がなかった。

 いらつき始めた水野に気もかけず近松は話をつづけた。

「しかし、その事件で俺は面白い証言があったのを知っている。それは小学生ぐらいの女の子が残した証言なのだが、裁判では取り上げてもらうことはできなかったものだ。その証言は、その日、漁師宅のアパートの階段で女の子は浦部とすれ違った。その時浦部は大きな絵を持っていて階段を下りて直ぐ車に乗り込んだというのや。それだけやない、女の子はその絵のことを覚えていて、それは青地の上に大きな向日葵が沢山描いてあった、ということや」

 水野は頭を掻いて、言葉を切り出そうと口を動かしたがそれを近松の目が抑えた。

「その漁師というのは土岐護という男で、若い頃、画学生として山本家に出入りしていたというのが分かった。焼失したはずの向日葵の絵と浦部が持ち出した向日葵が、この人物を通じて繋がったんや。知っている人が聞けば見事に奇妙な符号やと思うで。なぁ、そう思うやろ、先生?」

 水野は近松に向かって手を上げた。

「刑事さん、すいませんがね、僕はもうすぐ仕事の時間なのですよ。ここで失礼させていただきます。大体のことは分かりました。だからと言って、僕が田川洋子の詐欺に関係していることはありません。

 それに浦部という男も知りませんよ。疑いがあるなら、別の日に話を聞きますよ。どうせ僕のアトリエの場所も家主に聞いて既に知っているのでしょうから、何かあるのであればその時に」

 水野は立ち上がった。

 それを見てわかった、というような表情で近松は水野に向かって人差し指を立てて言った。

「先生。最後に一つだけ聞いていいか」

「何です?」

 じろりと水野は近松を見た。

 急ぎたかった。

 近松は玉子焼きを箸で切りながら言った。

「偽物が、本物を超えることがあると思うか」

 水野は少し黙って言葉を返した。

「モネの絵をピカソが描いたらどうか、またその逆もあるでしょう。才能のあるものが描けば描いた本人の才能の輝きが本物を超えることもあるかもしれない。可能性は否定できないですね。それが刑事さんへの質問の答えと言うことでいいですかね。では、刑事さん、また」

 そう言ってその場を離れようとする水野の手を近松が掴んだ。

 さすがに怒りが湧いて水野は近松を睨んだ。その水野の顔を冷静に見ながら近松は低い声で強く断定的に言った。

「向日葵の絵はどうした?お前、田川洋子から貰っただろう」

 水野の中で何かが切れた。そして怒声を含んで言い放った。

「刑事さん、知りませんね、そんな絵の事なんて!!さっき最後の質問に答えたはずだ。もうこれ以上あなたに答える必要はないのでは?」

 水野は強く手を振り払うと店の暖簾を潜った。

 近松は暖簾を潜って出てゆく水野の背を見ながら玉子焼きを口に運んだ。

(あの怒りかた・・カマ掛けたが絵のことは知らないと見える・・今のところシロか・・)

 そう思いながら玉子焼きを噛んだ。

(じゃ、田川洋子はどこに向日葵の絵を隠したのだ・・)

 噛んだ玉子焼きの塩が口に中に広がった。

(まぁええ、いずれその絵は出てくるだろう。素人女のした犯罪や。

 大きな組織が動いている訳やない。焦らないことや。それにあいつ面白いことを俺に言ったな。才能のある奴が描けば、本物を超えることもある・・)

 水野が残した言葉の意味を玉子焼きと一緒に噛み砕きながら暫く目を閉じて考えを頭の中でめぐらしていたが、何か思いついたのかサングラスの向こうで目を細めて金歯を見せてにやりと笑った。

 笑い終えると店の奥を見て女に空のコップを軽く持ち上げてビールを頼んだ。

(あの事件ファイルに書かれた研究所こそ、まさしく才能の集まりやないかい・・あれは・・確か・・)

 近松は笑っていた顔を真面目に戻した。

(何やったかな・・・あかん、その研究所の名前忘れてもうた・・ほんま、俺って阿呆やわ)

 近松は自分の情けなさに一人突っ込みを入れると運ばれたビールで最後の玉子焼きを口に頬張った。

(暑いけどこれから署に戻るか・・年とるとあかんな、簡単なことでも忘れてまうわ)

 そんな毒づく近松を店の外から見ている視線が在った。

 視線の主は背の高い体格のしっかりした男で、店に入った近松の飲んでいる姿をずっと暖簾越しに見ていた。

 その男が情けなさそうに呟いた。

「刑事が昼間から酒飲むんかい。いい身分やのぉ、阿保やな、このおっさん」

 男は近松から視線を外して通りを歩いて小さくなってゆく水野の姿を見た。

 そして店をゆっくりと離れて水野に向かって歩き出した。

 近松は自分の考えに没頭し過ぎたかもしれない。

 だから店を出た水野の後を追って歩く大きな男を暖簾越しに見逃してしまった。

 刑事が尾行されていたとも知らず、近松はビールを一気に飲み干すと大きなげっぷをした。



 車は正確に歩道の横にピタリと止まった。止まると運転席から男が出てきて後部座席のドアを開けた。

 開けたドアから女のピンク色のヒールが見え、続いて薄いクリーム色の帽子が出てきた。

 帽子の短い鍔の下で女が少し咳き込み、美しい睫毛が揺れた。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」男の心配そうな声に対して玲子は手を振った。

「大丈夫、大丈夫よ。高木さん」

 そう言い終わると水色と白色のストライプのワンピース姿の女性がゆっくりと姿を現した。手に小さなバッグを手にしていた。

 玲子は目の前に立つ古いビルの前で空を見上げた。曇ってはいたが雨が降り出しそうな感じではなかった。

 高木が車の後ろに回りトランクを開けて傘を取り出した。

「雨が降って身体が濡れるといけないので傘をお持ちになって下さい」

 玲子は高木のほうに向かって、いいからいいからと手を振り

「高木さん、雨はまだ降らないと思うから傘はしまっておいて」と言った。

 高木はそう言われて空をちらりと見ると、そうですか・・大丈夫ですかね、と呟いてトランクを閉めた。

(大丈夫よ、きっと)そう思うと玲子はビルのドアに向かって歩いて行った。

 ドアは半分開いていて奥に螺旋階段が見えた。

 玲子はドアをくぐり螺旋階段へ向かった。向かいながら上のほうから階段を下りてくる人の音が聞こえるのが分かった。

 玲子は立ち止まり音のするほうを見上げた。帽子の短い鍔の向こうに螺旋階段を下りてくる人影が見えた。

 やがてその影は玲子と視線が合うと立ち止まった。

「玲子さん、久しぶりです。権田です」

 はっきりとした初老の男の声が螺旋階段の上の天井に響いた。

 玲子は背の低い男の口元の豊かな白髭を見ると目元に微笑を携えながら、帽子を取って頭を下げた。

 玲子が目を軽く伏せて頭を下げる。

 この人物は戦後からの父の友人だった。その友情は少年時代までさかのぼる。本人が言うには「父に命を助けてもらった」とそうだった。

 父にそのことを玲子が聞くと、「戦後の事だから」と言ってあとは唯笑って何も答えてくれなかった。

 現在は元町のギャラリーの経営を息子に譲り、自分が所有しているビル等の不動産を管理する仕事をしている。

 玲子が訪れたこの建物も権田の所有している建物だった。

「権田さん、お久しぶりです。乾です。大分、ご無沙汰をしていました」

 二人は少し歩み寄って近づくとお互いに軽く右手で握手をした。

「大分ご無沙汰でした。現在、乾社長はヨーロッパのほうでお仕事をされているようですね、海運業は昔みたいに荷物を背に担ぐ時代ではなくなりました。大量の荷物を大型のコンテナ船で運ぶ時代です。日本だけでは仕事ができない大変な時代になりました。今はベルギーのアントワープに事務所を開設されるとかで欧州にいらっしゃるようですね。今思えば乾社長は僕が二十歳の頃ころからずっとアメリカに行ったりして外国に積極に出向き忙しく働いている。全く休み暇もないようですね」

「そんなことは無いですよ。父はそう言っていつも家族には仕事だと言って出張を利用して実は外国でこっそり美術館巡りをして画廊で絵を買ってくるだけですよ、権田さん」

 玲子の笑い声が響いた。

「成程、そうかもしれませんね。僕も元町で画商をしていた頃は、乾さんが海外に仕事に行く度について行って二人で良く掘り出し物の絵画の買い付けなんかをしていましたからね」

 権田は懐かしそうに思いを巡らせながら話を続けた。

「でも時に僕にも内緒でふっと消えられる。そんな時は決まって誰かの絵画を買っていらして、その買われた絵画はいつも内緒でした。ご自分の唯一のコレクションだなんて僕に言っていましたが、その絵が誰のどんな作品なのか分からなかった」

