600円ください
たかっちゃん
加密列スプーン
花が咲いていた。白くて綺麗な花だ。鈴蘭とかシロメツクサとか分かりやすいやつじゃなかったから、僕はなんだろう、と首を傾げた。
「カモミールだよ」
しゃがんだ僕の隣に、白いワンピースと麦わら帽子姿の、銀髪碧眼の綺麗な女の子が座っていた。気配がなかった。綺麗な、整いすぎた恐怖。
「...っ、」
「カモミール。花言葉は清楚・逆境に耐える・あなたを癒す」
「へ...え...カモミール...ハーブティとかかな?」
「うん」
「いい花だね」
「うん」
しばらく僕らはそこで静かに黙っていた。そこは古臭い花屋の店先で、買わないなら帰っとくれ、と店番であろう老婆に追い出されるまで、僕らはしばらくそうしていた。
「嘘だろ、スプーン曲げなんて」
「ほんとだよ。先生が手を上げさせたんだ」
「...誰だったんだろ、犯人」
「さぁ」
「あいつだろ、転校生」
「外国人みたいなのに日本人なんだよな」
「ねぇねぇ、本当のこと言ってよ」
「隠しとくのかよ。バカだな」
「嘘つきは泥棒の始まりだよ」
「嘘つきなんか死んじまえ!」
「嘘つき」「嘘つき」「死んじゃえ」
「京ちゃんなんか」
「死んじまえ」
僕らは学校でスプーン曲げの噂が流行るその日まで、古臭い花屋の先で話をした。僕は、僕ら家族は夢と食べ物の神様の加護を受けてること、そのせいで災厄を受けやすいと言われてること、だから母さんと父さんが死んだと僕は知っていることを話した。女の子は、人柱?イケニエ?にされたことのある家系で、変な魔法のせいで白い髪と青い眼を持って生まれてしまったことを話してくれた。それ以外にももちろん僕らはたくさんいろんなことを話した。月の石は偽物だっていう噂や、海の色と空の色がなんで青いのかとか、近くの駄菓子屋のソーダバーのあたりはもうないんじゃないかとか、そんなとりとめのない話をしていた。スプーン曲げの噂がたった頃、皮肉にも僕は初めて女の子の名前を初めて知った。金威京子。上品な名前だと思った。みんなに殴られ、蹴られ、首を絞められ、髪を切り落とされ、爪を剥がされ、ボロボロになってやつれていく彼女は、見ていて痛々しく、信じたくないくらいに美しかった。
「カモミールの花言葉、覚えてる?」
「...うん」
「はい、これあげる」
「...?」
「わたしのお気に入りのハーブティ。作ってきたの」
「わぁ...、いい香り」
確かにいい香りだと思ったけれど、その頃の僕は苦いものが好きじゃなかった。鉄の水筒を抱え飲めるかどうか心配だ、という顔をしていたら、にっこりと笑ってミルク入ってるよ、と彼女は微笑んだ。
「そこに、君のお気に入りを詰めて返して」
「...」
「わたしが殺されちゃう前に」
殺される。その言葉が妙に生々しかった。本当に殺されてしまう、と思ったというよりかは、こもままでは摘まれてしまう、という、僕が先に見つけたのに、という、言いようのない嫉妬と物欲のような何かがせり上がってきた。だから、僕は
「わかった」
と、それだけを呟いた。彼女はふわりと笑って、
「ありがとう」
たったそれだけでもう何もいらなかった。僕らは夕焼ける帰り道を急いだ。老婆の優しいため息なんざ、この時の僕には聞こえなかった。
次の日君はいなかった。ただ一言老婆がカモミール一本は600円だよ、という声が遠くで聞こえただけだった。
次の日。そのまた次の日。その一週間後。だいぶ待ったような気がしたし、そうでもなかったような気もする。ただ僕は彼女と会えるのを心待ちにしながら、鉄の水筒の中の僕の”お気に入り”を飲み干すだけの日が続いた。
その日は雨だった。しとしとと落ちる雨粒は、彼女の頰のガーゼや膝の痣を艶やかに移した。梅雨だというのに彼女は白のワンピース姿で傘もささずに美しい白髪を水に濡らしていた。
「Daphne, Ficus, Iris, Maackia, Lythrum, Myrica, Sabia,」
「Thymus, Ribes, Abelia, Sedum, Felicia, Ochna, Lychnis」
本当の外国人みたいな流暢な発音で、雨に濡れるのにも構わず花を数えていた。僕が傘を差し出せば、キラキラと水を反射させながら彼女はこちらを見た。ああ、僕はこの子が好きだったんだ。今も、死んでもいいくらい好きでいるんだ。そう思った。
「お気に入り、持ってきてくれた?」
「うん」
まだ暖かいホットミルクチョコレートが、雨で冷え切った彼女の体を温めた。彼女は蠱惑的に笑い、近くに放り投げてあった、花を切るためのハサミをとって、パチン、と左の小指を切った。簡単に切れることのない小指は、けれど彼女がポロポロと涙を零してなんども力を入れる、それだけで落ちるくらいには成長途中だった。それを彼女は泣き笑いの形で僕に差し出してくれた。まるで蝉の抜け殻を、炉端の綺麗に丸まった石を抱え込むみたいに、もう血の流れない小指をそっとポケットの中に入れると、彼女は涙を流したまま、血のこびりついた震える左手で、僕のことを抱きしめてくれた。それがあんまりにも被虐的で、汚くて、魅力的だったものだから、僕はうっかりそばにあった売り物のカモミールを彼女の頭に挿した。挿してしまった。彼女は笑みを深くさせて、僕の手を引いて走った。老婆の我に返った時の、ハッとしたような、600円ください、という声はもう遠かった。
「私、君のためならなんでもするから」
「もしうっかり悪い神様に捕まっちゃったなら」
「その小指を持って助けに来てね」
「うん」
「わかった」
「それまで」
「それを飲んで、ゆっくり待っていて」
彼女はもう僕のもの。それだけがはっきりわかることだった。それ以上必要なかった。立ち入り禁止の柵を越えて、草花で必死に作った秘密基地で。雨に濡れながら、僕らは小さな結婚式を挙げた。こればっかりは、ここを一緒に作った仲間にだって秘密だった。それから彼女はまた転校していった。
小学五年生の梅雨のことだった。
京子、月、綺麗だよ。それだけを告げれば、巌くん、私、もう死んでもいいよ、と、それだけ。
やけにませた僕らの頰を、湿気った雨がゆっくりと濡らした。
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