それでも彼は、価値を欲した(3)

 高校一年生の秋頃の話だ。


 夜に至ってはもう大分涼しくなってきた。

 あんなに自己主張の激しかった蝉はゆっくりと退き、代わりに鈴虫の鳴き声が聞こえる。蝉が鳴く昼間も短くなってきた。夏休みも終わり、夕闇はより早く訪れるようになった。

 もう少ししたらこんな格好で屋上で伸びていたらすぐに風邪をひいてしまうような季節がやって来る。


 今二年の戸上たちも三年になったらこんなこと、辞めにするだろう。進路に関わってくる。

 だから、それまで。長くてそれまで。もっと早く飽きてくれればいいけど。……耐えるしかない。


 夏休みの間、部活動が行われるたびに俺は戸上に屋上へ呼びつけられた。何度か戸上の携帯を奪取すべく動いたのだが、一度も成功することはなかった。

 そして俺は抵抗することを半ば諦めて、戸上が少しでも早く飽きてくれることを祈るだけになった。それでも殴られ続けているのは、それが俺の義務だと思ったからだ。


 ユウスケと前田さんを守れるのは俺しかいないんだ。


 そんなことを考えながら俺は今日も学校の屋上で伸びている。パンツだけじゃ本当に寒い。さっさと服を着て帰ろう。


「あ……帰りにノートでも買ってくか……」


 毎日のように殴られていると、何らかの感覚が麻痺してくるのかも知れない。

 痛みこそ計り知れないものがあるけど、屈辱には慣れてきた。どうせ反撃も何も出来ないなら無感動でいた方がいい。

 痛みだって前よりはマシになった。何度も暴力にさらされている内に、殴られ方、蹴られ方というものが身についてきたようだ。その気になれば、彼らの動きや予備動作を見て、幾らか避けたりすることはできそうではあったが、そんな事をしてしまっては彼らに火をつけてしまう。

 飽きてもらうためには、沈黙と無感動だけでいい。


「明日も学校だ……」


 俺はふらふらと立ち上がり、制服を着、鞄を持ち、日課のように夜の校舎を家へと急いだ。



 ぼうっと、黒板を見る。

 白や赤や黄で記された文字がぼやけ、不思議な色合いだ。不思議でも面白みのないことに変わりはないけど。


「おーい」


 今日は屋上に行かなくて良いらしい。戸上からのメールにはそうあった。部活で普通に練習するんだとか。リンチに参加している時以外の彼らは、本当にただの高校生であって、部活動に打ち込む青春を謳歌している。


