それでも彼は、価値を欲した(2)
屋上につながる鉄製の重たい扉。それを慣れた手つきで開けた戸上たちについていき、外に出る。
一面にむき出しのコンクリート。そして、簡素なフェンス。その先にはこの高校が存在している街の景色が広がっていた。
今日の天気は快晴。夏の日差しが差し込んできて、じっとりとした汗が皮膚の表面に滲んでくる。そこへ風が吹いてきて心地いい。遠くの空では入道雲が成長しているのが見える。
戸上の両脇にいた二人の先輩は屋上の扉の近くに座り込む。戸上は俺を振り返ると、「圧がかかっても嫌だから二人には待っててもらう。こっちで話そう」と言って屋上を進んでいく。
俺は戸上を追う。むき出しコンクリートの地面を踏みしめて歩く。コンクリートが粗いから上履きのゴムが削れてしまいそうだ。
屋上の真ん中辺りで足を止めた戸上は俺を振り返った。俺も足を止めて戸上を睨む。
「それで、精算したいっていうのはなんですか」
「その前に、ちょっと聞いてくれないか。最近あった興味深い話なんだ」
戸上が端正な顔に笑みを貼り付けて両手を広げる。うんともすんとも言わないでいると、彼は勝手に話し始めた。
「『大した力もなくて、普段は長いものに巻かれているような人間』っているだろ。……俺はそういった人間を取り込んでは味方につけてきたんだ」
広げた両手を下ろしてから、右手で自らの頭をつつく戸上。
「彼らは一様にわかりやすい価値観で動いている。『自分のため』という価値観だ。自分が得をしたい。自分が助かればいい。自分が楽できればいい。他人がどうなったって知ったこっちゃない。……非常にシンプルだ」
そして、彼は頭を突いていたその指を俺に向けた。
「でもね、最近会った『そいつ』は、『大した力もなくて、普段は長いものに巻かれているような人間』なのに、『自分のため』じゃなく『誰かのため』を優先して、俺に歯向かったんだ」
ふ、とため息交じりに笑い、戸上はズボンのポケットに手を突っ込む。
「そんな人間がいるなんて俺には不思議でね。本当に『誰かのため』を優先できるのか試してみたいんだよ」
「……試す……?」
「そう。ちょっとした好奇心を慰めるための、ちょっとした調査だ」
戸上がポケットから手を出す。その手には小さな封筒が一つ。彼は俺に近づいてきてそれを差し出してきた。
……何だというのだろうか。だけど、受け取らなければ話が進まなさそうだ。
俺は恐る恐る戸上の手から封筒を取る。「中を見てくれ」と戸上。俺は言われるままに中に入っているものを取り出す。数枚の紙が入っている。どうやら写真のよう――。
「――何だよ、これ」
俺は手に持っていた数枚の写真を一目見て、すぐにぐしゃぐしゃに丸めた。
……被写体は、はだけた制服の、半裸の前田さんだった。
「今のケータイって解像度高いよなあ、久喜」
戸上の言葉で思い出す。前田さんが暴行されかけたあの事件の時、たしかに彼は携帯を弄っていた。多分、その時に撮ったんだ。
待てよ。この事を、前田さんは知っていないはずがない。
「そうか。前田さんが、俺とユウスケを止めたのは……」
頭の中で点と点がつながる。前田さんは戸上に脅迫されていたんだ。だから俺とユウスケが教師に対して戸上の話をしようとするのを止めた。
……でも、何故その写真を俺に見せるんだ。意味がわからない。そこまでは頭がついていかない。
「……目的は何だ? これを俺に見せてどうすんだ?」
戸上がわざとらしく怯える素振りを見せる。
「怖いなあ。敬語すら使ってもらえなくなっちゃったね」
「……戸上!」
語気を強めると、彼は白けた目をしてポケットから携帯を取り出す。
「目的、ね。脅迫ってのはどうかな?」
「ふざけ――」
「――真剣だよ。『この写真をばらまかれたくなかったら――』ってやつだね」
言いながら戸上の雰囲気が、背筋の凍るような『あの』不愉快さへと変容していく。
俺はやっとの思いで固唾を呑みこむ。
「何で俺を……脅すんだ」
「俺の話を忘れるのが早すぎるな。……俺の目的はお前だよ、久喜」
戸上は出していた携帯を開きながら悪意に満ちた口元を歪ませる。
