1.6 日本語に主語はない(6)
「海が見える」
「君が好きだ」の文例を出したついでに、もう少しこの形にこだわってみたい。例えば、似たような形で「海が見える」はどうか?
「海が見える」をそのまま英語にしようと思うと、かなり難しい。I see the sea とかI can see the sea とかがまず考えられるが、「私は海を見る」(意味がよく分からない、過去形「見た」ならOK)も「私は海を見ることができる」も、「海が見える」とは違う。「(下り新幹線では左側に)海が見える」と言う場合は、You とか We とかが主語になるかもしれない。
でも、一人で新幹線に乗って窓を眺めている、という状況でぽつりと「あっ、海が見える」とつぶやく。ぼくは十分まともな日本語だと思う。あえて「誰」ということを補うとすれば「私ニ」が自然だろう。「私ハ」でも「私ガ」でもない。
「海が見える」の「見える」を可能の意味で直訳すれば、The sea is visible だろうが、かなり不自然。でも、「私ニ」を補って、The sea is visible in meとすると、(英文としてはともかく)日本語のニュアンスに近いような気がする。
つまり、英語では「私(I)」が主語の位置に立つのが普通だが、日本語では「私」が主語として出しゃばるよりも、in me(私に)という感じで背後に控えるのが普通だ。あくまでも述語が中心。ここに日本語(の思想)の大きな特徴がある。
その述語の中核をなす動詞には、自動詞、他動詞の対照がある(英語では同じ動詞が、直接補語をとるかとらないかで、後付け的に自動詞・他動詞を区別するが、日本語では語形が違う)。そして、これぞ日本語! と言いたいのが「自動詞」である(詳しくは、あとで「受け身」「使役」などと絡めて追求したい)。
ここでは、自動詞から見えてくる日本語的な知覚・体験の構造についてちょこっと考察する。
で、再び「海が見える」だ。
日本語ではまず「見える」(自動詞)という述語が提示され、それを補うものとして「何が=海が」が加えられる。さらに補うとしたら「どこに」「誰に」「どのように」などを加えてより詳しく述べていく。
ところが「見える」でなく「見る」(他動詞)の場合は、補語として「誰ガ」や「何ヲ」が候補に挙がる。
このような「見える:見る」(「聞こえる:聞く」も同じだ)の対照の中に、日本語の日本語らしいところ(日本語の思想)が「見える」のではないか、とぼくは思う。
ぼくたちが見たり聞いたりする事態をよく考えてみると、「見る」前に「見える」が、「聞く」前に「聞こえる」がある。つまり、見ようとしなくても常に網膜には視覚象が写っており(目をつぶっても闇が見えている)、その中のどこかに焦点を当てるかたちで何かを見る。音も常に聞こえていて、「あっ、この音は何だ?」と耳を傾ける。
つまり、何かよく分からないものが「見える」「聞こえる」(地=グラウンド)状態から、何かヲ(図=対象)「見る」「聞く」こと(志向性)によって意識化する。意識化された結果、その「何かよく分からないもの」が「・・・として」把握される。
この言い方はもちろんフッサールやメルロ・ポンティの現象学を意識している。さらに「・・・として」なんてところは廣松渉まで視野に入れているようではないか! すごい! 彼ら哲学者は、厳密な議論という要請もあるのだろうが、やたら難しい言葉でくどくど述べていて、僕には良く理解できないのだけれど、そのポイントはようするに「見える」→「見る」→「見えた」ということだろう。これだったらよく分かる。
で、ついでに悪ノリして言えば、知覚・認識を巡る議論が(デカルト以来の)近代哲学のひとつの中心をなしてきたわけだが、たぶん欧米の言葉では「見る」という意識の志向的働きを言う言葉が先に立ってしまうから、それ以前の「見える」という事態を言うのに苦労する、という事情があるのではないかと僕は勘ぐっている。だって、「見る」と言ったら、すぐさま「誰が」「何を」となってしまうから。もし「見える」という語に相当する欧米語があったら、もっとわかりやすい議論になったのではないかな?(向こうの言語事情に疎いからよく分からないが・・・)
ようするに、「見る」「聞く」の志向的意識が「何モノか」を「・・・として」現前させるという事態よりも、「見える」「聞こえる」という受動的な事態のほうがより根源的な(おおもとの)事態であり、日本語はそれを的確に表現する語彙を持っているのだ。例えば、「雷鳴が聞こえた」という事態は、(聞こえている音の中に)すごい音が聞こえた→それは何の音だ(志向的意識)→事故か?爆音か? いや雷だ(分節化・判断)→「雷鳴ヲ聞く」(何モノかの音を雷鳴として聞く)という現象の成立、となる。
こういう考察を進めていくと、これはもうほとんど哲学の分野に足を踏み入れてしまうことになるのではないか? ならば、かまわずにずかずか入り込んでしまおう。
さっき、「見る」というような意識の働きを出発点にすると、どうしても「誰が」「何を」が登場してしまう、と言ったが、その典型がデカルトだ。「我思う、ゆえに我あり」は、「思う」という意識の働き自体は確実に存在するのだから、思う主体(主語)である「我」も当然存在する、という意味だろう。いきなり主語的「我」が登場する。
そして「思う(疑う)」対象(客観)が思った通りのモノであるかどうかの保証はないが、思う主体(主観)が存在しなければ「思う」も存在できないのだから、「思う」の存在が確実である以上、思う主体の「我」の存在も確実だ。このような議論から「主観―客観」「認識論―存在論」「自我―他我」(独我論)などの多様な哲学的問題が発生する。
でも、日本語で哲学すると、たぶんそうはならない。主語が出てこないからだ。それ(日本語で哲学)をやったのが、もしかしたら西田幾太郎ではないかと思う。
で、このあとデカルトや西田をちょこっと考察してみようと思うが、それには認識論と存在論が絡む。なので、ここでの日本語的認識論をふまえたうえで、次に日本語的存在論に進み、両者を眺めつつ考えていくのがいいかな思う。その時には、現象学(認識論)から存在論へ行ったハイデッガーも視野に入ってくるだろう(たぶん)。
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