「輝ー」


 ただまあ、今日、屋上に行かないからといって別段放課後にすることはない。さっさと帰って、暇だし勉強でもしてようか。


「シカトかよっ!」


「いたっ!」


 突然頭を叩かれた。俺の頭を叩いた手の持ち主は隣の席に座っている友人のユウスケだった。


「お前ボーッとしすぎ!」


「ん、ああ。ごめん」


 ユウスケが呼びかけてきていたのか。気づかなかった。

 ……まるで、ユウスケが前田さんと喧嘩していた時の逆パターンのようだ、と考えてから、少しだけ懐かしい気持ちになった。


「他に意見は無いだろうか?」


 山吹さんの声が教壇から聞こえてきて、俺は黒板に目を向けた。

 学園祭。出し物。屋台。劇。喫茶店。映画。合唱。ダンス。つらつらと斜め読みをしていく。やっぱり面白みがない内容だった。少なくとも、今の俺にとっては。

 山吹さんが仕切ってカズトが黒板に書記っていく、いつものホームルームが開かれていた。


「学園祭どーすんだろうなー?」


 ユウスケが意気揚々と言う。鬱陶しさすら感じるほどの活気。


「うーん。……俺は手間かかんない奴なら何でも良いけど」


「クールだな……。輝さ、二学期になってから、こう……やつれたよな。なんかあった?」


 ハッとしてユウスケの方を向く。ユウスケに屋上でのリンチのことを悟られるのは良くない。

 訝しげな表情をするユウスケに向かってなるべく出来る限りの笑顔を見せた。


「急にどうしたんだよ。いつも通りだって」


「……本当に? 『ケガ』とかしてるんじゃないのかな?」


 後ろから声。振り返ると新山さんだった。俺はさらに笑顔をひきつらせる。


「あ、あ。うん。少し寝不足なだけだから! マジで大丈夫だから!」


 新山さんは言い訳をする俺を冷たい目で見下ろす。ユウスケがただならぬ雰囲気を察したのか笑顔で仲裁に入る。


「あーまあ輝が大丈夫って言ってんなら大丈夫だろ! ところで新山さんは学園祭何やりたい?」


 何とも無理やりな感じはするけど助かった。新山さんも流石にユウスケがいる前で変な話を持ち出しはしないだろう。


「……劇、かな」


 ふてくされたように新山さんが吐き捨てる。俺に対する視線は冷たいまんまだ。


「皆、そろそろ相談の時間は終わりだ。席へついてくれ!」


 山吹さんが凛と声を張る。クラスのざわめきがおさまって、立ち歩いていた人は自分の席へ戻った。新山さんも例に漏れず。


「……じゃあ、席戻るから」


「あ、ああ」


 新山さんは最後まで不機嫌そのものだった。


「なあ」


 ユウスケが疑問一杯に声をかけてくる。


「輝と新山さん、何かあったの? 新山さんが輝に対して冷たくなったの二学期からだよな?」


「……いや。特に何も。心当たりは……」


「なんか怪しいなー。絶対に何かあっただろ」


 ユウスケが疑り深い顔でそう言っている中、ふと、変な威圧感を感じた俺は前を向いた。


「随分と、ご歓談されているようだが、少しこちらの議題にも目を向けて頂けるか……?」


 嫌な笑顔の山吹さんだった。その隣で藤谷が後ろ髪を掻きながら言う。


「簡単に言うと『喋るな。黙れ。殺すぞ』ってところかな」


「ち、違う! そのような乱暴な……!」


 山吹さんが顔を真っ赤に藤谷を振り返る。藤谷は真っ赤な山吹さんの頭に手を置きなだめつつ俺に向かって笑いかける。


「まあ、コイツも頑張ってるからさ、しゃべんのも程々にな」


 爽やかに笑う藤谷。端整な顔立ち。優しくてしっかりしている性格。新山さんが惚れるのも仕方ない。

 ……仕方ない、か。

 俺の笑顔がひきつって、終いには引っ込んでいった。


「……ごめん。静かにする」


「ありがとう輝。助かるよ」


 そう言って山吹さんをつれて前へ戻っていく。うちのクラスの学園祭の出し物を決めようと他の生徒たちが話し合いを始める。

 俺はまた、何も考えずにその場に座るだけ。

 やかましい級友の声を他人事のようにしてただ自分の机についている。そうして一人で大人しくしている自分ですら、他人事のように感じた。


 俺は屋上で殴られ続けて、自分の感情をごまかすことを覚えた。確かに殴られてるときには便利だけど、自分の感情を表現するのが苦手になってきた。

 そのせいか『新学期になってから久喜はノリが悪くなった』と、何人かのクラスメイトが噂し始めているのも知っている。

 人と話している時にも、目の前の会話に乗れない。他人事に見えてしまう時があるのは事実だ。


 俺は病んでるのか。いや……この程度でこんなこと考えるなんて、俺は甘ったれだ。


 突然、教室で拍手が鳴り響いた。


「……あ」


