2.1 「ある」が基本動詞
日本語の基本文型は述語一語文だとし、「ウナギだ」(名詞文)、「おいしい」(形容詞文)、「作った」(動詞文)を例に挙げた。しかし、さらに掘り下げてみると、動詞「ある」の一語に行き着く。
「ウナギだ」は名詞+「だ」の形で、「である」の簡略体、ついでに「です」は「であります」の簡略体と考えられる。つまり名詞+「で・ある」。
「おいしい」はイ形容詞の言い切りだが、丁寧や否定や完了になると「ある」が出てくる。丁寧「おいしい・です」の「です」。否定「おいしく・ない(ありません)」の「ない」も丁寧にすると「ありません」。完了「おいしかった」は「おいしく・あった」のku+aがkaとなったもの。
動詞「作る」も、完了形は「作る+あった」の「作った」。古い形では「作りたり」つまり「作りて・あり」と、もっとわかりやすい。さらに自動詞ならば「始まる、変わる、終わる、上がる・・・」など、原形からしてすでに語幹+「ある」となっているものが多い。音をローマ字で書けばよく見えてくるだろう。「はじまる」はhajimまでが語幹でaruを加えたものがhajimaruというわけである。(ちょっと強引か?)
ともあれ、「ある」に戻る。「ある」が日本語の基本動詞というか、根源的な述語だ、と私は主張したいのだ。つまり日本語の思想の根源は「ある」にある、と。「有」であり「在」である。
ここで何を言いたいのかというと、欧米語では「主語」(主体)が何かを「する」(do)という「行為文」が中心であるのに対して、日本語は「ある」か「ない」という「存在文」が中心だということ。「好きだ」は「好き」という状態に「ある」ということで、「愛します」は「する」(do)に属する表現。日本語は「する」表現よりも「ある」表現のほうが収まりがいい。
「する」表現の場合、「誰が」(主語)「何を」(目的語)を呼び込みやすいが、「ある」表現の場合、「(という状態に)ある」という形容的表現が馴染みやすい。前回の「見える」「見る」で述べた知覚の受動性にもつながる話だ。
さらに言えば、欧米語ではその行為は「いつ」のものかという時制が重要になるのに対し、日本語では「いつ」ということよりも、その行為(の結果)が「あった」のか「ない」のかに力点を置いた発想がとられている(ように思う)ということにつながる。「おいしかった」(おいしく+あった)は、それが「いつ」なのかよりも、「おいしい」が「あった」のか「なかった」のか、あるいは「ウソ」か「マコト」かという関心に答えるものなのだ(これは時制の問題で取り上げる)。
もう少し「ある」の根源性について考えてみよう。
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