目覚め(1)
「はあっ……! はあっ……!」
粗い呼気が俺の肺から漏れる。顔を動かさず、目だけを見下ろす。曇り一つ無い白い刀身がすらりと伸びる。雨が降る前の独特の匂いが鼻につく。首の皮に触れている刃の冷たさが恐怖から感じる刃の熱さと相まって、存在を主張する。
……ユリウスさんの必殺の剣は、俺の首を刎ねる寸前で止まっていた。
「ここまでだな。輝」
あくまでも変わらない冷たい顔で、彼は俺を見下す。その目は俺が追い求めていた『敗者の目』とは程遠く、それが逆に鏡のように、俺の目がきっと『敗者の目』をしているのだと表しているようだった。
「ふ、ふざけんな……!」
どうして……どうしていつもこうなんだ。いつも上手くいかないんだ。
生き残ろうとすれば独りになり、守ろうとすれば自分を忘れ、帰ろうとすれば困難な現実に叩き落され、自分の為という信念を貫こうとすれば仲間を失い、優越感を得るために勝とうとすれば敗北を知る。想いは誰にも届かず、思い通りに事は運ばない。
「俺は! ずっとずっと、苦しんだんだ! ずっとずっと、負け続けてきた! でも、この場所でやっと勝ったんだ! これしかないんだ! 俺には、誰かを倒し続けることしか……そうやって自分を証明するしかないんだよ!」
視界が滲み始める。俺の首に剣を突きつけているユリウスさんの顔がぼやける。
「なのに、どうしてだ……! どうして俺はそんなことですら、自分が自分であると自信を持つことですら、うまく出来ないんだよ……! ……もう、これしかなかったのに……」
すべてを失った俺にとって『ここ』が最後の拠り所だった。そのたった一つですら俺には叶わない。自らの胸を裂いて溢れんばかりの想いが目に浮かんでくる。
その中で、ユリウスさんはゆっくりと口を開いた。
「……小刀での見切り、随分上手くなったな。俺とマーカスが教えたときよりも、遥かに上達している」
彼が言い始めた言葉の意図がわからず、俺はろくに反応できない。それでも、ユリウスさんは淡々と続ける。
「槍での突進は、見たことがある。王国軍の一部で教えられている技だ」
そうだ。あの技はこの世界で初めて教わったものだ。ラーズという槍使いの兵士に、『覚悟』というものと一緒に。
「初めの方に見せてもらった、フェイクを交えた後の小刀での素早い突き。それはダグラスの流派で使われているものだと記憶している」
あれは、ミアに教えてもらった技だ。強くなりたいと願った俺は、ヒュルーまでの道のりの中で彼女に戦い方の手ほどきを受けた。
「お前は『何もない』と言った。だが、『何もない』というのは真実なのか?」
突きつけるようなユリウスさんの言葉に、俺は目を逸らしたくなる。しかし、首元に突きつけられている長剣の刃は、俺にそれを許してくれない。向き合うことを強要してくる。
「何もないだろ……! 勝つこともできない。魔法も使えない。仲間だと思っていた人間は居なくなった。俺は、……悪くないのに!」
「そうだな、お前は悪くない」
「……へ……?」
あまりにもあっさりとした肯定に呆然としてしまう。ユリウスさんは淡々と話し続ける。
「意外か? 当たり前だろう。世の中に人間が一人きりというわけでもない限り、ひとつの出来事が、全て誰か一人のせいで起きるなんてことはない。必ずそこに至るまでの経緯の中で他の人間が与えた影響だって存在する。そもそも、善悪は確固たるものではない。悪いかどうかなんて、そんなものを断定することは、何処にいるかも分からない神様だって出来やしない」
彼はそう言ってから、俺の首元に当てていた剣を引いた。
「お前がそれを理解できないほど、賢くないとは思えないがな」
そして、剣を納める。鍔鳴りが木霊する。
「本当は、誰だ」
「……は?」
「お前のことを悪いと思っている人間は、本当は誰だ」
ユリウスさんの目が俺を見据える。剣を引いたユリウスさんに対して、今の俺なら小刀で反撃することはできるはずなのに、体が動かない。俺を逃さないための剣が無いというのに、俺はユリウスさんの言葉を待ってしまう。
「頭で分かっていて、それでも自ら悲劇の主人公になって、挙げ句くだらない優越感に取り憑かれているのは誰だ。現実を受け止められなくて、安易な理由に逃げ込んで、自虐的に暴れまわっているのは誰だ」
ユリウスさんの目から、問いかけから、逃げることが出来ない。
