或いは、香る六月のママレード
「上条先輩!あとよろしくお願いします!」
「...っ、な...」
「...っおい、馬鹿野郎っ...!」
紫色の髪の婦警は、背後でナイフを婦警に突き立てている、婦警の左手と手錠で繋がった男の腹部をどん、と肘で突き飛ばした。男に抱かれている婦警ももちろん後ろへと...断崖絶壁の崖の下へ落ちる。まさにスローモーションの世界。婦警は呆然とした男の顔など素知らぬふりで手を伸ばす。自分が死ぬ訳がないと、確証もないのに強く、無謀に信じて。だがその手は虚空を摑む、
「...テメェ、後で反省文だぞ...覚えてろ猫宮!」
ことはなかった。
ロープ。たった一本の、しかし太く丈夫なロープ。それがたった一本の、けれど十分に頑丈な婦警の手に握られている。猫宮と呼ばれた婦警はニヤリと笑って、勿論です、と小さく呟く。だが、婦警に捕まっている男は婦警の体を抱き締めたまま、その耳元で囁く。
「...猫宮くん、小説は知ってるかなぁ」
初めて呼ばれる、役職ではなく苗字の呼称に、婦警の背中が嫌な汗をかく。
「先輩!急いで!」
「ああ、わかってるさ!」
常人では考えられないほどのスピードで上へ上がるロープ。が、それは背後の男のナイフでせき止められ、じり、じり、と断ち切られる。生憎片方の手は手錠でお留守である婦警は、ただ見守ることしかできない。
「...っく、」
「蜘蛛の糸。あれみたいだねぇ、ちょうど」
「文学的な表現をするなら!ライヘンバッハじゃないんですかっ!?」
「まさか。だってあれは...」
こんなくだらない落ち方はしなかったでしょ?...オチだけに。
「...っはは、確かにくだらねーですよ。いろんな意味で」
視点は落ちる。滝の中へ。ロープを持った男性刑事の怒号が遠ざかる。
は。
雨の音。黒い寝袋。高級感のあるダイニング。特徴的な、金持ちの匂い。
「...っは、は、はー、っ、はー、はぁーっ」
私は起きて状況を確認する。ええと、確かことの始まりは、いつものあのクソ犯罪者の嫌がらせからだった。あいついつも自分の信者送り込んできやがって。刑事の家に侵入して住居破壊なんて度胸座ってんなとしか言いようがない。せっかくだからと先輩の家へ上がろうと思えば例の精神科医の高身長足長の美人さんが居るし、潜入捜査先で最近仲良くなった天鳥さんは牛丼屋並みの回転率でできた彼女が居るだろうし(行ってみたらガチでいた)...と知り合いを一人一人上げていけば結局あの犯罪者の嫌がらせ事件を解決するのに巻き込...ではなく、手伝ってもらったヤクザの親元のトップ以外に思いつかない状況になってしまったのだった。最悪漫画喫茶にでも行こうかと考えていたくらいに望みは薄かったが、好奇心からかそれともハムの原木という物珍しい商店街の一等の景品のおかげか、なんとか家に上がらせてもらえた。あの呆れ顔というか、よくヤクザの家に来る気になったな、自分の職業忘れてるんじゃないかこいつ、というような、微妙な表情はよく覚えている。端正な顔つきの癖に勿体ないなぁ、と思ってたっけ、私面食いだし。でも私のせいだし、しょうがないですよね。
寝袋を足で蹴り、少しよれ始めたシャツとスーツに着替える。時刻は午前4時。ふあああ、とあくびをして気づく。あの人、ドアに鍵かけてやがるぜ。そんなに私は信用ないか。ないな。これが反語というやつか。違うか。ぼうっとした上手く回らない頭でキッチンにパソコンを置き、捜査資料を編集する。隣で使われていないであろう包丁類を洗いながら。
「...うし、こんなもんかな」
捜査資料も洗い物もキリがいいところで私はやめにする。パタン、とパソコンを閉じる前に見えたのは現在時刻。5:12という数字がチカチカと目の裏に焼き付く。
一時間ほど経てばいい匂いがここから漂ってきて、いつも外食に慣れている彼はむくりと匂いに誘われるようにして出てくるに違いない。その光景を想像し、私はほんの少し口角を上げた。
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