「父は少しそうした秘密を持ちたがるところや大事なことを他人に勿体ぶるところがあります。だから娘の私ですら父が今でもわからないことがあるのですよ」

 うん、うん、と権田は頷いた。

「ところで玲子さん、お父様から聞いていましたがお身体のほうの調子はいかがですか」

 権田は玲子の掌にそっと左手を置いて言った。

「一年程前はとても身体が辛かったのですが、今は大分元気になりました」

「そうですか、それは良かった」

 権田は玲子の掌から両手を離すと微笑した。そして後から入ってきた高木に目礼をした。玲子は高木のほうを見て「高木さん、少しここで待ってくださいね」と言った。

 わかりました、と言う高木の短い声の後に玲子は高木を呼び止めた。

「高木さん、たまきさんに確認をお願いします。その後自宅に例の件で私宛に電話がなかったかどうか」

 高木は無言で頷くと周囲を見回し、近くの公衆電話へ向かって走り出した。

 権田は少し険しい表情の玲子の肩に手を置いた。

「玲子さん、妹さんはきっと大丈夫ですよ」

「ええ、そうですね・・権田さん。すいません、こんなことに巻き込んでしまって」

 権田は玲子の肩に置いた手を離すと螺旋階段へと促した。

 ヒールの螺旋階段を踏む高い音がビルの天井に響く。

 二人は階段を上がっていった。そして二階で階段を降りると、奥へ進んだ。

「権田さん、例の方はここに?」

 玲子の声に権田が答えた。

「ええ、この二階の奥にいます。今は誰もこんな古いビルは使わないのですがアールヌーボー調の内装を気に入ったのか最近入居されたのですよ」

「若い方ですか?」

 権田はどうだろうという顔つきをした。

「三十代中ごろですかね、顔つきには意外と品はありますよ。それにあちらのほうの腕も良さそうです」

 玲子は無言で頷いた。その腕がなくては今回の仕事はできないと思っていた。

「秘密は守ってくれますかね」

 権田は静かに黙って小さなドアの前に立った。

「期待しましょう、何となくですが彼なら期待に応えてくれそうな気がします」

 そうですか、というと玲子は権田に向かって聞いた。

「名前は何というのですか」

 権田はドアをノックして、玲子を振り返った。

「水野です。水野静君と言います」


 ドアをノックする音に水野は洗面台から振り返った。先程まで近松と言う刑事と話をしていたが最後は怒って席を立ってしまった。急いで歩いてアトリエに戻ったが気持ちが落ち着かなかった。

(人を犯罪者扱いにしやがって)

 そう思いながら額に汗が噴き出た顔を洗っているとドアをノックする音がした。

 水野は深く息を吸うと静かに部屋のドアを開けた。

 目の前に家主の姿が見えた。その家主の後ろに水色と白色のストライプのワンピースを着た女性の姿が見えた。

 家主の顔を見ると少し複雑な気持ちになった。しかし顔色を変える事なく「どうも、権田さん」と微笑をして小さく言った。

(今この人は仕事の依頼人だ)

 そう一瞬で割り割り切った。

 そして「どうぞ」と言った。

 言った時、ちらりと女性の顔を見た。

 長い睫毛の下の大きな目から受ける女性の印象がロシアのクラムスコイが描いた《忘れえぬ人》に似ていると思った。

(しかしこの女性は誰だ?絵の依頼と関係があるのだろうか)

 権田は後ろを振り返ると女性が頷くのを見て「では」と言って部屋に入った。女性も続いて部屋に入った。

 水野は二人が部屋に入るとドアを閉め、小さなソファのほうに手を向けて「こちらにどうぞ」と言った。

 二人はソファに腰をかけた。

 水野は部屋の奥から折りたたみの金属製の椅子を運んで二人の側の寄せると腰をかけた。

 そして胸ポケットから煙草を取りだすと「失礼」と二人に言って、煙草に火をつけた。

(さっきの事も含めてどうも気持ちが落ち着かない。それに初対面の人の前となると余計に・・)

 水野はそう思いながら煙草の煙をゆっくりと吐いた。吐き出した煙草の煙が静かに部屋の天井に上っていく。天井に煙が届くと音も無く消えた。

 消えると同時だった。

 煙草の煙に玲子は咳き込むとバッグから白いハンカチを取り出して口に当てた。

「水野さん」

 権田の声が響いた。

「実はこちらの方ですがご病気があって、申し訳ないのだが煙草は・・」

 そう言う権田の腕に手を添えて玲子は「大丈夫ですから」とハンカチを口にあてながら言った。

 水野はそんな二人を見て慌てて煙草を灰皿に押し当て消した。

「すいません、ご病気がおありなのですね、申し訳ない。自分の癖でね。初対面の人の前では緊張してしまって煙草を吸わないと落ち着いて話ができないのです」

 玲子のほうを見てすまなさそうな顔をして、煙草を胸ポケットにしまった。玲子は水野のほうを見て微笑した。

「お優しいのですね。父は私のことなど気にしないで四六時中、家で所かまわず煙草を吸っています。全然注意しても止めてくれないのです。それに比べれば咳き込む女性を見て、直ぐに煙草を消してくれるなんてお心が優しいことです」

 それを聞いて権田が水野のほうを見て微笑した。

 玲子は「本当に」と言ってハンカチをバッグにしまった。

 ハンカチを仕舞うのを見計らって権田は水野に言った。

「水野さん、こちらの方を紹介します。実は私があなたに絵を依頼したいのではなく、こちらの方が今回私を通じてあなたに絵の依頼をされたいと言ったのです」

「そうでしたか。いえ、別に誰だってかまいませんよ。仕事の依頼が間接でも直接でも絵を描くことは変わりありませんから」

 そうですか、と言うと権田は視線を玲子に向けた。 

「はじめまして、水野さん。私は乾玲子と言います。権田さんから水野さんのことを聞き、今日は芦屋からこちらにお伺いさせていただきました」

「こちらこそ、はじめまして。芦屋からわざわざ・・ここまでありがとうございます。僕は水野静と言います。小さなアトリエを構えて模写を生業としているしがない画家です」

 水野はちらりと権田を見た。この後に訪れるかもしれない初対面の二人の沈黙を避けたい視線だった。

 権田が視線に促されるように話を切り出した。

「あなたがこのビルに越してきた時、部屋に運んでいた荷物の中から床に落ちた絵を私が手にとって素晴らしいと言ったことを覚えていますか。確かあの作品はダリの《記憶の固執》だった」

「ええ、覚えていますよ。手に取って素晴らしいと言われ、その後、僕に敷金は要らないから、代わりにこの絵を貰っていくと言って作品を持って帰られたのですからね」

 水野は微笑して、視線を床に落とした。

 権田は話を続けた。

「いえ、実はね、水野さん、あの時言いそびれてしまいましたが、私はついこの前まで神戸の元町でギャラリーを開き、画商兼オーナーとして絵を売っていたのですよ。だから絵を見る力はあると自負しています」

 意外なことに驚いて水野は視線を上げた。

「なんという画廊ですか?」

「ギャラリーLEONと言います」

「ああ・・、そのギャラリーなら知っていますよ。神戸のみならず全国の作家や、世の中にまだ広く知られていない作家の作品を扱う関西の老舗画廊だ。作家を育てる手腕もなかなかのものだと聞いています。そうでしたか、権田さんはそこのオーナーでしたか・・」

「もう、代替わりしましたがね。今は息子が店を継いで居ます」権田は微笑を水野に向けた。

 微笑につられる様に水野はポケットから煙草を取り出した。だが直ぐにはっと気づくと玲子のほうを見て苦笑いをした。

「癖ね?」玲子が少し首を傾げて微笑した。

「ええ、すいません」

 水野は笑って答えるとポケットに煙草を入れた。

 それを見て、にこりと笑うと権田は話を続けた。

「水野さん、私は長年多くの絵画を見てきたが、あなたの模写の技術は大変素晴らしい。失礼だが家賃を頂くときにマネ、マグリット、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、いやそれ以外のいくつかの模写を見させていただきました。それらは全て本物を越えているかもしれない。あなたはそれぐらいの腕前ですよ。ええ、この私が保証します。だから今回乾さんからある画家の模写のお話を伺った時、あなたしかこの依頼を頼める画家は居ないと思いました」

「それは・・大変光栄ですね、ギャラリーLEONのオーナーのお墨付きをいただくなんて、これ程の栄誉は無いですよ。これからの仕事の励みにもなります」

 水野は視線を床に落とした。

 玲子のきちんと揃えられたピンク色のヒールの先に部屋に差し込む陽の光が当たっているのが分かった。

「それに・・私ね、以前、水野さんの作品をギャラリーで見たことがあるかもしれないのですよ」

「え・・・?」

 水野は驚いて権田を見上げた。

「僕の絵を・・ですか?残念ながらLEONには行った事が無いのですが。それはいつですか?」

「一年程前です。私が引退する一週間ほど前でした。一人の女性がギャラリーに現れて一枚の絵を見せたのです」

 水野は、聞き入るように身体を少し傾けた。

「最初、新人作家の持込かと思いましたが、女性はただこの絵を本物かどうか私に聞きたかったようでした。その絵はルノワールの《陽光の中の裸婦》でした」

 水野は無言で権田の顔を見上げた。

「私も一瞬、その絵を本物かと思ったのです。それ程、素晴らしい出来栄えでした」

 権田の溜息が漏れた。

「しかし左の薬指にリングが描かれていますし、勿論、美術館にあるような有名な作品を一般の方が持っているはずはありませんから、私はその方に残念ながら贋物です、でも一般の方が見れば本物だと思うでしょうねと言いました。で、そう言ってから誰が描かれたのですか?と聞いたのです。非常に興味がありましたので・・・」

