2.2 有るがアル
根源的事態とは何か?
デカルトはすべてを疑うという方法的懐疑によって「Cogito ergo sum」(コギト エルゴ スム=我思う ゆえに我あり)という結論を得たと言われている。どんなに疑っても疑っているということ自体は疑えない。それは分かる。でも、なぜそれが「Cogito=〈思う〉1人称単数現在=我思う ergo=ゆえに sum=〈ある〉1人称単数現在=我あり」になるのか? もしかしたら単に欧米語の動詞が人称等(主語)を含むからではないのか?
日本語の動詞は人称等(主語)に依存しないから、我(主語)が登場する必要はない。つまり「思う、ゆえに思うあり」となる。このほうが事態を正確に言い当てているように思う。(ひとりで物思いにふけっているとき、思いがあるだけで、「私が」という意識はない)。
そして、すべてを疑うというのなら、この「思う」という意識の働きがなぜ我(1人称単数現在)に帰属するのか、ということこそ疑うべきではないのか?
「思う」という意識の働きを出発点とするから、意識に現れるモノ(現象)の分析が主となり、その意識は常に「私の」意識だから、独我論はついてまわる。
で、いったんデカルト以前に戻ってみる。試しに「思う」を外してみる。すると、ただ「あり」としか言えない。「あり、ゆえに〈あり〉があり」。これが、これ以上さかのぼることのできない世界の成立点(根源)ではないだろうか。だとすると、精神の現象学を存在論(あるいは存在の形而上学)へ差し戻すことになる。
「あり」の前には何が(存在者)あった(存在)か?、どうして「あり」がありうるのか? と問いかけても、すでにその問いに「あり」が含まれている。根源は「無である」と言っても、やはり無が(で)「ある」のだ。なんだか分からないが、とにかく「あり」があった。「あり」がないことも可能かもしれないが、そしたらこの世界もないし、「あり」があるのかないのかの問いも生じない。
言葉はこれ以上さかのぼることができない。「あり」が言葉の始源であり、限界点である。それは同時に思考の限界でもある。なぜなら、言葉によって思考が成り立つ(遂行される)のだから。この先に「無」(西田哲学)とか「空」(仏教)とかを言い出すとすれば、それはもう宗教の領域である。
ジャンケンではないが、なにはともあれ「最初は有(ユー)」で始まるのだ。「○○がある」や「○○である」の○○という規定(限定)なしの端的な「ある」がすべての根源にあり、「ある」ものをあらしめているのだ。
宇宙がビッグバンで始まったように、すべては「あり」から始まった。この「あり」のビッグバンという奇蹟に驚くのがハイデッガーの「存在驚異」というやつだろう。また、「あり」の中からその反対物(否定)である「なし」が生まれ・・・と、「あり」の弁証法的な自己展開でビッグバンを描いてみせるのがヘーゲルの論理学というやつだろう。
とまれ、これって「あり」の神学か? 究極の存在としての「あり」は、一神教における「神」の概念とほとんど同じではないか。なので、ちょっと「神」について見てみよう。
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