「俺に対して『誰かのため』に歯向かってきたのは初めてでさ。どこまでなら『誰かのため』を優先できるのか……知りたいんだよ」
「……俺が、その脅しに乗ると思うのか? 友達の恋人なんてほとんど他人だぞ」
「その『他人(だれか)のため』がどの程度のものなのかを見てみたいんだ。丁度いい。逃げたいのならばさっさと逃げ出せばいいさ。データはバラ撒くけどね」
戸上が開いた携帯の画面をこちらに向けてくる。その液晶には、あられもない姿の前田さんがはっきりと写り込んでいた。
……逃げ出すわけにはいかない。ユウスケの、前田さんに対する想いは知っている。要求に応じつつ、どうにか隙を突いて写真のデータを取り返すしかない。
「何をすればいい? どうすれば写真を消してくれる?」
訊くと、戸上は携帯を閉じて、片手を空に向けて伸ばした。
「それは、これから考えるよ。でも――」
背後から、屋上の扉が乱暴に開けられた音がした。振り返ると数人の男子生徒たちがぞろぞろと屋上になだれ込んできていた。
「――まずは立場をわかってもらわないと、ね」
戸上はそう言うと、屋上に入り込んできた男子生徒たちの方へ歩いていった。
「ま、今日は初日だ。優しくやってくれ」
彼の言葉に、生徒たちが軽くうなずく。その顔を見て俺は気づく。
……こいつら、部活の先輩たちだ。
「久しぶりだなぁ久喜ぃ」
「あー。今日のテストでイライラしてたんだよねー」
「服で隠れる所にしとけよ」
「テスト期間で運動不足だったから丁度いいな!」
先輩たちが口々に言いながらじりじりと近づいてくる。十数人もいる。拳を鳴らしている。
「……は、はは」
乾いた笑いが出た。彼らは俺を袋叩きにするつもりだ。
呼吸が早くなる。目に涙が溜まる。
……それでも俺は、逃げ出すわけにはいかないんだ……。
「それじゃ、はじめっか!」
先輩たちの内の誰かが、部活動開始のときのように景気よくそう言った直後、俺は脇腹を蹴られて粗いコンクリートに倒れた。
○
寒さを感じて目が覚めた。
仰向けで倒れていたから目を開いたらすぐ視界に夏の星空が飛び込んできた。
「……いってえ……」
身体中に打撲傷が出来ている。口の中に鉄の味が広がっている。
身に付けているのはパンツだけ。夏だとはいえ夜に屋上でパンツ一丁で寝てたらそりゃ寒いはずだ。
「……はあ」
力が入らない。
這うようにして屋上の隅まで行くと、フェンスにつかまってふらふらと立ち上がる。近くの地面に制服が綺麗に畳まれて置いてあった。制服が汚れるとバレるとか何とか言っていた戸上の指示で脱がされたんだっけ。
ひとしきりのリンチが終わった後、その去り際に戸上は、俺が彼の命令に従う限りは前田さんの写真はばらまかないと言っていた。確証は無いけど、信じる以外に方法はない。
グラウンドから野球部が練習している声が聞こえる。こんなに暗くなるまでご苦労様だ。
「ああ、いったいな」
制服を着ると、傷は全部隠れた。顔にも一発入ったはずだけど、腫れてはいない。多分、俺から訴えなければ誰にもバレない。器用にも、そうなるように彼らは計算してやってるんだ。
時間が気になって携帯を取り出す。時刻は十九時を回っていた。幾つかの着信も入っている。全部ユウスケから。メールも一件。先に帰るとのこと。
電話帳を見た。藤谷カズトのところで指が止まる。
「……う、うう」
この前の事件の時のように助けて欲しい。でも駄目だ。駄目なんだ。俺が助かるために告げ口したら、ユウスケたちの幸せはなくなってしまう。彼らを守れるのは俺だけだ。
発信するかしないかを葛藤していたら携帯の電池が切れそうなことに気づいてそのまま閉じた。
俺は意志の弱い人間だ。自覚はある。少しでも油断したら簡単に口を滑らせてしまうだろう。だから、少なくとも、戸上の持つあの画像を消すまでは、耐えなくちゃいけない。
しっかりと自分を戒め、携帯をポケットへしまう。
同時に、財布が入ったままであることに気づく。慌てて中身を確認したが、意外なことにそのままで手をつけられていない。目的は金じゃないんだ。
純粋にただ、俺に対して殴って蹴っていった。純粋にただ、俺をいたぶっていった。目的はあくまで、戸上の好奇心を満たすための『調査』。
「……く」