「それでその女性はなんと?」

「水野、とだけ私に言いました。下の名前は知らないと」

 水野は爪を噛んだ。

 水野はその女性は田川洋子だと思った。

(彼女はLEONに来て俺の作品を見せた。何のために・・?それは俺の絵がプロの目に本物に映るかどうか確認したかったのだ。きっとその時にはもう既に詐欺を働くことを計画していたに違いない・・)

 爪を噛む水野を見ながら権田は話を続けた。

「女性が帰った後も暫く私はルノワールの絵のことがずっと気になっていました。いえ、このルノワールを描いた画家のことがね。そうしている内に少し経って偶然にも水野さんがこのビルに越して来られた。それで引越しの時に見たダリの絵の素晴らしさと家に帰って広げた契約書に書かれた水野さんの名を見て、もしかしたらあの時私がギャラリーで見たルノワールは今目の前に居る水野さんの作品ではないかと思いました」

 聞きながら、水野は先程会った刑事のことを思い出した。

(あの刑事は美術品関係の部署に居ると言っていた・・・。もしも捜査の情報源として個人的に昔からLEONのオーナーと繋がりがあれば田川洋子の詐欺事件に関して何か情報や意見を個人的に求めてもおかしくは無い・・そして運よく権田さんから情報提供を受けて捜査のため俺に接触した)

「図星でしたかね?」

 権田は眉間に皺を寄せて爪を噛む水野に言った。

 水野は首をゆっくりと縦に振った。

「権田さん、僕のところにあなたの知り合いが来てそのルノワールのことを色々聞いてゆきましたよ」

 刑事が来たとは言わなかった。

 自分がその件で刑事に目をつけられていると分かれば、そんな人物を紹介したと言って権田の顔が潰れると思った。

(チクられて嫌な気持ちだが、それはそれ。これはこれだ)

 ちらりと権田を見た。

 権田は水野の物事を柔らかく包んだ表現に満足してにこりと笑った。

(絵ばかりの人物ではない。配慮のできる人物だ。まず信用が置ける)

 権田はそう心の中で思った。

「ところで権田さん、私の依頼のお話をそろそろ水野さんにしていただけませんか。申し訳ないのですが、少し・・急いでいますので」

 横から玲子の澄んだ声が二人の会話に割り込んできた。

 権田のおおと言う低い声が聞こえて「そうでした、いやこれは長話を・・失礼しました」と権田が白髭を撫でながら玲子に言った。

(急ぎの依頼か・・)

 そう思いながら水野は権田の言葉を待った。

「水野さん」

 権田は白髭を撫でた手を止めて水野に言った。

「今からお話しする話は水野さんが依頼を断ったとしても、その話の内容だけでなく依頼があったことすらも他言無用でお願いしたいのですが・・いかがでしょうか」

 水野は少し目を細めて権田を見た。

 模写の依頼を受けるとき、その個人にとって特別なものである場合は、こうした条件を受けることが多い。

 他言無用、絶対に秘密・・

 その言葉の裏には依頼人個人の人生を縛り続けてゆく理由が隠れているのかもしれない。

 だから、何故か・・という理由を水野は聞かない。

 理由を聞けば完成した模写を本物とすり替えたり、また本物を隠すためのフェイクとして利用したり、また場合によっては贋作として犯罪に用いると言わなくても良い本当の理由を依頼人は言うかもしれない。

 それらは聞かないほうが良いことであり、依頼人の人生の中で、心深くいつまでも秘匿しておくべき事柄だ。

 依頼人の心の中は決して詮索しないこと・・・

(それがとても大事なことで、依頼人との信頼につながる)

 だから証拠が残らないように出来上がった作品の写真は一切撮らないし、使用した絵具や道具類は場合によっては箱に詰めて海に捨てた。

 それは依頼人の為に、いやもしかしたら自分の為にかもしれないが自分のアトリエで描いたという痕跡は一切残すことは無かった。

 水野は常に思っている。

 模写の仕事で成功する為には腕前も確かなものが必要だが、意外にもこうした依頼人の個人的な秘密を守ると言う律儀さが必要だと。  

 水野はじっと目を閉じた。

 そして両手を合わせて口元を隠して静かに言った。

「権田さん、問題ありませんよ。他言無用、勿論、秘密は守ります」

 水野はそう言うと目をゆっくりと開いて玲子を見て、そして権田に向かって大きく頷いた。

「話を伺いましょう。依頼は誰の何という作品ですか」

 権田は玲子のほうをちらりと見た。

 そして水野に言おうとしたところを玲子の白く細い指が素早く動いて止めさせた。

「権田さん、それは私が」

 玲子はハンドバッグを開けて写真を取り出すと水野に渡した。

 水野は渡された写真を見た。

 額に入った白黒の向日葵の写真。

 そう水野は昔この写真を美術雑誌で見たことがあった。薄ぼんやりとしている記憶が鮮明に色彩を浴びて甦って来るのが分かった。

 そして言った。

「これは・・ゴッホ芦屋の向日葵・・」

 それは絞り出すような声音だった。







 水野は渡された写真を見て思わず声を出した。

「縦98センチ、横69センチのキャンバスに青色の背景を背にして黄色の向日葵が描かれている。向日葵の数は5本、枯れているのを含むと6本・・・」

(あの近松と言う刑事が自分に話してくれた向日葵の内容は確かそうだった)

 水野は近松の言葉をなぞるように声を出した。

 今日偶然にもそれぞれの理由で《芦屋の向日葵》が自分の時間軸の中で交差した。

 ひとつは詐欺事件として、そしてもうひとつは仕事の依頼として。

 二つが交差する線上で自分の薄ぼんやりとした記憶の向日葵と手にした色鮮やかな写真の向日葵が互いにシンクロして鮮やかな輪郭を持って色彩を放った。

 それはゴッホが見たであろう南仏アルルの青い空に輝く黄色い太陽だった。

 水野は権田に思わず(何故、この絵を・・?)と言いそうになる気持ちを抑えながら言った。

(これを模写するとなると・・)心の中で呟きながら権田を見て行った。

「権田さん、何かこの絵の資料はありますか。僕の記憶では今手にしているこの武者小路実篤と山本顧弥太の両氏が写っている白黒の写真しかこの《芦屋の向日葵》を見たことがないのですが。それにこの絵はカラー写真も無いのでは?」

 玲子が水野のその言葉が終わらないうちにハンドバッグを開けると白く端が茶色に変色した紙に包まれたものを膝の上に出した。

 水色と白色のストライプワンピースの膝の上でゆっくりと紙を広げると、包みの中から二枚のカラー写真が現れるのが水野にも見えた。

 玲子は丁寧に写真を取り出すと水野に渡した。

 水野は指紋が付かないように端を持って写真に視線を落とした。

 三十代ぐらいの父親だろうか、その父親が椅子に座り膝に女の子を一人乗せていた。その女の子のより少し年上の女の子が父親の横に立っている。

 その後ろに木製の額に飾られた向日葵の絵が見えた。向日葵は青色の背景に描かれていた。

 その向日葵は先程見た武者小路実篤と山本顧弥太の後ろに写っていたものと寸分違わず同じものだった。

 水野は思わず語調を強めて言った。

「これは《芦屋の向日葵》・・!!」

 水野は玲子を見た。

 玲子は静かに水野を見て頷いた。

 権田は背を少し丸めて両手を静かに組むと水野の表情を見た。興奮して当惑している水野の顔が見えた。

 その水野に向かって玲子が話しかけた。

「この絵は父が所有している或る作家の絵画です。今世間一般では《芦屋の向日葵》と言われているものです。この向日葵の絵が本物の絵かどうかということについて私は知りませし、私自身そのことについては少しも興味がありません。それについては父のみが知っていることで良いと思っていますから、水野さんには私からその絵について何もお話はしませんし、質問にもお答えはしません」

 玲子は残りもう一枚のカラー写真を水野に渡した。そのカラー写真は《芦屋の向日葵》のみが正面から一定の距離間で撮られB5サイズ程に引き伸ばされた写真だった。カタログ・レゾネ等に使用されるような写真の精度だった。

