(7)

 笑みを含んだ兄の声が聞こえる。一言目が平坦に聞こえたが、機嫌が悪いわけではなかったらしい。

 「本当に久しぶりだな。何年ぶりだ?」

 私は、なるべく目の焦点を合わせないようにしながら、その声の主を見る。

 やはり、そこには異相があった。これは、どういうことなのか。

 叫び出したかった。そうして、この場から逃げ出してしまいたかった。その気持ちを押し殺して私は努めて笑顔を作り、「6年ぶりかな。やっぱり遠いからあまりしょっちゅうは戻ってこれなくて」と答えた。果たしてきちんと笑顔を作れているものかどうか、わからなかった。


 兄の隣には、先ほどまでと同じ、硬い表情の父が座っていた。


 ――お父さん、これはどういうことなの。


 兄の変わり果てた姿について、今、この場で問いただしたいところだが、勿論それは不可能だ。兄にはとても聞かせられないやりとりになることが目に見えている。できるだけ早く、父と2人で話をしたいところだが、今日、その機会はあるだろうか。


 夕食には、寿司が出た。父が馴染みの寿司屋から出前を取ったものだ。私が帰省して実家に立ち寄る時の夕食には、必ずと言ってよいほど寿司が出る。父なりのもてなしなのだろう、と思う。実際私は寿司が好きだし、ウニやアワビなどは関東では鮮度が低いのか、おそろしく不味いものしか食べられないので、ここぞとばかりに食べまくるのを常としていた。

 しかし、今夜だけはそんなわけにも行かず、「普段こんなの食えねぇだろう、たくさん食え」と父に勧められ、うん、と答えながらも、ほんの数貫しか食べられなかった。


 食後のお茶を飲み終わった兄は、のそりと自室に戻って行った。



 父が黙ったまま、2人分お茶を淹れて、私の分の湯呑を座卓の上を滑らせて寄越したので、ありがと、と言って1口啜った。

 私は、声を顰めて切り出した。

 「あの……なんと言うのか……その。兄さん、随分、顔が変わった、ような気がするんだけど。何かあったの……? 兄さんが外に出ないのって、顔があんなふうになったことと、関係あるの?」

 「あぁ、アレか」父は、事もなげに答えた。「アレはな、母親の血が濃く出てきている」

 「母親って……、私達のお母さん……の、血?」

 何故ここで、母が持ち出されるのかわからなかった。そもそも私は母がどういう人だったのか知らないのに、「母親の血が出た」などと言われても、意味がわかるはずもない。どういう意味なのか問おうとしたところに父が重ねて言った。

 「アレはな、もうすぐ母親が来たところに帰るんだ。いつになるかは、わからねぇがな」

 「帰る? 兄さんが? どういうこと? どこに帰るの? ていうか、さっきから何の話をしてるのか全然わけがわからないんだけど」

 私は混乱していた。しっかりしているように見えるのだが、父は認知症か、それとも妄想が出るような精神病にでも罹っているのだろうか。一体何を言っているのか、徹頭徹尾意味不明だ。

 父は、狼狽する私には答えずになおも言葉を継いだ。「お前から電話があったとき、お前もそうなのかと思った。しかし、違うようだな。まだ……変わっていない」

 

 「お父さん。だから、意味がわかんないんだけど」

 たまらず、少し声を荒らげると、父は、「そうか、お前はまだ何も知らないんだったな」と呟くように言った。「夢も、まだ見ないか」


 父は、何も言えなくなっている私をよそに少し考える素振りをした後、「お前、明日の予定は決まっているか」と尋ねてきた。

 「え? 特に行くとことかないから、昼間はベイエリアとかを適当に回って、また夜に寄ろうかと思ってたけど」

 「つまり、これと言って予定はねぇんだな。じゃあ明日の夜、付き合え。話したいことがある」

 「予定は、確かにないけど。話って、ここで?」

 「いや。外にしよう。明日夜7時に、お前の泊まっているホテルの前に行くから待っていろ」

 「そんな」一方的な……と言いかけた私に、駄目押しのように父が言った。「お前が知りたいことを教えてやる。ここでは、都合が悪い」


 知りたいこと。

もともとは、兄の変貌について訊きたいはずだった。しかし、母の血がどうとか、兄がどこかへ帰るだとか、夢がどうだとか、わからないことは父との会話を続けるうちに増えて行った。正直なところ、何がわからないのかすらわからない、そんな様相すら呈している有様だ。それら、もやもやしたことを教えてもらえるというならば、と考え、私は「わかった」と答えた。


 夜食に食え、と饅頭と寿司の残りを持たされ、私は家を出た。



 夜食に食え、と饅頭と寿司の残りを持たされ、私は家を出た。

 来た時とは逆に坂を下り、宝来町から市電に乗って函館駅前まで戻った。ホテルのフロントで、預かってもらっていた荷物を受け取り、チェックインを済ませた。部屋は、7階のシングルルームだった。

 部屋に入ってあかりをつけ、フロントで預かってもらっていた大きい方のバッグをベッド脇に置いた。片手にトートバッグを持ったまま、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。枕元のデジタル時計を見ると、時刻は既に夜8時を回っていた。


 




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