麻酔ユークリッド


 その日はよく晴れた、雲ひとつない夜だった。俺が保証しよう。間違いない。


 毎回疑問には思ってたんだ。試験前あいつは通話した時ももう寝る、と言って電話を切った。それなのにあいつは寝過ごした、と悔しげに歯噛みして50点ほどのテストを握りしめていた。強引に引き止めようとしたり、手を握る機会があった時、あいつは一瞬顔を顰めた。他の人間ならば判らなかっただろう。それから夏になってもあいつは冬服のままだった。それも高校に入ってから、今年だけだ。それが一番の疑問点だったんだ。

 悲痛な喘ぎ声だって首を絞められた痣だってくっきりと俺の記憶に残っていた。飛鳥は感情を無くしたような顔でこう言った。

「猫宮のおじさんが帰ってきてるんだ」

「...ならあの、小汚いオヤジは...」

「小学生の時にも少しだけ、こんなことがあった。だから僕は...」

 ひゅ、と息を呑んだ。こいつが一瞬恐ろしく思えたが、俺だってこいつの立場ならこれくらいしていたし、今回は味方だ。とても頼もしく思えた。

「...アレを”倒す”為に作った麻酔薬だ。これをBB弾程度の弾に入れることができるように濃度を変更した。...言いたいことは、分かるよね」

「おう。...いいぜ。いいや、やらせてくれ。頼む」

「...ありがとう」

 探偵部に日差しが差し込む。部長さんは今日は来るのだろうか。副部長さんはきっと全てを見通して美しくいつものように笑うに決まっているが。

 それでも。

 オートマチックのモデルガン...上条家に入れば誰でも与えられるもの、の薬室の中に入れるだけ入れたが、飛鳥はまだだ、と呟いた。

「効果はしっかりしたのじゃなくっちゃ」

「?」

「僕でしばらく実験してよ」

「...はぁ!?」

「僕だってそんなに待つつもりじゃあないし...明日とかどうかな」

「そうじゃねぇ!てか早いな!いやそうじゃない、なんでお前が...」

「だって、君は僕よりしっかり効能を書き込んでくれるだろ?」

 剣呑な光を湛えた眼はす、と猫のように細められる。それを見て俺は思い出した。こいつ、いざという時はプッツンするタイプの男だったな、と。


 次の日ちゃんと計画は実行に移された。そう、雲ひとつない晴天の下、俺は簡単にあいつの家のベランダへ飛び乗って、花壇の奥に息をひそめた。次の瞬間怒号が響く。やはりあいつはただやられるだけではなかったらしい。中学一年生の一学期の間、そして俺が気づかなければ夏休み後もずっとこの抵抗をするつもりだったのかと思うと頭が下がる思いだ。飽きれたらいいのか感心したらいいのかわからなかったが、聞けば隣の飛鳥は、

「怒ればいいのさ。なんで僕らを頼ってくれなかったんだ、ってね」

 と本気で怒ったトーンで吐き捨てた。飛鳥は正直者に甘く嘘つきに厳しいという特性を持っている。だからたとえ矛盾していたとしても本音しか話さないミトに甘く、真実を嘘以外で煙に巻く俺ともなんだかんだつるんでくれるのだ。だからあいつがーーーミトが珍しく俺たちに嘘をついたことが許せないのだろう。温厚なやつ程怒ったとき恐ろしいとはよく言ったものだと俺は思った。俺だってもちろん怒っちゃいるが、逆にここまで怒っている人間が隣にいると逆に冷静になってくる。

 うろちょろと逃げていたミトが捕まる。あの小汚いオヤジがミトの首に手をかけた瞬間、俺たちの周りの空気がビリリと膨れ上がった。殺気だ。飛鳥は勿論、俺の殺気の匂いもする。いいや、俺が上条の血を引いている分、俺の殺気が強かったのだと思うが。互いに武者震いが体を貫いた。1回目。飛鳥はスマートフォンを構えた。写真を隠れて静かに撮る。2回目。俺はモデルガンを構えた。飛鳥の細い指がキーパッドに伸びる。3回目の打撃がミトの頰を殴る前に、オヤジのこめかみにBB弾が弾けた。

「...」

 暫くの間、沈黙がその場を支配した。その後、大きな音がし、小さくぐ、と飛鳥が拳を握り、ニヤリとミトが笑ってオヤジに唾を吐きかけた。ヒステリックな女ーーー多分あいつの母親だろうーーーの叫び声の中、ミトはまだ口角を上げたまま、破けた下着のまま埃を叩く仕草をした後、息を吐き出すように不敵にこう呟いた。

「サンキューです、親友ども」

 次の日、飛鳥がミトと口をきこうとしなかったのは言うまでもない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る