 間違いなく誰かプロのカメラマンが撮ったものだと水野は見て思った。

「父の書斎にはこの向日葵の絵を正面から撮った写真だけを集めたアルバムがあります」

「アルバムですか?」

 水野は写真から目を離して玲子を見た。

「お父様は几帳面な方のようですね。先程の煙草の話で豪快で粗野な感じの方かと思ってしまったので少し意外でした」

 玲子は水野の言葉に口元を手で隠して笑うと、居住まいを正して権田と水野を交互に見た。

「水野さんが見ているその写真は父が外国へ出張の際、携帯してどこでも見られるように作成されたアルバムから抜き取って今日ここに持ってきたものです。きっと水野さんが私の依頼を受けていただく際に必ず必要な資料になるだろうと思い今日持参してきました」

「お父様は現在外国に?」

 ええ、と玲子は言った。

(芦屋のお嬢様か・・、きっと彼女の親父はどこかの企業のエリートに違いない)

 水野は写真に視線を落とした。視線を落とした水野を見て玲子は話を続けた。

「父は今回の出張にこれを持っていくのを忘れたようです。幸いでした・・」

 溜息をついた玲子を見て、思い出したように権田が言った。

「玲子さん、確かに私が乾社長と一緒に出張に同行させていただいた時、青いアルバムをバッグの中に入れられているのを数回見ましたよ、そのアルバムにこの写真があったのですね」

 権田のほうを見て玲子が頷いた。

「権田さん、アルバムから写真を持ち出したことは父には秘密でお願いします」

 権田は首を縦に振ると水野のほうを見て言った。

「水野さん、いかかがですか。これでは資料として不足でしょうか?」

「原画はお借りできますか?」

 水野の質問に玲子は首を横に振った。

「でしょうね」

「すいません」

 小さく言った玲子の言葉に水野は暫く無言で居たが写真を膝元に置くと手を頭の後ろに組んだ。

(伝説の名画の模写か・・・)

 目の前に座る二人を見た。

(それだけじゃない、何か大きな秘密がこの絵の背後に存在しているようだ・・・)

 そう思うとこの絵の所有者である玲子を見た。

(彼女は何者だろう・・)

 しかし、水野は首を振った。

(それは余計な詮索だ。画家は唯絵を描くのみ)

 心に風が吹いて余計なものを吹き飛ばした。

「権田さん、資料はこれで十分です。何時までにこの絵を仕上げれば良いのですか?」

「仕上げられますか?」

 権田の質問に間を入れず水野は言った。

「問題ありません。ただ油彩ですから乾く時間も含めて一カ月は必要です」

 権田の顔に喜色が広がるのが水野の目に分かった。

「玲子さん」

 権田が玲子に返事を促した。

「どうでしょう?」

 玲子は水野を見つめた。

「期限は七月二十五日までに」と玲子は言った。

 水野はカレンダーに目を向けた。今日は六月二十五日だった。期限は約一か月後だった。

「天神祭の日ですね」

 水野はそう呟きながら、頭の中で作業工程を整理した。

 油絵の具が自然に乾いて落ち着くまでの期間を考えると着色はおそらく良くできて三回、となればもう月末には一回目の着色に入らなければならない。

 直ぐにでもデッサンに取り掛かる必要があった。

(今依頼を受けているピカソは後回しだ)

 そう結論づけると水野は二人を見た。

「早速取り掛かります」

 それを聞いて玲子が席を立ち、水野の手を取った。

 白い指が水野の手を柔らかく握った。

「水野さん、必ず・・必ず、期限までにお願いします。遅れると・・」

 玲子はそこで言葉を急に止め、ソファから立ち上がった。

 権田も立ち上がった。

 水野は玲子の顔を見た。美しい睫毛から涙が溢れていた。

 涙に濡れた瞳が水野を見ていた。

(涙・・、どういうことだ)

 水野は戸惑った顔つきで玲子を見た。

 玲子は顔を下すとハンドバッグを開けてハンカチを取り出して目頭を押さえて涙を拭いた。

 水野は玲子から視線を外すと権田を見た。

 涙の理由を聞きたくなったが、玲子の涙を流した理由がきっとこの仕事の依頼の動機だと直感的に感じた。

 だから水野は二人を無言で見送った。



 水野のアトリエを出た玲子は螺旋階段を下りた。

 ヒールの階段を踏む高い音がビルの天井に反射して自分の耳に響いてくる。直ぐに権田の革靴の音も響いてきた。

 二人は無言のまま螺旋階段を下って行った。

 エントランスで玲子は後ろを振り返ると権田に微笑した。

 権田も無言で微笑を返した。

(赤いままの涙目でいると、高木さんが心配するといけない・・)

 玲子は帽子を目深くまで被ると、入口のドアを開けて明るい通りに出た。

 通りに自分を待つ車が見えた。

 見えたと同時に運転手の高木が車から降りてきて後部席のドアを開けてくれた。

 近寄る玲子に高木が声をかけた。

「お嬢さん、いかがでしたか?」

 玲子は首を軽く下に振ると問題ないといった表情で高木を見た。

「そうでしたか、それは良かったです」

 玲子は帽子の鍔を押さえて二階を見上げた。陽光がビルの壁に反射して眩しかった。

 後からやってきた権田も玲子の側に来て同じようにビルを見上げたが直ぐに視線を玲子に戻した。

 鍔の影で見上げる瞼の下の瞳は既に乾いていた。

「玲子さん、警察には連絡しなくて本当に良いのですか?」

 雲の切れ間から差し込んだ陽光がビルの壁に反射して一層眩くなった。

 権田の言葉に目を細めて二階を見上げたまま言った。

「ええ、それが相手との約束ですから。警察には絶対連絡しないこと。もし警察に連絡すれば妹の命だけでなく、父の名誉まで傷がつくことになり乾グループは社会的信用を失うことになるでしょう」

「でも相手が約束を守ってくれるとは限らないのでは。妹さんと絵を引き換えに渡した後、どこかに雲隠れして・・・」

 首を振る玲子は権田のほうを向いた。

「今は相手を信用しなければなりません。例え相手が犯罪者であったとしても。私達はお互いが信用すべき取引相手と思って行動しています。この取引において相互に利益がある限り、妹の命も父の名誉もそして相手の個人的欲求も保障されています・・」

 玲子は微笑した。

「だから権田さん、大丈夫です」

 高木が開けたドアを潜り玲子は座席に座った。

 高木がドアを閉め運転席に座ると後部座席の窓が開いて玲子が顔を出した。

 玲子が権田に黙礼をすると窓が静かに閉じて、車はゆっくりと進みだした。

(でも玲子さん、あなたはその相手をトリックに嵌める為に危険な罠を仕掛けようとしている・・)

 権田は走り出した車の窓に見えた玲子の横顔を見て思った。

 そして軽く右手を上げて出て行く車を見送った。

(これは奇術の綱渡りのような危険で危ういものだ。だってそうでしょう、本物の絵の代わりに・・偽物の絵を犯人に渡すのだから)

 権田は頭上から降り注ぐ自分の姿が玲子の視線の中で街の影になるまでその場に立っていた。

 少し後ろを振り返る玲子の視線から権田の姿が少しずつ遠くになってゆくと運転手の高木が声をかけた。

「お嬢さん、たまきさんに確認をしました」

「どうでしたか?」

「ええ、相手から連絡はなかったようです」

「そうでしたか・・」

 玲子は溜息をついた。

「その代わりと言っては何ですが、社長からお嬢さん宛にお電話があったようです」

 玲子は「えっ?」と言って、目を開いて高木を見た。

 出張中の父から電話があることはほとんど珍しい。父は仕事と私事は必ずきちんと分けて行動する。

 仕事に集中するため例え外国に居ようが徹夜になろうが家族の心配の為に電話はしてこない。

 余程の私事で無い限り仕事熱心な父は自宅に電話は寄越さない。勿論そのことを良く知っている家族は誰も父に連絡を取らない。

 自分が記憶している限り過去に仕事中に父から電話があったのは母が危篤になった時だった。

 その時、幼かった自分が父からの電話を取ったのは覚えている。

 父と何を話したかは、もう覚えてはいない。

 ただ電話口での父の涙声に交じる嗚咽だけを自分の記憶の懐かしい音として覚えている。

 そんな父から自分宛に電話があった。

 玲子は少し体を運転席のほうに身体を乗り出して高木に言った。

「高木さん、父は何と?」

「ええ・・それが、たまきさんが電話を取られていまお嬢さんが大阪に行かれて不在ですと社長に言うと、また夜にかけ直すと言われたそうです」

「父が電話を夜にかけ直す?と言ったのですか」

 玲子は驚いて高木に言った。

「ええ、珍しいことです。ですから社長がもしかしたら日本でおきていることを耳にされたのではないかと、たまきさんは私に言っていました」

(それは無いはず、今回の件は屋敷内でも私とたまきさん、運転手の高木さん、あとは権田さん・・それ以外には誰も知らない)