緩みかけた涙腺を誤魔化すように袖で強めに目を擦る。
泣き出しそうになる気持ちを落ち着けてから荷物をまとめて、家へ帰るべく屋上のざらついた地面を歩き始める。歩く度に身体中が痛んで力が入らない。屋上の重い扉を開けるのには一苦労した。
途中の水道で顔を洗った。涙と鼻水の後が凄かった。うがいをすると、赤色の混じった水が出てきた。口の中が切れている。
それから家に帰って、何でも無いように夕飯を食べて、普段通りにテレビを見て。
家族が寝てから何食わぬ顔で風呂に入って、湯船に浸かりながら俺は耐えられなくなって、独り静かに泣いた。
○
翌朝。身体中の痛みに耐えながら学校に来て、教室の席に着いたら元気に肩を叩かれた。
「おっす輝!」
「いっ!」
痛みに顔をしかめてしまう。服で隠れてはいるものの、ちょうど大きい痣の出来ている場所だった。
涙目になりそうになりながら、叩いてきた手をたどって隣を見るとユウスケが不思議そうにしていた。
「……どうした?」
昨日の屋上の出来事。ユウスケに言ったら俺のことを心配してくれるだろうか。……とんでもない。決着がつくまでは隠し通すしかない。
俺は慌てつつも出来るだけ自然に笑みを浮かべる。自然な笑みを意図的に出せるほど器用じゃないから不安だけど。
「ああ、いや、ちょっとビックリした。それだけ」
「そうか? ……ああ。そういや昨日どうしたんだよ? 電話しても出ないしさあ。……石田のことで何かあったか?」
「いや、それは……」
昨日は余裕が無くて言い訳を考えてなかった。まずいぞ。
「二人に、気を遣ったんだろ?」
突然割り込んできた声の方を振り返る。すると、新山さんがいた。彼女がどういうつもりで声をかけてきたのかはわからないけれど、ありがたい横入りだ。
俺は便乗してうなずく。これもなるべく自然に。
「ま、そんな感じ。昨日は部活もなかったし、ユウスケは前田さんと二人で帰るのかなって。そこに邪魔者が入るのもアレだなと思ってさ」
「えー、でもユミは『三人でもいいよ』って言ってたぞ」
そんなことをいうユウスケに対して呆れ顔で新山さんはため息をついた。
「女心がわかっていないね。そんな様子だとフラれるぞ?」
「ぐっ……。輝と同じようなこと言いやがって……」
ユウスケはそう言って悔しそうにする。新山さんが柔らかい笑みを見せて、俺もつられて笑う。
それから新山さんはふと俺に向き直った。
「ああ、そうだ。久喜君、ちょっといいかな」
「え、俺に用? ……まさか、また英語の課題?」
「そんな感じ。じゃ、久喜君は借りてくから」
失恋中ではあるものの、想い人と話せるとなって呑気に嬉しくなる自分の浅ましい心が情けない。
俺はユウスケに「じゃあユウスケ、そこで反省してろよ」と軽口を叩く。「はいはい」とやる気のなさそうな返事が聞こえてきたのを確認し、俺は新山さんについていった。
「課題、駄目だった?」
俺と新山さんは廊下に出た。廊下には他の生徒もいるが、朝の喧騒の中なら大声を出さない限りは聞こえないだろう。
周囲を確認して盗み聞きしている輩がいないことを確かめると、新山さんが言いにくそうに口を開く。
「ごめん。課題の話は嘘。それより……さっき赤田君に肩を叩かれて、君は凄く痛そうにしてたのが、気になって」
心臓が跳ねる。……まさか、昨日の屋上のことを知っているのか。……いや、彼女は物事をはっきりという人間だ。確証はないのだろう。
落ち着いて、対処しよう。
「ん、ああ。昨日、テストも終わったし、久々に運動がてら筋トレしたから全身筋肉痛で」
笑いながら誤魔化す。すると新山さんが突然胸元の辺りを軽く小突いてきた。
「いっ……!」
思わず声が出る。新山さんはため息をついた。
「胸骨の周りが痛くなる筋肉痛って、一体何やったの? 石田と、何かあったんだろ?」
責めるような新山さんの目付き。だが、彼女が戸上のことを察したわけではないことがわかって俺は少しだけ安心した。
「いや、何もなかったよ。本当に」
胸を張って堂々と答える。石田『とは』何もなかったのは本当だ。嘘はついていない。
新山さんも俺が言っていることに嘘がないと理解したのか、なんとも言えない顔をしている。