 周りを見る。席について皆が拍手している。とりあえず俺も拍手しておく。

 黒板前に立っている山吹さんがうなずいた。


「うん。皆賛成なようだな。では、学園祭の出し物は劇としよう」


 黒板には『劇』という文字の下に正の字がいくつか書かれていた。

 状況から察するに、多数決で出し物が劇に決定して、異論のない人が拍手……という流れだろう。

 そうか、劇になったのか。でも俺は放課後、どうせ呼び出しがあるだろうから、あまり準備を手伝えないな。

 別に誰も、俺が手伝うことに期待しちゃいないとは思うけど。



 出し物が劇に決まった今日の放課後、俺は英語の授業中にずっと呆けていたという理由で冴島先生の仕事の手伝い――というか雑務――をしに職員室へ来るよう言われていた。

 ユウスケは部活へ行ってしまったし、教室には劇の脚本係と藤谷たちが残っているだけで、あまり人は残っていない。

 居心地のいい雰囲気でも無いし、さっさと職員室の用事を済ませて帰ろう。

 俺は荷物をまとめ、自分の机に置いて教室を出るべくドアを開いた。


「あ、輝!」


 呼び止める声がして振り向く。藤谷だった。わずかに嫌な気持ちが差し込んでくる。


「……何」


 口から勝手に態度の悪い言葉が出てきた。取り繕うように「冴島先生に呼ばれてるから、行かないとなんだけど」と苦笑交じりに付け足す。すると藤谷は席を立ち、真面目な顔でこっちに近づいてきた。


「……ちょっとだけ時間ないか。相談がある」


 これは『時間ないか?』と質問してる口調じゃない。

 俺が『時間がない』と答えることを許さないような威圧感がにじみ出てきている。有無を言わせない、とはこういう状況で使う言葉なんだろう、と思った。


「う、うん。いいよ」


「助かる。ここじゃ話しづらいから場所変えよう。屋上でいいか?」


 屋上と聞いて不快な気持ちになる。嫌だ。今日は折角開放されてるのに、誰が好き好んで屋上になんて……。

 そう思ったのが顔に出てしまったのか、藤谷が言い直す。


「いや、屋上はナシだ……日差しがあるとまだ暑いからな。中庭の日陰にするか」


「カズトー! ちょっと来てー!」


 脚本係であるクラスメイトの一人が藤谷を呼ぶ。彼は「すぐ行く」と答えて俺を見た。


「輝の用事が終わったら中庭のベンチで待ち合わせな。じゃ、後で」


 彼はそう言うとさっさと脚本係の方へ行ってしまった。

 冴島先生による呼び出しといい、藤谷による急な相談事といい。たまに早く帰れると思ったらこうだ。


「……はあ」


 俺はため息をついて放課後の学校を職員室まで向かった。



 俺の通っている高校には中庭がある。思い出したくもない『事件』が起きた多目的室のある旧棟の直ぐ側に存在しているのだが、実は中庭にはベンチがいくつかあり、昼休みには外で昼食を摂ろうとする生徒たちでそれなりに賑わう場所でもあった。

 そんな場所ではあるが、上級生の授業に使う英語プリントのコピーという冴島先生からの罰をこなした俺が向かうと、放課後という時間帯もあり人は一人もいなかった。待ち合わせをしている藤谷の姿も見えない。

 丁度良く陽が傾いていてベンチが日陰に入っていたので、俺は全身の打撲に響かないようにそっと腰かけた。


 ……少しだけ、冴島先生に勘づかれていた。


 職員室に入ってからコピー用のプリントを渡された時に、冴島先生からそれとなく「最近どうなんだ?」という変な質問を投げかけられた。

 考えてみればわざわざ呼び出されるような事をした訳じゃない。最近は勉強しているから成績も悪いわけではない。

 体育祭のおかげもあって、それなりにクラス内での立場があった一学期の頃と打って変わって、二学期に入ってからの俺には話をする友人自体も減ってきた。多分、冴島先生が気にしているのはそのことだろう。

 高校教師なんて生徒のことをそんなに見ていないと高をくくっていただけに少し驚いてしまった。……その場は上手く誤魔化しきれたが。


 色々考えていると突然目の前にアップルサイダーの缶が差し出された。


「悪い、待たせた。これで許してくれ」


 缶を差し出してきたのは藤谷だった。

 俺は少し驚いてから受けとる。日のある間はまだまだ暑いので、アップルサイダーの冷たさは手に気持ちが良い。藤谷は俺の隣に座って、もうひとつ持っていた缶を勢い良く開けた。青と赤のイメージカラーで有名なコーラだった。

 俺の視線に気づいた藤谷が笑う。


「ん、こっちのが良かったか?」


「いや、大丈夫。ありがとう」


 遅れて俺もプルタブを引く。心地よい音に続いて、炭酸の弾ける小さな音が奏でられる。引いたプルタブを戻して一口飲むと、口の中に程好い刺激が現れて、鼻にはリンゴの柔らかく甘い風味が通った。