 玲子は唇を噛んで車の窓から外を見た。

 遠くに中之島公会堂の屋根が見えた。その公会堂の屋根が段々と低くなっていく。

 車が高速の入り口を上っているのだと分かった。

 玲子は少し咳き込んだ。

「お嬢さん、少し無理をされたのでは」

「ええ、少し今日は張り切りすぎたみたい」玲子はそう言って座席のシートに身体を深くもたれさせた。

 阪神高速の壁越しに伊藤忠ビルが見えた。本町へ車が流れているのだと玲子は思った。

 あと一時間もあれば屋敷には着くはずだと思うと、静かに瞼を閉じた。

 少し眠りにつこうと思った。










 二人が帰ったアトリエで水野は早速作業に取り掛かった。

 薄くオレンジ色の液体をハケの先につけると、背を曲げてゆっくりと白地のキャンバスの上に塗ってゆく。

 それを丁寧に一列ずつ、少し重なるようにゆっくりと塗ってゆく。縦に塗り終わると今度はキャンバスを90度動かし、また縦に塗ってゆく。それで塗った列の縦横が交差する。

 作業は一回では終わらない。

 水野は再びハケの先に先程の液体をつけるとキャンバスの表面に息が表面にかからないように注意しながら同じように作業を繰り返してゆく。

 ハケが上から下に動く度、液体の層がキャンバスに何層も重なり合ってゆく。

 やがて徐々にキャンバスに色が着いてゆき、薄いオレンジ色の中で白が透かして見えるようになった。

 そこで水野は手を止めた。

 曲げた背を伸ばすと軽く腰を叩いた。

(年だな・・これくらいの作業で腰が固くなって痛くなるなんて。学生の頃のようにはいかないか)

 自嘲気味に笑うと東京に居た学生の頃を思い出した。

(あの頃なら全然苦にならない作業なのに)

 自嘲気味に笑うとキャンバスの端のほうに身体を屈め、目を細めて表面の層を見た。 

(乾いているかな・・)

 キャンバスの端を人差し指で軽く触れる。触れた人差し指と親指を合わしてゆっくりと離した。

 指は軽く離れた。

(問題ない。表面は既に乾いている)

 今度は目を細めると自分の毛や体毛がキャンバスの表面に落ちていないか確認をした。

 それらは見当たらなかった。

(オッケーだ。キャンバスはこれでいい)

 ここまでの作業は自分が独自に編み出したものだ。決して書店に並ぶ油絵の教材に書かれているような作業ではない。

 キャンバスに塗ったオレンジ色の液体は自分で調合したオイルだ。

 昔からそうだったが真っ白なキャンバスに木炭で線を引くとその線があまりにも強く出過ぎてしまうようで、それが水野の感覚には合わなかった。

 オレンジを薄く塗ったキャンバスに木炭で線を引くと全体が落ち着き、それは水野の感覚に合った。

(大学の教授には良く馬鹿にされたものだ・・全く意味のない作業だと・・)

 水野は首の音を鳴らして立ち上がると今度は奥の部屋に入り二種類のイーゼルの前に立った。

 ひとつは三脚の上にキャンバスを置くもの、もうひとつは垂直にキャンバスをはめ込んで固定するものだった。

(しかしこのルーティンのおかげで良い模写ができる。教授には意味が無い無駄な作業に見えても、俺にとっては大事な作業なのさ)

 水野は垂直にキャンバスをはめ込むものを選んで別の部屋に運んだ。

 水野が入った部屋には壁から1メートル間隔で床に白い線が三本引かれていた。

 水野は壁から一番手前にところにそのイーゼルを置くと壁に写真を置いた。

 写真を見ながら大まかな作業手順を考えた。

(まずはデッサンだ。小さい写真だから最初は近くで細部を確認しながら進めよう。その後は着色だが、その時は後ろに少し下がって写真全体を確認しながら塗る)

 2メートルの線のところに下がり写真を見て着色時を想像する。

 下がることで全体が良く見える。

(近寄りすぎて自分の中に色彩の印象が残りすぎるかもしれない。着色時に冷静にそうした印象が取り除けられるかが大事だな。大げさに言えば色彩は常に180度、どの方向にも均等に伝わらなければ意味がない。それを忘れてしまうと失敗する)

 水野は元の場所に戻ると椅子を寄せて腰掛け、先程のキャンバスをイーゼルにはめ込んだ。

 イーゼルの調整バーを少し動かしてキャンバスの中心を自分の目線と同じ高さにした。

 そして最後にキャンバスと奥の向日葵の写真の距離感を確かめる為、目を動かした。

 壁に青い世界に輝く黄色が見えた。

(ゴッホだ)

 水野は思った。

(ロイヤル・ブルーに輝くクローム・イエロー、まぎれもないゴッホの作品だ)

 水野は少し写真を見つめて、下を向いた。

 感動が身体を包んだ。

(写真とはいえ現存する正確な資料でこの《芦屋の向日葵》を模写した画家はいないだろう。本来ならば原画をお借りして描きたいと言いたいところだが・・)

 苦みを潰した微笑で指を鳴らすと、静かに木炭を手に取った。

 木炭を親指と人差し指で軽く回す。そして息を吹いて木炭の先の肉眼では見えない塵を取り除いた。

 木炭をゆっくりと上げてゆく。

 目線まで来るとじっと無言で木炭の先を見つめた。

(あとはやるだけだ)

 水野は薄く瞼を閉じて、呼吸を止めた。腕を動かしてキャンバスに木炭が触れた。

“ドン”

 触れた時、部屋のドアを激しく叩く音が聞こえた。

(何だ?)

 ドアのほうを見た。

“ドン、ドン、ドン”

 今度はドアを叩く大きな音が三度した。ドア向こうの人間はドアをノックしているつもりだろうか、音がそれにしては大きい。明らかに手で叩いていた。

 ちっと激しく舌打ちした。

 集中し始めたところでいきなり出鼻を挫かれた思いだ。

(一体誰だ?権田さんじゃあるまい、こんな失礼な訪問をする奴は)

 ドアに近づくとまた音が鳴った。二度目より大きな音だ。

 明らかに扉を蹴っている音だ。

 ドアを壊して中に入るつもりか、と水野は思った。

(ふざけるんじゃないぜ)

 水野はドアを勢いよく開けた。

 ドアに弾かれて誰かがふらついた。

「誰だ、ドアを蹴りやがって。警察に通報するぞ!!」

 水野は睨み付けてそのふらついた人物の姿を見た。

 背の大きい男だ。2メートルはあるかと思われた。顔を見てやろうと思い視線を上げた。 

 短く刈り上げられた髪に顎が突き出ていた。目は窪んだ様になっていて鷲鼻だった。全体がイースター島のモアイを思わせた。

(誰だ、こいつ?知らない顔だ)

 水野は男の顔を睨んだ。睨みながら男を観察した。

 男は麻のアロハシャツの上に白いジャケットを着て、青いジーンズを履いている。何かスポーツでもしていたのか体つきはしっかりとしていた。

「なんや、なんや」

 そう言いながら男はふらついた体裁を整えると水野を見下げるように言った。

「サツやて?」

 男は薄ら笑いを浮かべた。

「そんなん呼んだら、あんたが困るやろ」

「何だと?」

 水野はドアを出て男の胸倉を掴もうとしたが逆に男の腕に胸を押されて部屋に押し戻された。

 男が後ろ手にドアを閉めた。

 そして部屋を見回した。壁に掛けられた絵や棚に置かれた絵具類を見るとへー、と声を出した。

「あんた画家かいな」

 ポケットに手を入れて、水野を見下ろした。

「それで洋子がルノワールを持っていたわけか。あんたがあの絵を描いたんやな」

 水野は男が洋子と言うのを聞いて睨み付けていた目を細めた。

(こいつ・・誰だ?)

 男は背を屈めて水野の側まで顔を寄せた。

「あんた、洋子のこれか?」

 薬指を立てた。

 水野は無言で答えた。

「だんまりか・・まぁそんなんどうでもいいわ」

「誰だ?」

 水野は低い声音で言った。

「俺か?」

 男が薬指のまま自分を指した。

「そうだ」

「なんや知らんのか、あんたさっき曽根崎の近松って言う刑事と飲み屋で一緒やったやろ。その時俺のこと聞いたはずや」

 水野は眉間を寄せた。刑事との話の内容など《芦屋の向日葵》のこと以外殆ど覚えていない。

「知らないね、覚えてない」

 ふーん、と男は言った。背をもとに戻すとそっか、と言った。

「あの刑事とは俺は若い頃の馴染みでね。この前曽根崎に詐欺に遭って被害届出した時、向こうは知らなかったみたいやったけど俺は覚えてたんや。そりゃ、自分を捕まえた男の顔を忘れるわけないわな」

 そう言えばそういう話を刑事がしていたのを水野は思い出した。

 そう男の名前は、確か・・

「俺の名前は浦部進。どや、思い出したか?」

 思い出した、そんな表情した水野を見て浦部はにやりと笑うと水野に言った。

「ほな、話が早いわ。洋子から預かっている俺の向日葵返してもらおうやないか。あとついでに利子としてあのルノワールもな」

 水野は当惑して浦部の自信たっぷりの顔を見た。



 周囲は白樺の林だった。

 静かな雨音が白樺の葉を濡らしているのが見えた。

 ここがどこなのか自分は分からない。

 数日前、新神戸駅から東京行き新幹線の指定された席に乗った。京都駅を過ぎると見知らぬ男が隣に座った。

 新幹線が動き出した時、男は自分のほうを振り向くと自分の名前を言った。

「乾綾子さんですね」

 自分の名前を言われて綾子はええと言って男を見た。

 その時、ハンカチで口と鼻を押さえられた。

 何か強い薬品の臭いを嗅いだのを覚えている。それで綾子は眠りに落ちた。

 目を覚ました時、自分が見知らぬ建物の中のベッドで寝かされているのが分かった。

(ここは、どこだろう)

 寝たまま少し首を動かした。

 ドアが見えた。

 指に力を入れた。指は動いた。綾子は少し指を開いたり閉じたりした。

 神経とかに異常はないようだった。

 それで身体を起こした。

 身体を起こすと窓から差し込む陽光に気付いた。

 朝だった。

 窓から差し込む陽光の向こうに白い枝の木々が見えた。

(あれは白樺の木では・・?)

