レイン・ブルー・ユース
風月 或
レイン・ブルー・ユース
「ちくしょう!」
一心不乱に走りながら、僕は叫んだ。足は勝手に土手のぬかるんだ道を走り続け、いつの間にか降り出していた雨のせいで僕の体はずぶ濡れになっていた。制服のズボンに泥が跳ね、半袖のワイシャツは肌にまとわりつき、ナイキの赤いスニーカーは水を吸って重たい。しかし、僕はなりふりかまわず、感情の赴くまま足を動かし続けた。
疲れで重たくなった足がもつれ、よろけた勢いのまま土手を転がり落ちた。湿った草のにおいが鼻をつき、仰向けになった僕は、踏んだり蹴ったりな今日を呪いながら腕で目元を覆った。
「ちくしょう……」
肺が焼けるように熱く、息が苦しい。かすれた呟きは雨音にかき消され、僕だけが世界から遮られてしまったような孤独感がじわりと心に滲んだ。しかし、もし本当に僕だけが世界から遮られているなら、その方が今はよかった。こんな姿、誰にも見られたくはない。失恋したあとの姿なんか。
なぜ、好きになったのかはよく覚えていない。同級生のアイドル的な存在に想いを寄せるきっかけなんて、そんなものだと僕は思う。ただ、ふとした時に目が合うだけで心臓は早鐘を打ち、彼女が微笑みかけてくれるだけで天にも昇るような気持ちになった。それはきっと、恋だったに違いない。
二年生に進級した時のクラス替えで、彼女と同じクラスになった。毎日のように顔を合わせていれば自然と話す機会も増え、彼女への想いはより募っていくばかりだった。彼女との関係が悪くなるぐらいならクラスメートのままで、という思いと、一歩を踏み出したい気持ちが僕の中でせめぎ合っていた。
「あぁぁ、どうしよう……」
「また悩んでんのかよ、飽きないなーお前も」
放課後、部室で頭を抱えていた僕の元に、友人の
「さっさと告白しちゃえばいいのに」
「そんな簡単に出来たら苦労してないよー」
プルタブを引く力もなく机に伏した僕を見て、そりゃそうか、と藍原が笑う。
もしも藍原みたいに明るくて、友達も多くて、サッカーが上手かったりしたら、僕も彼女に告白する勇気が持てるのだろうか。情けないとわかっていても、そんな思いが頭をよぎる。
「俺みたいになったって、上手くいかねえもんは上手くいかねえぞ」
さも美味そうにコーラを飲んでいた藍原が突然そう言ったので、僕は驚いて上体を起こした。藍原は笑いながら、僕の額を指でつついた。
「顔に出てた。お前ってホントわかりやすいよなぁ」
ケタケタ笑う藍原の手を払って、僕はふてくされながら机に頬杖をついた。なにを隠していても、藍原にはいつも見抜かれてしまう。彼女への恋心だって、いの一番に気づいたのは藍原だった。
「まぁ、お前にはお前のいいところがあるんだからさ、そのままでぶつかってこいよ。これでもお前のこと応援してるんだぜ」
はにかんだ笑みを浮かべながらも、藍原はまっすぐ僕を見てそう言ってくれた。そんな親友の言葉が嬉しくて、僕は照れ隠しに藍原の脇腹を拳でつついてから、ようやく笑みを浮かべた。
「サンキュ、頑張ってみるよ」
応援している、と言ってくれたのに。
ふたを開けてみれば、現実は残酷だった。
「ごめんなさい」
翌日、覚悟を決めた僕は彼女に告白して、フラれた。ぎこちない空気が彼女との間に流れ、僕は慌てて笑顔を作った。
「あはは、そうだよね。僕みたいな根暗、やっぱり
泣きそうなのをごまかしごまかし、自虐混じりにそう言うと、彼女は違うの、と首を振った。
「私、もう付き合ってる人がいるの……あなたは知ってると思ってた」
僕は、知ってる? その意味がわからず固まっていると、彼女は言いにくそうに視線をそらして、ぽつりと呟いた。
「藍原くん。私、藍原くんと付き合ってるの」
予想外の名前に、頭を思い切り殴られたような衝撃が僕を襲った。頭が真っ白になって、上手く言葉が紡げない。
「い……つ、から?」
そんなこと聞いてどうするんだ馬鹿、と、心の中で自分を罵る。言わなくていい、と言う前に、彼女は「去年の六月」と答えた。それにまたショックを受ける。
僕が彼女への想いを自覚するより前に、藍原はすでに彼女と付き合っていたのだ。なにも知らず相談していた僕が馬鹿みたいで、恥ずかしさに顔が熱くなった。
「そっか……知らなくて、ごめん。迷惑だったよね」
「迷惑だなんて」
「いいよ、ごめん、忘れて。じゃあ、ね」
あまりのいたたまれなさに矢継ぎ早にそう告げて、僕はその場から逃げ出すように走り出した。角を曲がったところで藍原とすれ違ったが、彼は無言で僕から視線を逸らした。それはきっと、僕と藍原の友人関係が終わった合図だったに違いない。
僕はぐちゃぐちゃな気持ちのまま、行くあてもなく学校を後にしたのだった。
どれほどの間、こうして寝転がっていたのだろう。世界と僕を隔てていた雨のカーテンは去り、初夏のぬるい風が僕の頬をなでていった。憂鬱な気持ちは晴れないが、いつまでもこうして寝転がっているわけにはいかない。僕はようやく目元を覆っていた腕を下ろし、重たいまぶたをこじ開けた。
その瞬間、僕の目に澄み渡った青が飛び込んできた。
思わずくらりとするような、鮮烈な青。心に溜まった憂鬱が空の青に溶け込んで、僕がからっぽになっていく。