ただ、その表情から、彼女の中の疑いが晴れていないのを感じ取った俺は少し話を付け加える。
「……でも、筋トレ中にちょっと足滑らせて肩とかあちこちぶつけちゃったけど……」
言うのに併せて自然に笑みを浮かべた。
それが良くなかったのかもしれない。新山さんが再び眉をひそめる。
「久喜君は、あんまり嘘笑いが得意じゃないから気をつけたほうが良いかもね。……その顔、さっき赤田君にしていたのと一緒」
……感の鋭い人だ。
だけど、そうやって心配してくれるから。……そうやって、俺のことを見てくれるから、好きになってしまったのかもしれない。
「えっと……」
もう、話してしまおうか。意志の弱い俺の脳裏にそんな気持ちがよぎる。
新山さんに相談したって、戸上には分かるはずもない。事情を話したら新山さんも黙っていてもらえるはずだ。戸上の携帯から前田さんの写真を消すための方法だって、俺一人で考えるよりも良いはずだ。
どう切り出したものか、次に繋げる言葉を迷っていると、新山さんは、ずい、と一歩近づいてきた。
「久喜君。カズトくんに相談しよう。彼なら上手く解決してくれる」
心配そうに新山さんが言ってくる。
「藤谷、か……」
本当に新山さんは、藤谷を信用してるんだな。……いや、好きなら当たり前なのか。
何故だろう。腹から濁った感情が生まれてきた。理由はわからない。だけど、これは知ってる。
これは、悔しさである。そして……これは、『嫉妬』だ。
「……いや、いいよ新山さん」
「え……なんで」
目の前で新山さんが動揺する。俺が藤谷に頼るとばかり思っていたんだろう。
事実として、俺は昨日の屋上での出来事の後、藤谷に頼ろうとしかけたし、上手くバレないで他の人に頼る方法も頭の中では考えはじめていた。
でも、新山さんが俺に、藤谷に頼ることを勧めてきた瞬間、考えが変わった。
意地でも藤谷に頼りたくない。
俺は打ち明けようとした気持ちを引っ込めて、代わりの言葉を紡ぎ始める。
「自分で解決できる。……藤谷に、藤谷なんかに頼らなくたって。俺だって、ちょっとくらいは」
「でも!」
「……俺は!」
つい熱くなって、声が大きくなる。お互いに。
俺はもう一度周囲を確認した。ありがたいことに廊下の他の生徒たちは俺(たにん)と彼女(たにん)の会話なんて目もくれない。
誰も聞いてないことをしっかり確かめてからまた新山さんに向き直り、口を開いた。
「……俺は。藤谷カズトに比べて、そんなに頼りないか?」
「……それは」
「ちゃんと出来る。……新山さんは、俺を凄い人だって言ってくれただろ?」
今度は新山さんが口を閉じて答えあぐねている。何度か「でも」や「だって」と言いかけて、その度に新山さんは言葉を続けられずに口を閉ざす。
それにしたって俺も良く言ったもんだ。『頼りないか?』。……そんなの頼りないに決まっているだろう。自分でもわかっている。
それでも新山さんが俺に優しくしようとするかぎり、新山さんは俺を『頼りない』と切り捨てるなんて出来ない。……そんなことが出来る人じゃない。それもわかっている。
俺は、卑怯だ。
それでもやっぱり、嫌なんだ。前田さんの写真のこともあるけど、それとは関係なく、藤谷を頼りたくなくなった。
それは『嫉妬』というくだらない感情のせいだろう。でも、頼るくらいなら……。殴られる方がマシだとすら思える。
何も言えない新山さんの代わりに俺が口を開いた。
「……そういう事だから。この事は藤谷にも……他の人にも、絶対に言わないで。もし言ったら……」
この先は言ってはいけない。言っちゃいけないけど……。
「……うん。……失望、するよ」
それから、俺の日常に孤独な戦いが加わった。傷が癒えないままの今日も、戸上に命令されて屋上へ赴くことになっている。
戸上の目的は俺でストレス解消することじゃない。俺を痛めつけることだ。俺に痛みを与えることだ。そして、彼の好奇心を埋めることだ。
それが終わるまで。もしくは、俺が自力で前田さんの写真を取り戻せる時が来るまで、俺は屋上へと続く階段を登り続ける。
自らの足で。自らの意志で。
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