 昔、幼いころ父と軽井沢の別荘に遊びに来たことがあった。その時、父と姉と二人で白樺の木々に囲まれた小路を歩いた。

 綾子は目を凝らした。

(白樺だ・・、ではここは軽井沢だろうか?) 

 頬を両手で押さえた。

 じっと考え込んだ。

 考えながらつま先に力を入れた。そして足を少し動かす。

(二日前の朝、たまきさんから私宛の電話を取った。電話の声は男だった。男は私に父の名誉のことで大事な話があると言った。それは《芦屋の向日葵》のことだと言った。詳しいことは新幹線の中で話すと言った。このことは父と男しか知らない向日葵の秘密のことで、このことを誰かが公表しようとしている。そうすれば父の社会的信用は落ちて、大きな被害を乾グループの人々は受けるだろう。だから今から言う東京向けの新幹線の車内で極秘裏に打ち合わせをしたいと・・)

 そして風格のある声で最後に言った。

「信じろと言うのも無理なことかもしれないが、私はあなたのお父さんから格別の挨拶を受けている一人だ。もう、時間があまりない。私はあなたを信じて待っている」

 綾子は電話を切ってからでまかせではないかと不安になったが、男が《芦屋の向日葵》と言ったことで、それは余程のことだと思った。

 この向日葵の絵の存在は家族とごく一部の父の親しい人間しか知らない。それを知っているということは父から余程のことで信頼されている人間だと思った。

 自分も成長するにつれてこの絵が伝説の名画と言うことを知った。戦争で焼失した伝説の名画だった。

(それが何故我が家にあるのか)

 そう思うのは当然だった。姉も何も言わないがそう思っているはずだ。

 自分はこの《芦屋の向日葵》の存在が外部には洩れてはいけない何か秘密があるのだろうと思っている。

 それでなければこのような名画は美術館で多くの美術愛好家の為に公開されて愛されるべきだからだ。

(向日葵の絵には秘密がある)男は電話口で自分にそう言った。

 父は秘密主義だ。その秘密は娘であろうとも一言も何も言わない。

 ただ父は自分が不在時にこの絵について何かあれば権田さんと相談しなさいと言った。

 だから綾子は絵の存在とその秘密を知っているのは唯一ギャラリーLEONの権田さんだけだと思っていた。

(向日葵の絵の秘密・・それが我が家にある理由かもしれない)

 しかしその存在を知っている人間が他にもいて、その人物が自分宛に電話をしてきている。

(誰なのか)

 父に確認すれば直ぐわかることだが、その父は今ヨーロッパに出かけている。

(父に確認すべきか)

 綾子はそう思った。

(しかし・・・)

 仕事中の父には家族から連絡をしない。父の仕事を邪魔しない、それは家族の暗黙の了解だった。

(何かしら急な用件なのだ。相手を信じよう、それしかない)

 それで綾子は正午の男の指定した東京行きの新幹線に乗り込んで男を待って話を聞こうと思った。

 屋敷を出る時、庭を散歩する姉と会ったが私用が出来たので東京に行く、と手短に話をしてそのまま屋敷を出た。

 姉は最近体調が良くなってきたが、それでもベッドに伏せる日が多い。

(このことで姉さんを心配させて気苦労を増やしてはいけない)

 だから綾子は姉には黙っていようと思った。

 自分でできれば解決しようと思った。

(しかし結果的には薬で眠らされ、自分が屋敷に戻らないことで姉に心配をかけてしまった・・)

 悔しさに押しつぶされそうになる気持ちを振り払うように綾子は自分に掛けられたシーツを勢いよく払って裸足で床に下りた。

 床の冷たさが足に伝わる。

 部屋のドアを開けた。

 手すり廊下の下に広い居間が見えた。

 天上は高く天窓があった。そこに聖母マリアを描いた見事なステンドグラスが見えた。

 そこから陽が差し込んでいて、それがアールデコ調の家具や椅子を照らしている。

 壁は白く、板張りの床に暖炉が見えた。

 綾子は階段を下りて居間に下りた。

 下りながら居間を見回した。

 居間を飾るのはアールデコ調の家具だけではなかった。

 壁の柱には小さくて見事な彫刻が飾られ、ガラス細工の工芸品が棚の奥に見えた。

 暖炉の側に立ち反対側の壁を見た。

 壁には大きな絵画が見えた。

「あれはマティスのダンス・・」

 綾子は呟いた。

 見回すと書棚が見えた。綾子は書棚から一冊の本を取り出した。

 ボードレーヌの「悪の華」だった。ほかにもゾラの小説が見えた。

(この建物の主は芸術に詳しい人物に違いない・・)

 父の書斎で見た芸術家たちの絵がいくつか見えた。

 綾子は再びこの居間を見渡した。

 ここは芸術品に囲まれた美しい居間だった。

 これほどの美しい居間で迎える朝は、どれほどのものだろうと綾子は思った。

 風が背中から居間に流れるのが分かった。

 綾子は、そちらの方を振り返った。

「おはようございます。綾子さん」

 男の声が聞こえた。新幹線で聞いた男の声だった。

 綾子は目を凝らして男の顔を見た。

 短く刈られた白髪交じりに髪ときれいに伸びた鼻筋。そして短くそろえられた顎髭が見えた。全体的に決して野蛮な感じはなく、品性の漂った風格が漂っていた。

 青色と白のチェックの細かなシャツを着ていてわずかに見える首筋が日焼けしているのか赤かった。

「少し手荒い真似をして申し訳ありません。よく眠れましたか?」

 男はそう言って、くすりと笑った。

「薬で眠らされて、いい眠りのはずがないですよね」

 むっとして綾子は言った。

「ええ、そうです。そして起きればこんな白樺の木で囲まれた建物のなかですから」

 男は綾子の返事に感心したように頷いた。

「白樺の木だと分かるなんてたいしたものです。普通の女性ではそんなことまで中々わかりませんよ。さすがは乾さんの娘だけはある」

「あなたは誰です?ここは軽井沢ですか?」

 男は綾子の言葉には返事をせず手招いて、風の吹いた部屋へ誘った。

「六月にしては清々しい晴れた朝です。こちらで食事をしませんか。居間ほどではありませんが、印象派の作家達の美しいドローイングのある部屋です。そこで少しだけあなたのご質問にお答えしますから。そうそうご自宅とお父さんの方には私の方から連絡させていただきました。ご心配されるといけませんので」

 男は微笑して部屋の中に消えた。

 綾子は眉間に皺をよせて少し考えると意を決したようにその部屋に入った。





 玲子は屋敷に戻ると自分の部屋のベッドで夕方まで横になった。

 疲れていたのだろう、横になると直ぐに眠りについた。

 眠ると夢を見た。

 父と妹と白い木の並木の小路を歩いている夢だった。

 母を夏に病気で亡くした二人の娘の心を思って父が旅行に連れて行ってくれたのだ。

 場所は軽井沢だった。

 妹の綾子がクリムトの描く風景画が好きで、特に林の風景画が好きだったのを知っていた父が風景画と似たような場所が多い軽井沢へ旅行で連れて行ってくれた。

 その小路を歩いた時霧が出ていた為、すべてが白い世界だったのが今でも記憶に残っている。

 その霧が晴れて世界が明るくなってゆくのを認識したとき、遠くで自分を呼ぶ声がした。

 その声が段々と大きくなり、女中の声だと気づくとはっとして目を覚ました。

 外は暗く、時計を見ると午後六時を過ぎていた。

 二階から足早に一階へ下りると年老いた女中が電話を手にもって玲子を待っていた。

「お嬢さん、お父様ですよ」

 玲子は小さくうんと頷くと電話を手に取った。そして一呼吸して電話越しに話し始めた。

「お父さん、玲子です」

 少し空白があって声が聞こえた。

「玲子か?」

「はい、玲子です。今どちらからですか」

「今か?今はアムステルダムだ」

 父の声がはっきりと聞こえた。それで玲子は少し安堵した気持ちになった。

「そちらはどうだ?何か変わったことはないか」

 玲子は少し間を置いて返事をした。

「いえ、何も変わったことはないです」

「嘘をつけ」

 父の間髪入れない返事が返って言葉を玲子は失った。

「綾子のことである人物からお父さん宛に直接電話があった。《芦屋の向日葵》と交換で娘を返したい、とな」

 玲子は激しく鼓動する胸を手で押さえながら父の言葉を聞いた。

「こちらの時間で今朝、電話があった。娘を預かっているのであなたが所有しているゴッホの或る作品と交換したいと。勿論それはあの向日葵のことだとわかっていたが、その時その作品とは何のことか知らないと返事をすると向こうはあなたが持っている《芦屋の向日葵》だ、と答えて来た」

