好きってなんだろう?

フライパンで炒め物をするような音が外から聞こえてくる。

ふと障子の隙間から窓の向こうへ目を向けると、いつの間にか日差しが厚い雲に隠されて薄ら暗くなっていた。

年季が入って茶色く変色しきった畳に、園原さんは白磁の頬をくっつけて横たわっている。

顔に畳の目の跡がつかないか心配だ。

曰く、雨の日は身体が怠くなるので苦手らしい。

昼食を済ませてからずっとぐでっとしている。

特に会話をしていなかった。

時々、我が家の傍を通る子供の声やバイクや車の音なんかを聞いて過ごしていたのだ。


今日の園原さんは石像のように動かず、いつにも増して何を考えているのか良くわからない。

気圧の変化に弱すぎやしないだろうか。

雨音が奏でるミュージックを聴くのもそろそろ飽きてきた。

気分転換を兼ねて、ぼくは机からワインレッドのノートパソコンを下ろして、膝の前に置いた。

液晶の明かりと共に電子音が響いて起動の完了を知らせる。

黒いワイヤレスマウスの電源を入れて、カチカチと鳴らしながら、ブラウザのブックマークページから動画サイトを開く。


ぼんやりと考え事をしながらぐるぐるとカーソルを動かして、少し悩んでからお気に入りのアニソンを聴くことに決めた。

動画をクリックすると、パソコンのスピーカーから聴き慣れたイントロが流れ始める。

「神戸さんも、その歌が好きなの?素敵な歌詞だよね」

「まじかよ。園原さんもこの歌が好きなのか?趣味が合うな」

「……。……意外だなって思ったよね。イメージに合わないって」

「……まあ、少しだけ。でも、ぼくは園原さんのことなんにも知らないからな。驚くのも変な話だよ」

「……」


黙り込んだ園原さんはコロコロと身体を回転させながら、ぼくの傍に近寄ってきた。

突然のことに驚いて姿勢を正して、園原さんの目をじっと見る。

黒玉のような瞳は少し潤んでキラキラと光っていた。え、なに?エッチコンロ点火?

「こ、神戸さんって、さ。わたしがアニメとか漫画が好きでも、笑わない?」

「逆になんで笑うの」

質問を質問で返してしまった。一種の条件反射である。やっちまったぜ。

手首偏愛家の殺人鬼の男性が脳裏を過ぎった。

園原さんの両目からはらはらと頬を伝う水滴が次々と畳へ零れ落ちる。


一台の車が、走り去っていく。住居寄りの部分を走行したようで、一際大きな音が聞こえた。

いつの間にか動画の再生が終わっており、時間が止まってしまったかのような静寂が落ちる。

「好きなものを好きって言えないのは、しんどい。園原さんが好きなら好きで良いんだよ。周りがなんて言っても、好きで良いと思うよ」

「……そう、かなぁ」

「少なくとも、ぼくは園原さんと好きな漫画が被って嬉しかったから」

ぼくの言葉に柘榴のような唇を噛んだ園原さんは、やがて嗚咽を漏らした。


ぼくの手首を掴んで顔に寄せると、長い睫毛に雫を乗せて、白い膝を折り曲げて胎児のように身体を丸くする。

まるで、祈るように瞼を閉じた彼女はひどく作りものめいていて、無造作に触れることを許さない退廃的なうつくしさがあったのだ。

薄い皮膜に覆われて弾けそうで弾けない満ち満ちた赤い唇をぼくの手首に何度もスタンプして、やがて満足したのかゆっくりと顔を上げて黒玉を覗かせる。

目元がほんのり赤らんでいて、化粧でもしたみたいだった。

「神戸さんが、好きです」

「それって、恋愛感情?」

「わかんない」

「分からないなら、軽々しく口にしちゃダメだぜ。ぼくが狼になってしまう」


身体を起こして、園原さんは首を傾ける。

長髪が肩から滑って滝になった。

「それって、神戸さんが自分のことを『ぼく』って言うことと関係あったりするの?」

「鋭いなー、そんな感じ。でも、男になりたいわけじゃないよ。自分のことを女の子って言い切るのもちょっと違和感あるけど」

「ふーん……でも、神戸さんは神戸さんだよね。わたしは神戸さんが好きだよ」

「やば……ガチ恋しそう。ありがとうー」

園原さんは西洋人形のような可愛い過ぎる笑みを浮かべる。

彼女の可憐さは暖かなミルクと甘い砂糖菓子のみを食べて生きてると言っても納得出来てしまう。


園原さんの微笑を見ていると角砂糖を頬張るような甘い気持ちになる。

周囲の人間、特に男性を惑わせる力が彼女にはあるように思った。

園原さんがもっと傲慢で我儘な女の子だとしても、周囲の人間は喜んで使われてくれるだろう。

いくら悪徳や汚濁に塗れようと損なわれることのない艶めかしさが彼女には備わっている。

それは、幸福であり不幸でもある。

美人が幸福なんて嘘だと思った。

妙な話だが、自分がどっちつかずの人間でラッキーだったと口笛を吹きたくなったのだ。


「神戸さんは、漫画は何で読んでるの?」

「ぼくは基本的に紙の単行本派だぜー。電子書籍は目がチカチカするんだよな」

「そうなんだ」

「もしかして、読みたい?園原さんって強請るの下手っぴだな」

「えへ」

「可愛いから許した!」

舌先をぺろっと出して、両頬を手で押える園原さんのあざとさに人類が勝てるわけないんだ。

マウスを動かして、パソコンの動画を自動再生モードにしてする。

それから膝をついて立ち上がり、部屋の角の本棚にかけてある紺色の布をめくって、MURDERPLANETの漫画を全巻取り出した。


荒業である。横着したせいで間抜けなアコーディオン弾きみたいになってしまった。

ぼくは落とさないように慎重になりながら園原さんの元に単行本を運ぶ。

自室をほんの数歩進んだけなのに、無駄に疲れた気がした。

メンタルは中性でも、筋力は陰キャ女子なのだ。

力仕事は苦手だし、疲れるから出来ればやりたくない。

「園原さんって、MURDERPLANET何巻まで読んだ?本誌は追ってる感じ?最新話が読みたいなら本誌もあるぜ」


ぼくの言葉を聞いてるのか聞いていないのか。

園原さんは単行本を一冊ずつ裏返して興味深そうに眺めると表紙を外してまた戻すという不可解な行動を繰り返していた。

やがて、満足したのか座ったまま深々と頭を下げる。

「ありがとう」

「あれ?もう良いの?」

「わたしはいつも紙の本じゃなくて電子書籍で読んでたから、表紙の裏側がどうなってるのかずっと見てみたかったの。夢が叶った」

「んな、大袈裟な……。園原さんは電子書籍派かー。電子の方が持ち運びに便利そうだよね」

「楽だよ。それに、わたしの親は漫画とか部屋に置くの良い顔しなかったからね」

「なるほどな」

「そうなの。だから、ありがとう」

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