優しさってなんだろう?

それは部屋の輪郭を歪ませるほどの鋭利な絶叫だった。

「う……わあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ」

深夜帯。言語化出来ない音質に鼓膜を貫かれそうになって、ぼくは布団から飛び起きる。

寝起きで回りきらない思考と冴えた瞳のまま立ち上がり、電灯をつけて音源である押入れを開くと、横になったまま奇声をあげる園原さんがいた。

園原さんの身体は無理矢理陸に叩きつけられた魚のように跳ね上って、ビクビクと痙攣を繰り返している。

肩を揺さぶって声をかけると、きつく閉じられていた瞼が動いて、明らかに正気を失った黒い瞳がぼくを反射させた。


園原さんの顔は真っ青で怯えきって絶望しきった色をしている。

だくだくと溢れる涙が両頬を伝って、雨後のように暗い床を濡らす。

どこを見ているのか分からないような虚ろな目の園原さんの口元はヒクヒクと引きつっていた。

「園原さん!園原さん!落ち着いて!どうしたの!」

正気に戻そうと園原さんの名前を繰り返すが、ぼくの声なんて届きはしない。

白い歯をカチカチ鳴らして双眸に混濁を浮かばせながら、手足をブルブルと震わせていた。

ぼくは彼女の身体に覆い被さるよう抱きしめて、安心させるように努めて優しい声で呼びかける。


「園原さん……大丈夫、大丈夫だから」

「、…ぁ……」

耳元で宥めるように囁くと、園原さんの瞳にほんの僅かだが理性の光が戻った。

「ううぅ、ううううううううううう」

しかし、それは一瞬のこと。園原さんは唸り声を上げて、発汗を全身から促す。

醜悪な音と共に、鼻腔を貫く酸性の臭い。

生温い吐瀉物がぼくの肩に広がって滑り落ち、畳にも絡みついた。

涙を流して、吐き続ける園原さんの背中を労わるように撫でる。

不思議と嫌悪は起きなかった。

せいぜい、掃除しなきゃなーという思考が関の山だ。


胃の中身を一通り撒き散らした園原さんは胃液の染み込んだぼくの肩に力なく寄り掛かった。

ハッとしたぼくは、彼女の身体をゆっくり慎重に起こす。

園原さんの目の焦点は合っておらず、嘔吐物が鼻からも垂れて、息苦しそうに衰弱しきっていた。

胃液で汚れた口元を指先で拭って、再び抱き寄せる。

園原さんは一瞬だけ身体を強ばらせたが、やがて力を抜いて、されるがままになった。

ぎいぎいと床が軋んで、誰かが階段を上る音が聞こえる。ぼくはため息を吐いた。

まあ、100パーセント祖父か祖母なんだけど。


説明どうしようかな、と考えた自分に少し驚く。

説得ではなく説明、庇いきれる自信なんて無いに等しいのだ。

時間稼ぎにもならない嘘なら吐かない方が良い。

隠していた秘密がバレる瀬戸際なのに、ぼくは冷静だった。

心臓の音はどこまでも穏やかで、どこか当事者意識に欠けている。

「愛花、説明しなさい。これはどういうことなんだ」

階段を下り、茶の間で卓袱台を挟んで、祖父と祖母、ぼくと園原さんは二人づつ向かい合うように座った。


祖父の隣には祖母が居て、ぼくの隣には顔色が良いとは言えない園原さんがいる。

先程、ぼくの部屋の襖を開けたのは寝巻き姿の祖父だった。

寝起きの祖父は黄ばんだ眼球が滑り落ちそうなほど瞼を開いたが、意外にもパニックにはならなかった。

それどころか、至極冷静に現状把握すると園原さんの体調を確認して「部屋掃除なんて後回しで良い」と言ったのだ。

クールな言動に血筋を感じざるを得ない。

「説明は、ちょっと難しいと思う。話すけど」

「いいから話しなさい。その子は誰なんだ」

祖父の声はある威圧的な響きが籠っていて、園原さんはビクリと肩を揺らし、顎を引く。

頑固な祖父は、気難しい顔つきであらゆる種類の変化を忌み嫌っていた。


園原さんを安心させるように、ぼくは彼女の膝に乗る白い握り拳に手を被せる。

「彼女は、ぼくの同級生だよ。訳あって家に帰れないから、泊めてあげてたんだ」

嘘を吐くつもりはなかったが、一から説明すれば長くなるので簡単に答える。

ぼくを見返して、祖父は訝しげに片方の眉を釣りあげた。

「……愛花、お前はお人好しだ。優し過ぎる」

「べつに、そういうのじゃないよ」

本当に、優しさなんかじゃない。

何も信じない人間の方が、上手く他人を騙せることがあるものだ。

それは怪しげな宗教や電車に貼られる宣伝広告と一緒だった。


「この子は愛花の友達なのは分かるが、それにしたっていつまでも家に置く訳にもいかないだろう。その子の親御さんだって心配してるはずだ」

「そうかな?だとしても、本人が帰りたくないならしょうがないんじゃない?」

「……。あのな。だとしてもな、そういうことを子供が勝手に決めるのは……」

「まあまあ、良いじゃない。これくらいの年頃の女の子は、家出したくなる時の一度や二度ありますよ」

言って、祖母は血色の悪いむくんだ手で深紅色の急須を掴むと、四つの伊万里焼の湯呑みに順番に緑茶を注いでいく。


「しかし……お前な」

「彼女は愛花のお友達なんでしょう?だったら、そんなに重く考えなくて良いんじゃない?悪い子じゃないですよ」

「そうだよ。ジジイは石頭だからいけない」

「なんだと!?ワシはお前たちを思って……それに当たり前のことをだな……」

「心配せずとも、彼女はちょっとお休みがしたくなってるだけですよ。そういう時があっても良いじゃない。美味しいご飯を食べて、好きな映画でも見たら、人間はまた立ち上がれるから、大丈夫」

鶴の一声ならぬ、祖母の一声だ。

祖父の顔に、微かだが理解の光が差す。


コトリと音を立て、ぼくと祖父、そして園原さんの前に湯気が立つ湯呑みが置かれた。

「ああ、すげえ。茶柱だ」

園原さんの前に置かれた湯呑みを見ると、茶柱が縦に浮いた状態になっていたのだ。

ぼくの言葉に、祖母はしわくちゃの顔を童女のように綻ばせる。

「あら!良いじゃない。昔から、茶柱が立つと縁起が良いって言うのよ」

「良かったね、園原さん!というか、そろそろお風呂入って来て良い?流石に顔くらいは洗わせてあげたいんだけど」


「そうね。着替えはおばあちゃんが用意しておきます」

「サンキュー!」

「まて、愛花!ワシの話はまだ!」

「もー!大丈夫だって、ちゃんと分かってるから。それにおじいちゃんが言ったんだよ。困ってる人は助けなきゃ」

祖父は干からびた唇を漢字の一の文字に噤む。

ぼくは消耗し切った園原さんの手首を引いて立ち上がらせ、風呂場に直行する。

優しさなんかじゃないけど、それでも、ぼくは彼女を元気にしてあげたいと思った。

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