「今日もまだまだ暑いな」


 コーラを飲む合間にカズトが言う。俺は「そうだね」と相槌を打ちつつもう一口サイダーを流し込む。


「でも外の方が風があって気持ちいいだろ?」


 藤谷のその言葉に俺はまた曖昧に相槌を打つ。


「そういや劇の脚本、方向性は結構固まってきたぜ。ありがちだけど主人公がさらわれたヒロインを助ける話でさ」


「……藤谷、話ってそれ?」


 俺は思わず彼の話を遮るように訊いてしまった。藤谷は申し訳なさそうに口を閉じて、自嘲するように軽く笑った。


「ごめん、輝。……俺、お前と友達になるまでは『ちゃんと』話せる奴が桜華しか居なくて……。慣れてないんだ。どうやって話せばいいか、わからなくなる時がある」


「……そっか」


 隣で缶を握る藤谷が一瞬弱々しく見える。確かに入学当初はそうだったかもしれない。でも今の彼を見て、そんな風に思う人間を探す方が難しいだろう。

 藤谷が意を決した様にまた口を開いた。


「輝さ、二学期になってから元気ないだろ。……何か、あったのか?」


 来たか、と思った。上手に何もかもを隠しきれない不器用な自分を呪いつつ、頭では最もらしい言い訳を考えていく。でも、まあ――。


「いや、何もないって」


 ――こういう時はしらばっくれるに限る。

 それがいけなかったのだろうか、藤谷の雰囲気が一瞬で変わった。


「そんなわけ……何もないわけ、無いだろ」


 藤谷が絞り出すように言って、そのまま続ける。


「……夏休み、皆で何度も遊びに誘ったのに一度も来なかったよな。あの時から何か、おかしかった」


 夏休み。藤谷や山吹さん、ユウスケに前田さんに、あの新山さんまでもが皆で俺を遊びに誘ってきた。海だとか、山だとか、街だとか。

 ……行きたくても、行けるわけがない。戸上に呼び出されて玩具にされていた。何もない日でも、傷が痛くて動きたくなかった。楽しそうな彼らを見て、更に嫉妬せずにいられる自信もなかった。

 歯を食い縛る。俺のすぐ隣に、俺の求めていた楽しい夏休みが座っている。


「金が、無かったんだよ」


「金がかからない遊びにも誘っただろ……!」


「予定が、合わなかった」


「そんなに頻繁に何の予定があったんだよ……!」


「それは……」


 上手く言い返す言葉が出てこない。藤谷を看破できる嘘なんて存在しない。彼はあの山吹さんと並ぶほどに優秀で、俺の嘘に気づける新山さんですら憧れる存在なんだ。

 藤谷は、一呼吸置いてまた話し始めた。


「理由、言えないのか?」


 俺は少し迷いながらも頷く。


「なら、理由は言わなくて構わないから、何か俺に出来ることがあったら言ってくれ」


「何もないよ」


「でもっ」


 俺は一気に残りのアップルサイダーを飲み干した。喉に来る刺激が最初の一口よりも弱々しくなっていた。時間がたって炭酸が抜けてきているみたいだ。

 まるで、時間とともに希薄になっていく、人と人とのつながりのようだ。

 俺はアップルサイダーの缶を手に、そのままベンチから立ち上がって振り返り藤谷を見下ろす。彼の手に握られているコーラの缶が凹んでいた。

 ……力、入れすぎだ。


「飲み物、ありがとう。俺は大丈夫だから。……先、帰るよ」


 藤谷は、納得できない、という顔をしていたが、しばらくするとうつむいた。


「……わかった。……でも、本当に困ったら言ってくれ。絶対に力になるから」


「……うん」


 そのまま動かない藤谷を中庭に置いて俺は学校を去り、帰路につく。

 藤谷はこんなに良い奴だ。俺が彼のことを疎ましく思っているというのに、それでも彼は俺のことを本気で心配している。

 それを理解すると余計に苦しい。理由はわかっている。汚らしい意地を張っているのは俺だけだというのがありありと示されているみたいだからだ。

 それでも俺には、藤谷に頼るという選択肢はない。……絶対に、存在しない。

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