『その青い筆箱、カッコイイね』
頭の中に、やわらかな声が響いた。
なぜ、彼女を好きになったのか。今になってようやく思い出した。
入学式の後のオリエンテーションで誰にも声をかけられずにいた僕に、彼女はそう微笑みかけてくれたんだ。
どうして忘れていたんだろう。心にじわりと後悔が滲む。
「――なにしてるの?」
高い、よく通る澄んだ声が降ってきて、僕の意識は現実へと引き戻された。
声の方へ視線を向けると、コバルトブルーの傘をさした少女が土手の上から静かに僕を見下ろしていた。黒いロングヘアーと制服のプリーツスカートが風に揺れている。あまり会いたくなかった人物との遭遇に、僕は思わず苦い顔をした。
なんの嫌味かわからないが、ルリは僕が落ち込んでいる時に限って現れる。澄ました顔が余計嫌味に思えて、僕はつっけんどんに返した。
「お前こそ。もう雨止んでるぞ」
「誰かさんの心にはまだ雨が降ってるのかな、と思ってサ」
ちくしょう、知ってやがったのか。心の中で悪態をつくと、ルリがかすかに微笑んだ。
「顔に出てる。君は昔からわかりやすいね」
そんなことを藍原にも言われた。思い出して、心がちくりと痛む。
藍原はどんな気持ちでいたのだろう。叶わない恋に一生懸命な僕を見て、陰であざ笑っていたのだろうか。僕を励ましてくれて、くだらないことで一緒に笑って。あの楽しかった日々も嘘だったのだろうか。
ルリは土手の上で傘をさしたまま、先ほどの雨とは打って変わってすっかり晴れた空を見上げていた。
「いい天気だね」
「さっきまでの雨が嘘みたいだよな」
笑って応援してくれたと思えば、急に裏切ったり。人の態度は天気のように突然変わる。
「嘘じゃないよ」
僕の気持ちを見透かしたように、ルリが言った。僕はハッとして顔を上げる。
「地面も、草も、君も濡れてる。雨は降った」
僕と目が合ったルリは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。藍原のことを見透かされたのかと思った僕は、つい憮然としてしまう。
ルリは足下が濡れるのもかまわず、僕の隣までやってきてしゃがみ込んだ。雨に濡れた草を見つめながら、傘をくるくる回している。
「そんなによかった? 浅木さん」
ルリの口から彼女の名前が飛び出して、再び心がちくりとした。人の傷口に塩を塗りに来たのだろうか、こいつは。
「ただ憧れてるだけのやつならいっぱいいるよ」
「君もそのひとりだったわけだ」
「うるせぇ」
もう、フラれたんだっつーの。
ふてくされて顔を背けた僕の視界いっぱいに、突然コバルトブルーが広がった。一拍遅れて、ルリの傘が僕の顔を覆うように置かれたのだと気づく。
「なにす――」
「言わなきゃよかった、って思ってる?」
ルリの静かな問いに、僕は傘を払いのけようとした手を止めた。
もしも、言わなければ。僕は恋心と親友を同時に失うことはなかった。
もしも、言わなければ。彼女に想いを伝えなかったことをずっと後悔した。
もしも、言わなければ。きっと、藍原をずっと苦しめた。
「……思わない」
僕の口から、答えが自然とこぼれ出た。ルリの穏やかな声が傘越しに伝わる。
「さっきまでの雨と一緒だよ。あったことは変わらない。いいことも、悪いことも」
彼女がくれた温かい気持ちも、藍原との楽しかった日々も。
「ちゃんと想いを伝えただけ、君はほかのやつとは違う。そこは誇っていいんじゃないかな」
ルリの表情は傘に阻まれて見えないが、きっと、今の空のように穏やかで優しい笑顔を浮かべているのだろう。本当にこいつは、昔からこういう不意打ちが得意だ。
言葉に詰まった僕は、ルリと僕の間を遮ってくれるコバルトブルーに感謝した。
それからしばらく、僕らはお互い黙ったままでいた。草の揺れる心地よい音に耳を傾けていると、ルリが再び口を開いた。
「それで、どうするの?」
どうするもなにも、彼女のことはどうしようもない。僕はフラれたのだから。彼女がくれた温かいものは恋だけじゃない。
藍原のことは許したわけではないが、僕は、あいつが人をあざ笑うやつじゃないと信じたかった。恋に浮かれ、真剣に相談する僕を見て、言い出しにくかったのかもしれない。そんな風に考えたら、少しだけ心が楽になった。
「どうもしないよ。明日からも普通に生きるだけさ」
僕は、ひとりじゃないとわかったから。
ルリはふぅん、と気のない返事をしたっきり、また黙り込んでしまった。僕は視界のコバルトブルーを眺めながら、次はどんな嫌味が飛んでくるのだろう、なんてことをぼんやりと考えていた。
「いっそのこと、あたしと付き合っちゃう?」
突拍子もない予想外の台詞に、僕は思わず目の前の傘を払って勢いよく起き上がった。なーんてね、とそっぽを向いて笑うルリの耳が赤い。現金なもので、体温がみるみるうちに上がっていくのがわかった。濡れそぼっているはずの体が熱い。
あぁ、まったく……なんてベタな青い春だ。
レイン・ブルー・ユース 風月 或 @ventose_aru
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