「……全て、お前だろう」
「分かったような、ことを言うなよ……! 全てを見てきたわけじゃ、無いくせに……!」
食い下がる。声が震えてしまう。嗚咽が胸まで登り始めている。
違う。本当はそんなことを言いたいのではない。自分でも欲しいものは分かっている。それをユリウスさんは与えてくれようとしている。
「そうだな。お前の世界のことはお前にしか分からない。……それでも、お前の身に染みついている兵法は現実だ。俺は現実を告げただけだ」
「それならどうして! どうして俺は――」
俺が原因ではないのならば。この現実はどうして。
どうやって受け入れたら良い。どうやって乗り越えればいい。
「――独りなんだよ……!」
助けてほしいんだ。俺はただ、助けてほしかったんだ。
雨粒が落ち始める。頬に一粒。追いかけて、俺の低い鼻先に一つ。それからは勢いを増していくつも、いくつも。にわか雨だ。夏の日の夕立のように重たい水分が全身を濡らしていく。雨音は一気に激しく、冷たい雫が体温を奪っていく。
それでも、目元に流れる水だけは人肌に暖かく、俺はただ、言葉にもならない声で叫ぶ。
「その答えは俺の中にはない。それでも、自分を大切にしない今のお前の行動は、きっと正しくない。だから……」
ユリウスさんの声が聞こえる。無機質な声色の中に、俺の目元と同じような確かな体温がある。
「少し休んで、もう一度自分を見つめ直せ。俺の家に来い。この戦いに巻き込んだ俺も、正しくないのは事実なんだ。……償わせてくれ」
慟哭が雨音に紛れて溶けていく。断続的な音の洪水の中で、俺は叫びと雨水に全身を浸しながら泣き続けた。
○
長い長い夢を見ていた様な、そんな気がした。
暖かな布団にくるまれて俺は仰向けに寝ていたようだ。見た事もない場所。見た事もない部屋。体に染み付いた泥臭さ。忘れたかった過去。逃げ出そうとした現実。向き合えなかった未来。
きっと辺りを幾ら探した所で仲間は居ない。いや、『居た』んだ。『居なくなった』んだ。……俺は今、独りだ。理不尽でも、正しくなくても、それが現実だ。
そしてその原因は、俺が正しくなかったからでも、誰かが正しくなかったからでもない。そんなわかりやすいところに答えはない。逃げずにただ粛々と現実に向き合って、考え続けなければならないのだろう。
「お目覚めのようですね。久喜、輝様」
女の声がした。慌てて上体を起こし、声の主を確認する。
長くて黒い髪を持った、和服の様な服を着た若い女性だった。綺麗だがきつめの顔立ちはどこかで見た事があるが……思い出せない。ハリアの何処かですれ違っただろうか。
改めて部屋を見ると、和風建築の様なつくりをしている。天井と床は板張りで壁は塗り壁。その他の調度品は今俺がいる敷布団と箪笥が一つ有るのみ。大きさからすると一人部屋の様だが、落ち着くつくりをしている。俺が日本人だからなのか。
もちろん異世界から無事に帰ってこれたわけじゃない。一応、こんな雰囲気の家は知っている。
「……ユリウスさんの、家、ですか?」
久しぶりに穏やかな声を発したと思う。だが少しの沈黙の後、和服の女は素っ気なく目をつむった。
「はい。ユリウス様の御屋敷で御座います。……失礼ですが、先ずは体を清めて頂けると有難いのですが」
「え、あ」
何日も、体を拭く事すらしていなかった。自分では気付きづらかったが、臭いが鼻に付くし、前髪は油でべたついている。……うん。人の家に――それも、貴族の屋敷に――上がれるような状態じゃない。どうやって上がりこんだのだろう。
そういえば、雨の中で無茶苦茶に叫んでからその後の記憶が無い。
俺は和服の女へ目を向ける。ユリウス『様』と呼ぶあたり。この和服っぽいのを着た女性は使用人か何かだろう。その和服女が俺の顔を見て不機嫌そうに続ける。
「昨日、ユリウス様が雨の中あなたを背負って帰ってきました。あなたはそのまま朝まで寝ていましたよ、『路地裏の嗜虐者』様」
ユリウスが運んできてくれたのか。
それにしても、表の人間にもずいぶんと良い評判を頂いているみたいだ。……当たり前か。何十人もの人間を無差別に倒したことはちゃんと覚えている。どんな渾名を付けられても文句は言えない。
「浴場は部屋を出て左へ真っ直ぐです。布団を片付けるのでお早目に……」
「わかりました。すみません。もう行きます」
