私の羽は千切られた
天野小夜子
私の羽は千切られた
成長とはなんて苦しいものなのだろうか。
昨日学校で会話をしていた友人が突然女の顔をしたのを思い出して、彼女はぽつりと心の中で呟いた。
別にそういう類の話をしていた訳ではない。ただ、ほんの一瞬、今まで一緒にバカをしていた友人の知らない顔を、見てはいけない顔を見てしまった気がして胸が罪悪感で埋め尽くされてしまっただけなのだ。
ソファの端に縮こまるようにして座る彼女は近くに置いてあったクッションを抱きかかえながら考える。
そしてクッションを挟むようにして身体を軽く折り曲げると、隣に座る幼馴染をちらりと見た。
彼の全身を包む赤は、白いソファから、いや、学生という世界からわずかに浮いてしまうような存在感を放っているが、彼女自身も彼と同じ色を好んで常日頃から纏っているためか特に気にした事もなかった。
(多分こいつにも男の顔ってのがあるんだろうなぁ…。)
スマホを弄っているため彼女の視線に気づかない幼馴染を、珍しいものを観察するようにまじまじと見つめると、視線の先の幼馴染が自分と全く違う体付きになっている事に気付き、その瞬間胸の奥が火で焙られたように熱く、それでいて、急に冷凍庫にぶち込まれたような冷たさが同時に襲い来るという不思議な感覚に陥った。
そしてその直後、胸の奥が一気に重くなった気がして、抱えていたクッションに勢いよく顔を沈める。
だが、すぐに息苦しくなり、顔のみを幼馴染のいる方へ向け、酸素を取り込むために口を小さく開いた。
しかし、開かれた口は酸素を取り込むだけでは済まず、気付いたら小さく、そして、頼りなさそうな声がこぼれるように発されていた。
「アンタは……さ、」
「あ?」
名前を呼ぶ彼女の声に答えた幼馴染の声は非常に気怠そうで、彼と親しくない人ならたじろぎそうなものだったが、彼女がそれに慣れていない訳がなく、構わず次の言葉を発するために口を開く。
「アンタはさ、大人になっちゃった…?」
彼女の弱々しい声は、呼吸の音と、スマホをタップする音くらいしか聞こえない部屋で驚くほど響いた。
先程まで彼女の話はまるで興味が無い、というようにスマホを弄っていた彼だったが、彼女のその言葉を聞いた瞬間、スマホを握りしめたまま、間抜けな顔を彼女に向けていた。
「お前、何言って……」
だが彼の声は表情とは裏腹に、どこか落ち着いている……というよりか、何かを決めたようにも取れる、なんだか少し重たいものだった。
そこで彼女は自分の放った言葉が、彼の頭の中での解釈と、彼女自身の頭の中での解釈と少しずれてしまっている事に気付き、身体を起こして首を左右に振る。
抱きしめていたクッションが落ちてしまったが、それを拾うタイミングすらわからない。
「ちっ違う、えっと……」
「とりあえず落ち着け」
そう言うと彼は握りしめていたスマホを目の前の机に置くと、再び彼女の方へ向き直す。
今度は先程見たような間抜け面ではなく、彼女が昨日見た友人のような顔。そう、今まで幼馴染の自分ですら見た事のないような、ギラギラとした男の顔をしていて、彼女はその表情をとらえた瞬間、水の中に重りを付けたまま放り込まれてしまったような、危険と悲しさと息苦しさを感じた。
「なに真剣な顔してるの!」と、彼女はいつもの調子でその場を逃れようと考えるが、喉の奥の方がカラカラに乾いてくっついてしまっているような気がして上手く声が出せない。
そして不意に彼女の肩に乗せられる大きな手。と同時に微かに跳ねる彼女の身体。
普段ならなんて事ない行為なのに、彼の言う事やる事一つ一つに大きく反応してしまう自分がいる事に気付き、それが冷静に彼女に触れる幼馴染とあまりにも違いすぎて、彼女は嫌気が差したように顔をしかめた。