 玲子は黙って父の声を聞き続けた。

「しかしだ、綾子を誘拐しているのが事実であれば嘘はつくことはとても危険なことだ。だからもう一度かけてほしいと、父さんは言った。相手もそれを聞いて日本へ確認できた頃にまた電話すると言ってきた。それでだ・・・」

 父が唾を飲み込む音が聞こえた。

「それでだ、玲子。綾子は今屋敷に居るのか?」

 父の質問に玲子は下を向いたまま答えた。

「お父さん、綾子は数日前から屋敷にはいません」

 電話口の向こうでノイズが聞こえた。

「いなくなったのです。そして電話がありました。綾子を預かっていると・・」

 玲子の声の後、数秒空白があって父の声がした。

「警察へは連絡はしたのか?」

「いえ・・すいません。連絡はしていません」

 自然と涙声になってゆくのが分かった。自分は独断で今行動している。本来ならば父に直ぐにでも連絡すべき事柄であった。

 父の不在時に家を預かる者として不適切な判断だったと叱られても何も言えない。

 妹は誘拐されているのだ。

「そうか・・」

 父の声が重く響いた。

「玲子、父さんは予定を早めて帰国することにする。だがこちらの仕事もあり直ぐには戻れない」

 玲子は無言で頷いた。

「連絡をしてきた人物はまた私に連絡をすると言った。私はその人物に娘と交換に向日葵を渡すと話をしよう、だが向日葵は家族のだれもが知らない場所にありその場所へは自分しか行けないと言うつもりだ」

「わかりました、でも・・、お父さん、直ぐに日本へ戻っては頂けないのですか」

 電話口で父の咳払いをする音が聞こえた。

「玲子、最初父さんもそう考えたのが・・・」

 父の深いため息が聞こえた。

「こちらの仕事はエネルギーを運ぶ巨大プロジェクトだ。国家的な規模で行われている。そのトップが急に帰国となると何かがあったと誰もが考えるだろう。もしそのことをどこかの新聞屋が嗅ぎつければその理由がマスコミに流れて警察沙汰になるかもしれない。それは危険で避けたい」

(そうかもしれない)玲子は心で頷いた。

 頷いた後に父の言葉が続く。

「電話をかけてきた人物は父さんに警察関係へ連絡して介入などがあれば娘の命は無いと断言した。これはあくまで秘密裏な個人的取引だと。相手は犯罪者だが・・今はそれを守らなければならない」

 そして一呼吸おいて

「だからお前の判断はまず良かったと思う」と言った。

「お父さん・・」

 玲子は消え入りそうな声で呟くと涙が溢れるのを止めることができなかった。

 間違いをしているのではないかと自責の念に押し潰されそうな自分が父の一言で緊張の糸が切れて救われた。

 玲子は涙声で嗚咽を漏らしながら、ありがとうと言った。

 父は玲子が落ち着くのを待って話し出した。

「玲子、綾子の事はたまきさんと高木君以外には決して漏らさないようにしてくれ。それと・・・向日葵の絵の事もあるから権田さんに相談して今後どうすべきか協力をお願いするしかない」

 玲子は頷いた。

「お父さん、すいません。権田さんには電話があって直ぐに話をしてしまいました。その時・・・、言わない方が良かったかもしれませんが・・綾子の事も話してしまいました」

 玲子の息が細くなるのが父の耳に届いた。

「それはいいさ」父ははっきりと言った。

「あの向日葵の絵の事で何かあれば権田さんに相談しなさいとと父さんが二人に言っていたのだから。気にするな」

「はい・・」

 気弱い声の娘を励ますように父は言った。

「綾子の事も彼なら秘密を守ってくれるはずだ。それで・・玲子。

 権田さんに話をした時、自宅に電話をかけて来た人物について何か心当たりがないか・・」

 そこまで言った時、父を呼ぶ声が電話口で聞こえた。父が英語で誰かと話をしているのが分かった。

 向こうの話が終わると父が電話で言った。

「玲子、父さん宛に電話があったようだ。例の人物からだ。この電話を切るからまたかけ直す。相手には先ほど言ったように父さんから話をする。玲子、くれぐれも軽率なことはしないように、また連絡する」

 電話はそれで切れた。

 玲子は受話器を静かに置くとその場で座り込んだ。

 父の軽率なことはしないようにと言った声が耳に残り、玲子はいつまでもその場から動けなかった。


 

「府警本部刑事課の壇吉郎、そうそう檀吉や。あいつを課長通さんと黙ってここの資料室へ呼んでくれへんか、用件?うん、安治川の水死体の件やと言っといて」

 水野に会った日の夕方、近松は曽根崎署のドアを潜ると入り口で自分に挨拶する若い婦人警官にそう言って足早に地下の資料室へと向かった。

 資料室と書かれたドアを開けて部屋に入ると年代順に並んだ棚から1963年と書かれた札を見つけて、その中から9月と書かれた分厚いファイルに手を伸ばした。

 それを手に掴むと部屋の隅に置いてある机に向かった。

 帽子を机の上に置くと椅子を引いて座り、資料をめくった。

 数枚めくると手を止めた。

(あった、あったこれや・・忘れたらあかん)

 近松は手帳を取り出し手早く何かを手帳に書き込んだ。

 あとはファイルを閉じると静かに窓の外を見ていた。

 一時間程するとドアが開いてパンチパーマをした体格のいい目つきの悪い男が入ってきた。

 男は資料棚には目もくれず、真っ直ぐに近松の側にやって来た。

「おう、なんや松ちゃん、調べもんかいな」

 男は近松へ声をかけた。

 近松はサングラスの向こうから目を細めて笑いながら男に向かって言った。

「壇吉よ、定年間際になってなかなか面白い仕事が舞い込んできてな。この年になってもこんな狭いところで勉強せなあかんわ」

「それは、それはご苦労様です」

 そう言ってから檀吉と呼ばれた男は相好を崩しながら近松が見ている資料を覘いた。

「なんやえらい古い資料やな。誰の資料を探してるん」

 近松は資料から目を離すと椅子にもたれた。

 襟首を開くと机の上に置かれた帽子でパタパタと扇いで風を服の隙間に入れた。

「壇吉、覚えとるか。浦部進っていう男。十代の頃は万引き、窃盗、暴行傷害などで良く引っ張った不良や」

 檀吉は、ああと低い声で言うと覚えとるよと近松に言った。

「あいつは手のつけられへん奴やった。大阪の繁華街だけやなくて隣の兵庫でも色々悪さをしとった。確か最後はどこかの住居に不侵入して捕まったやろ。それでそれを最後に今はパチンコ店を何件も経営していっぱしの顔して真っ当な人生を今は歩いとるようや」

「そのようやな」

 近松の言葉に檀吉は頷いた。

 頷きながらにやりと笑った。

「いやなこの前非番のときにあいつの経営する尼崎のパチンコに行ってえらいお世話になったんや。一応客をだましてる感じはなかった。だってめっちゃ勝たしてもらったもんね」

 檀吉はにんまりと笑いながら近松の顔を見た。

 くくっと近松が笑った。

「その浦部の資料か」

「そうや、その浦部や。実はこの前詐欺にあったといって被害届を出しに来た男が来たんや。それがその浦部や」

「詐欺やて?自分がやったんちゃうんかい」

 檀吉は言うと笑い出した。近松も檀吉につられるように笑った。

「松ちゃん、ほんで何の詐欺なん。あの顔やから結婚詐欺にでも

 あったんかな」

 檀吉は浦部の突き出た顎と窪んだ眼を思い出して腹を抱えて大声で笑った。

「おいおい、檀吉、あんまり大きな声で笑うと上が部屋に怒鳴り込んでくるで。静かにしてくれよ」

「わりぃ、松ちゃん。ほんで何なんよ」

「偽物・・つまり贋作を掴まされたらしいわ」

「贋作?」

 檀吉はピンと来ないのか目を白黒させて近松を見た。

「壇吉・・勉強せなあかんで。贋作、つまり美術品の偽物や」

 ああ、と檀吉は言いながら頷いた。

「どうも浦部は或る絵画の偽物を知り合いの女から掴まされたらしいわ。で、その女と言うのが田川洋子」

 ふふんと軽く鼻を鳴らして檀吉は近松を見た。

「成程、ほんで松ちゃん、事件担当の俺を呼んだんかいな」

「そうや」

 近松はにやりと笑った。

「そっちはどうなんや。他殺か?」

「いやまだわからへん、もうすぐ解剖の結果が出るけど俺が死体を見たところ他殺の痕跡は見えへんかった」

「ほな自殺か」

「そうやな、でも、どこから安治川に飛び込んだんか今のところはわからへんねん」

「そうか」

 サングラスをとると近松はファイルに目を落とした。

 そして数枚ページをめくった。そしてあるところに来るとページをめくるのを止めた。

 目線を檀吉に向けた。

「これや、檀吉」

 檀吉はファイルを覗き込んだ。覗き込むと簡単に事件の要点が書かれているのが分かった。

 “1963年9月15日(日)、浦部進(年齢19、職業不詳)、住居不侵入。尼崎市在住。西宮市にある土岐護(年齢39、職業漁師)宅に侵入。窃盗は無し”