俺は和服女の横をそそくさと通り過ぎて部屋を出、左へ向かった。板張りの廊下は相変わらずの和風。突き当たりには引戸。開けると脱衣所があった。ドロドロの服を脱いでいく。いつだかミアが褒めてくれた服はもう着れないほどに汚れて、あちこち破れて傷んでいた。ボロを身にまとっていたといっても過言ではない。
「……ミア」
……駄目だ。一々浸ってたら何もできない。
無心になってすべて脱いで浴室へ入っていく。良い匂いのする石鹸で体を洗い、湯船に浸かった。
大きい湯船だ。多分銭湯にあるようなものと比べても遜色無いだろう。温まって目をつむると、疲れが湯に溶けだしていくようだった。溶け出して、それで。
……無心になるって、思ったのに。
落ち着いて、温まって、色々考え始めてしまう。
「俺が」
俺が仲間を失ったのは、やっぱり俺の責任だったんだ。そう思っていたい。誠意をもって接すればまた仲間になれると信じるために。
ユリウスは俺は悪くないと言ってくれたけど、俺にも悪い所はあった。取り乱してみんなに酷い事を言った。それにシュヘルが襲われた原因の一端は俺が……。わかってるよ。
行為には責任がつきまとう。逃げないで。押し潰れそうになる。仲間が欲しい。寂しい。見捨てないでくれ。何で俺だけが。理不尽だ。何で他の奴らには一緒に戦う仲間がいるんだ。羨ましい。妬まし――。
――ぴしゃりと自分の手で自分の顔をはたいた。
「今……。くそ……」
嫉妬だけは押しとどめないといけない。王都でのことがあってから、なるべく考えないようにして殺してきた感情だ。
ため息をついてから、冷静になって考える。
……俺の中には強い劣等感が存在しているんだ。
それは、この世界に来て、『狛江ソラ』を相手にする前からきっとそうだ。『藤谷カズト』に、『赤田ユウスケ』に、それから『橋山一樹』にですら、俺は何処かで劣っているという意識があった。
その発露が嫉妬心であったし、優越感を求めて戦い続けることでもあった。
「俺は、本当に……」
くだらない人間だ。どうしようもなく比べてしまう。周りと自分を比較せずにはいられない。
そうして比べて、自分よりも力を持つものが、仲間のいるものが、自分を持っているものが……。
「羨ましい……か」
俺はもう一度自分の頬をはたいた。
いけないな。深く考えようとするたびに、どうしてもその感情に行き着いてしまう。
はたいた手を見るとふやけてきていた。もうそろそろ出よう。長々と一人で湯に浸かっていると『いらない事』まで考えてしまいそうになる。
「着替え、置いておきます」
外から声が聞こえてきた。恐らくさっきの和服女だろう。俺は外に向かって礼を言い、湯船から上がった。もう一度頭から水を被り、脱衣所へ出る。
俺が着ていたドロドロの服は無くなり、代わりの服と、その上に体を拭く布がきれいに畳んで置いてあった。
布で水気を取り、用意された服を着る。丈夫な生地の暗い色のズボンと灰色の半袖Tシャツ。どちらも着古されていない新品だった。
「着替えは終わりましたか?」
「はい、大丈夫です」
また和服女の声が聞こえたので返事をしながら脱衣所の引戸を開けた。和服女は俺を一瞥すると背中を向けて歩き始めた。
「ついて来てください。お食事が用意してあります」
俺はその背中を追いかけながら訊く。
「すみません、俺の武器、どこにあるか知りませんか?」
確か俺が寝ていた部屋にもなかったはずだ。手元に何か無いと落ち着かない。和服女はこちらを振り返らずに答える。
「預かっております。『危険』なので。……さあ、お食事をどうぞ」
大きな部屋に出た。広いテーブルの一箇所に一人分の食事が用意されている。スライスされたパンと湯気の立つ炒め物を見ると派手に腹が鳴る。
和服女の方を見ると「どうぞ」と言わんばかりに手を席へ向けて促す。無言で。それを見て俺は席につき、目を閉じる。
和服女の強い当たりは、当然のことだ。俺はそれだけのことをしたのだろう。ミアにも、エレックにも、いや、ソラたちに対しても。……きっと、そうだ。
正しさがどうという話ではない。
何をすればいいのか。俺は『本当は』どうしたいのか。
……向き合うんだ。逃げないで。しっかりと。
「……いただきます」
俺は久しぶりに感謝の言葉を発し、パンに噛り付いた。
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