「なんて顔してんだよ。話を出してきたのはお前の方だろ。」
「だって……嫌だったんだもの……。」
「は?」
「みんな……いや――」
何かを言いかけ、ぷつりと意図的に途絶えさせられた言葉。
それと同時に軋むソファと、そのソファに倒れ込む二つの赤。
彼女の目の前にはソファを背に、目を丸くさせている彼が映る。
そして彼女の背には、白くて少し高い天井が広がっている。
「みんな大人になっちゃうんだもの。」
彼女はソファを背に倒れた彼に跨るようにして互いの距離をつめた。
その彼女の動きは、ソファのスプリングが軋む音が手伝ってなんだか生々しいもののように感じてしまいそうにもなる。
それは彼も例外でないらしく、彼の表情がなんとも言えない複雑なものに少しずつ変化していく。
「おいお前、何かあったのかよ?」
「……アンタだって男の人の顔してた。」
「…………」
一向に噛み合わない会話と、二人の間に流れる今まで感じた事のない重く、それでいて妖しい空気。
それはいつ壊れ、崩れてしまうかわからないとても危ういもので、どちらかが何かを言ったら良くも悪くもすぐにそちらに転がってしまいそうなものだった。
そんな空気の中、布が擦れる音と、二人の体重とその空気に耐えられないとでもいうかのように軋むソファの音がやけに大きく部屋に響く。
「私は子供でいたいの。大人になんてなりたくない。汚いもん。知らないことは知りたくない。怖いもん……。」
彼女は今にも泣きそうな顔で己の下にいる彼を見降ろす。
そして短く息を吸ってから、微かに震えるピンク色の少女らしい小さな唇を再び動かした。
「だから、ね、一緒に笑ってふざけていた人達が大人になっちゃうなんて…嫌。」
彼女がそう言った瞬間だった。
ソファを背にしていたはずの彼の顔が一瞬で彼女の鼻先に現れる。
そして彼女が声を出す間もなく、彼の手は彼女の後頭部に回り、彼の足付近に跨っていた彼女は驚きのあまり体勢を崩した。
後方へ体重が移動したため、彼女は尻もちをつくようにして頭と背中の一部以外をソファに預けるかたちになってしまった。
「何する――」
彼女からやっと出た言葉は最後まで発される事なく彼の口内に散る。
何が起きたか理解する事ができなかった彼女だが、『理解する事ができない』と頭で考えたすぐ後に、ぬるりと何かが自分の口に入って来た事に気付き、今の自分の状況をやっと理解する事ができた。
だが理解したからといって事態が変わる訳ではない。
逃れようにも彼女は後頭部を目の前にいる彼にしっかりと掴まれている為、微かにしか動かない。
身体自体を動かしてしまおうと思っても、先程彼女が彼にしたように、彼が彼女の身体に跨るような体勢をとっている為、これもなかなか叶わない。
そこで彼女は圧倒的な男女の差を目の前に叩き付けられたような気がした。
だが、それよりも彼女が感じたのは『自分の知っている人間の、自分の知らない顔』の恐ろしさと、それと反対に位置しそうな、背筋を指でゆっくりとなぞられるような妙なくすぐったさ。
その二つは混じりそうでないのに現に今、それは同時に彼女に襲いかかっている。
一体これはどういう事なのだろう……と考えかけたが、彼女の思考は口内で別の生物のように動く、目の前にいる幼馴染であるはずの彼の舌によって止まってしまった。
否、止めざる他なかった。
自分の舌をからめ捕るように動く幼馴染のソレに彼女はどう対応していいかわからず、只々、彼の舌から逃げる。
身体は物理的に逃げられない。
頭の中もなぜか彼で埋め尽くされてしまって逃げられない。
そして視線も縫い付けられてしまったかのように彼から逸らす事ができない。