「松ちゃん、1963年いうたら、俺らが兵庫県警に出張っていたころの事件やな。俺の長男が生まれた年やから覚えてるわ」

「せや、府警から隣の兵庫県警に出向してたころの事件や。俺はこの時先輩が尋問してるところを横であいつを見ながら調書を書いていたから、今でもあいつのその時の表情や息遣いが思い出せる。お前はその時暴力団関係のところに居たもんな」

「せやせや、ほんまあの頃はえらいきつかったで」

 檀吉は文字を指で押さえながら懐かしそうに呟くと、その頃の気分を思い出しながら事件の内容に目を通していた。

「なんや、窃盗は・・・・無しか」

 檀吉はぽつりと呟いた。

「これ窃盗目的やろう。せやのに、何も盗らへんなんて奇妙やで。検察のほうで何も立証できへんかったんかいな」

 黙ったまま近松はパタパタと帽子で扇いだ。

(浦部は土岐護の家に入って何も盗らなかった。それを不自然に感じた俺は調査を進めるうちに土岐護のアパートの階段で少女が大きな荷物を持った浦部とすれ違い、そして車に乗り込んだという証言をつかんだ。しかし当時の裁判では子供の証言としては信ぴょう性に欠けるとして証拠としてはならなかった・・・)

 扇いでいた帽子を机の上に置くとファイルを閉じた。そしてスーツの内ポケットから手帳を取り出した。

 黒色の革の手帳だった。

 付箋が貼ってあるのが檀吉には見えた。

「当時の事件メモかいな」

 檀吉の言葉に近松は頷いた。

 付箋が貼ってあるところを近松は開いて当時の事件の記録に目をやった。

“9月15日(日)通報者はアパートの隣人。

 隣の部屋で大きなゴトンという何か物が落ちたような音がしたので訪問。

 訪問直後、アパート近くを出て行く白色のセダンを見る。

 部屋を開けると病気で自宅療養中の土岐護は既に死亡。(解剖の結果、死因は病気(肝臓癌)によるもの。“

 近松はそこでページを捲った。次のページには丁寧に四つに折りたたまれた白黒写真が挟まれていた。

“9月16日(月)

 現場付近の聞き込み。

 土岐護の通夜と葬儀が近くの成願寺で行われる。

 通夜に出席。

 通夜に来ていた近所の住民にセダンの目撃者が複数あり。それにより白い色のセダンの車種とナンバーの確認ができる。

 通夜に来ていた少女から浦部とアパートの階段ですれ違った際、大きな額に入った絵を抱えていたとの証言あり。

 絵の特徴は青地のバックに黄色の向日葵“

 近松は写真を手に取った。

(絵の特徴は青地のバックに黄色の向日葵・・)

 丁寧に四つに折りたたまれた写真を開いた。

 写真は向日葵の絵だった。

 檀吉が横に来て写真を覗き込んだ。

「誰の絵なんや」

 それを聞いてくすりと近松は笑った。

「ゴッホや」

「ゴッ・・ポ?・・、え、誰やて?」

 吹き出しそうになるのを押さえながら近松が檀吉に言った。

「ゴッホや、ゴッホ。檀吉、ほんま勉強せなあかんで」

「誰やねんそれ、有名なん?」

 近松はそれには笑って答えて檀吉の顔を見た。

(興味が無い者にとっては、ゴッホの絵でも何の価値もない、所詮美術品なんてそんなものさ)

「壇吉よ、すまんけど手の空いてる奴をさ、ちょっとこの男につけてくれへんか」

 近松はメモの端に人物の名前を書いて、そこの部分を破ると檀吉に手渡した。

「田川洋子に関連してる人物やからそちらから出せるやろ?」

 檀吉は手渡されたメモの切れ端を手に取ると書かれた名前に目を遣った。

「水野静・・、誰なん?」

 メモを見た檀吉が近松に聞いた。

「田川洋子の恋人・・やった男らしい」

「恋人?なんや浦部と違ったんかいな?」

 言ってからしまったなと言う顔つきで檀吉は近松を見た。

「なんやそこまで調べ進んでるんか」

 笑いながら近松は言った。

 しゃぁないな、と呟きながら檀吉は話を続けた。

「新地のスパイダーゆうたらなかなかの店や。客も政治家や代議士、それにええところの企業の人間が出入りしている。特に最近田川洋子を贔屓にしていた客が浦部進やった。店の連中に聞くと営業時間外でも二人を見たという話や、店が閉まると店の近くに停まっている浦部の車に乗り込んで出て行く田川洋子を見たという話しもある。まぁ二人は恋人関係にあった言うてもおかしくはない状況やろう」

「それで田川洋子の死亡時刻周辺の浦部の動きの洗い出しをこれからするんやな」

 「まだ解剖の結果が分からんからその辺が何とも言えへんけど・・それ次第で動く予定や。他殺やったら浦部がまず重要な容疑者になるからな」

 そこで檀吉は拝みながら近松に言った。

「松ちゃん・・これ頼むから言わんといてや。誰かに話したことがばれると東京から来た新しい課長がめっちゃうるさいから」

 わかった、わかったと笑いながら近松は言った。

 檀吉はメモの切れ端をズボンのポケットにしまい、ふぅと一息ついた。

「ほんならこっちのほうでその人物に人つけとくわ」

「おおきに、檀吉。頼むで」

 それを聞いて近松は檀吉の顔を見た。

「そのネタ、どこで仕入れたと課長に聞かれたらなんて答えるんや?」

 檀吉はふふんと鼻を鳴らした。

「自分の影ながらの努力です、って言うにきまってるやん」

「頼むで。逆にこちらのネタ漏らしたなんてばれたら俺も若い課長に怒られるからな」

 言い終わってから二人で顔を合わせて声を出して笑った。

「お互いこんな年になって大変な宮使いや」

 檀吉が立ちあがった。

「あとなぁ」

「ん?」

 檀吉が近松を見た。

「記者クラブの連中、このこと何時頃新聞に載せよるかな?」

 顎に手をかけて檀吉が言った。

「多分、明日の朝の朝刊には写真付きででるやろうね」

「明日か・・」

「まぁ多分ね・・小さな記事や思うけどね」

「おぅ、わかったわ」

 近松が言うと檀吉は頷いて「ほな、行くわ」と言って部屋を出て行った。

(明日には田川洋子の死亡記事が出るな・・そうしたら田川洋子が浦部から奪ったあのゴッホの絵を持っている奴が何かしでかすかもな・・)

 部屋の外で檀吉の「電話かしてや」と言う声が聞こえた。早速人を用意してくれるのだろうと、近松は思った。

 ひとり資料室に残った近松は再び事件メモに目を遣った。そして次のページを捲った。

 そこに走り書きがあった。

“土岐護、若い頃画学生として山本家に出入りあり”

 そして

“年少の頃、中之島洋画研究所に通う”

 と、書かれていた。

 先程、忘れない様にファイルからメモに記載したのはこの一文だった。

(中之島洋画研究所・・)

 先程、天満橋の高架下の店で思い出せなかった研究所の名称だった。

 近松はサングラス越しに目を細めた。

(今が1983年、1945年に空襲があったから少なくとも約半世紀程前の話や。それにこの洋画研究所にしてもその年以前や・・いまからそのころのことを調べても出てくる話はおとぎ話のようなものばかりやろうな)

 机に置いた帽子に手を遣ると同時にドアを開けて若い婦人警官が近松を呼んだ。

「近松さん、課長がお呼びですよ」

 婦人警官の声にて手を上げて答えた。

「今から行くわと課長に言うといて」

 やれやれと言う顔で帽子を被った。

「なんでも府警本部から電話があって、田川洋子の件の増員ってなんや?ってことで聞きたいらしいよ」

 ぎくりとして近松は婦人警官の顔を見た。

(檀吉め!!下手うったな)

 急ぎ足で婦人警官の側を足早にすり抜けながら「宮使いは大変や」と呟いた。

 それを聞いて婦人警官が近松に笑いながらご苦労様です、と言った。

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