彼女ができる事といえば、己の口内を荒らす彼を拒むという事だけなのだが、その小さな抵抗さえもやがて彼の熱っぽい視線に負けて止められてしまう。
そして彼女は気付く。この空間にはもう、『知らない顔』を恐れている人間なんて存在しないという事を。
むしろ、それに喜びさえ感じてしまっている自分がいるという事を。
だが、喜びを知ったからといって人間が酸素を欲しなくなる訳ではなく、徐々に酸素が肺の中から消えていくのを感じた彼女の瞳に涙が滲んだ。
そんな彼女に彼は気付き、唇を彼女から離すとゆっくり彼女の頭をソファに下ろす。
荒い呼吸を繰り返す彼女を、獲物を見つけた時の肉食獣のような彼の瞳が見つめた。
二人分の体重を支えるソファのスプリングの音と、自分の下で顔を赤らめる彼女の荒い呼吸が、彼の心の奥の何かを壊していくのを彼本人は第三者のように只、遠くから見つめていた。
(所詮、男と女……か)
そして彼は、己の親指の腹で軽く彼女の目元を濡らす涙を拭うと、ハッ、と小さく息を漏らし、彼女の髪を掬いとり口元に運ぶ。
彼の短く漏らした息が何を意味するかは本人にもよく分からない。
彼女に向けての「しょうがないな」という意味かもしれない。
または自分に向けての「何やってんだクソ野郎」という意味かもしれない。
だがそれを考えて何になるというのだろう。
動き出してしまった車は急には止まれないのと同じで、彼も既に止まれないところまで来てしまっているのだ。
彼女は自分の涙を拭うというその動作の途中に、妖しげに揺れた彼の瞳を見て心臓が跳ねるのを感じた。
心臓が跳ねた理由に彼女がたどり着くのはそう遅くはなかったが、たどり着いてすぐに彼女は後悔する事になる。
(私はいったい何に期待をした……?)
彼に何を期待してしまったかなんて彼女は気付きたくなかった。
気付いてしまったら欲してしまうと思ったから。
欲してしまったら先程までの自分に戻れなくなってしまうと感じていたから。
彼女の望む『子供』でいれなくなってしまうと知っていたから。
だから彼女は自分の中に渦巻くドロリとした欲に気づきたくなかった。
(ねぇ、お願いだから私を昨日のままでいさせて。)
彼の顔が再び彼女の顔に近づくと彼女は彼の瞳を不安そうに見つめる。
気付きたくない、だからこれ以上何も教えないで、という願いを織り込んだ視線。
しかし、その願いは最も近い場所にいて、彼女の一番の理解者だと思っていた人物には届かなかったらしく、彼から、今最も聞きたくない『現実』を叩きつけられた。
「お前も女の顔してるぞ」
何かがバラバラと崩れていく音がした。
自分の手足が、身体が急に汚れてしまった気がした。
「そんな……」
無意識に彼女の口から出た言葉はこの世の終わりを目の当たりにしたような、細く弱々しい声。
そして彼女は目に映るもの全てが、まるでサングラスをかけたかのように薄暗くなった気がして、無性に悲しくて寂しくてむなしい気持ちに陥った。
だが、それのおかげか、目の前にいる彼が身近にいた人物だと再び思えるようになり、止まりかけた心臓が不規則だが再びゆっくりと活動を始めたように思えてきて、こんな滑稽な事があるか、と彼女は自分を蔑むように薄く笑みを浮かべた。
(私も既に子供の顔を捨ててしまった、のか。)
彼女は目の前の彼の輪郭を右手でなぞるように撫でると彼に微笑みかける。
(どうせ戻れないなら――)
「ねえ…」
「なんだよ」
「責任とってよ」
そして彼女は『何か』を捨て、『何か』に染まる為、幼馴染の首に腕を絡めた。
何も知らなかったあの頃にはもう戻れないようだ。
私の羽は千切られた 天野小夜子 @syk_aoo
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