それでも彼は、価値を欲した(1)

 あの頃のことは良く覚えている。忘れもしない……いや、忘れることが出来ないと表現した方が正しいんだろう。


 それは前田さんが佐藤と斉藤という二人組によって暴行されかけたあの事件から数週間後だったように思う。

 周囲が慌ただしく準備を始めた期末テストも残すところ二科目となり、もう半分気の抜けたようになってしまっていた俺たちは来る夏休みの計画なんかを呑気に話していた。

 そんな計画、無駄だったのに。本当に、無邪気に。


 それは、テストが終わったあの日から始まった。



 高校一年生の七月下旬の話だ。


 本格的な夏が始まっていたその日。窓を閉めていても外でセミがうるさく鳴き喚くのが聞こえてくるような日だった。

 ヒートアイランド現象というのか、現代の暑さには――過去の暑さを知っているわけではないが――辟易してしまう。そんな暑さを直に受けながらテストの問題なんて解けるわけがない。テストより先に俺たち生徒自身が溶けてしまう。

 だから教員も仕方ないと踏んだのか、エアコンで冷房を入れてくれた。夏だというのに窓が閉められているのはその為だった。


「やっと終わった……」


 俺は大きく伸びをしてから机に突っ伏す。

 ここ数週間、ちゃっかりしっかり勉強していた俺は期末テストを全て危なげなく乗り越えることが出来た。おそらく全教科平均以上は狙えるだろう。

 得意な教科なら十段階評価中の八や九を狙えるぐらいには点数も取れているはずだ。


 ……前回の中間テストの頃の俺はこんなにしっかりと勉強なんてしていなかった。ただ今回は、部活を辞めて暇だったから勉学に励む時間が出来た。

 前田さんのあの事件の日、そのまま佐藤と斉藤は退学処分となった。その後戸上にも追及の手は伸びたものの、――どう逃れたのか知らないが――お咎めなしだったらしい。もしかしたら、彼の普段の生活態度や、部活での功績、学力なんかも考慮されたからかもしれない。

 戸上は何も知らない人間(きょうし)にとっては、優秀な生徒なのだ。


 だから俺は、例の事件のあったその日にそのままその足で部活動の顧問を行っている教師に退部届を提出した。

 戸上は部員からの信頼が厚い。そんな存在に歯向かった俺がその部活でやっていけるわけがないと思ったからだ。

 数ヶ月とはいえ取り組んできた部活動に未練がなかったわけではないものの、状況が状況だけに後悔はしていない。それよりも俺は別のことで少し気持ちが沈んでいた。


「……はあ」


 俺は横目で新山さんの席を一瞥する。筆記用具を鞄にしまう彼女の姿を見てからまたため息をついた。

 新山さんは藤谷のことを想っている。そしてきっとそれは、俺の新山さんに対する想いなど太刀打ちできないほど大きなものだ。

 ……よく考えれば、今までの新山さんの様子からでも充分に察することができたのだろう。体育祭のときから、彼女は藤谷のことを気にしていた。確信したのは前田さんの事件の終わり。彼女が藤谷のことを話す時の表情を見て、だ。

 その後、叶わぬ片思いに沈んでしまう気持ちから目をそらすために手をつけたのがテスト勉強だった。部活動に専念することもなくなって、それなりに余った時間を使って地道にテストの対策をした。

 それでもテストではわからない問題がいくつかあった。時間もモチベーションもあったのに追いつけないということは、やはりこの学校は俺の学力よりも断然上の場所なんだろうなと思う。


「おーい。輝ー。何ボーッとしてんだよ」


 とりとめなく考えていた俺の目の前に、ユウスケが現れる。彼は手を振りながら話しかけてきていた。


「ん、あ。いや、別に」


 俺は考えごとを中断して笑ってみせる。ユウスケは大きくため息をついてしゃがみ込み、俺の机にだらりと伏しながら言う。


「むあー。何か期末は輝はヨユーそうだなー。俺なんてちょっとしか勉強してないからやべーよ……」


 それはやばいだろうな。

 先程見せた笑みを苦笑に切り替えて、俺はユウスケを励ますことにした。


「まあまあ。でも、前田さんにノート貸してもらったんだろ?」


 彼がテストとテストの間の休み時間に、必死に前田さん謹製のテスト対策ノートを読みまくっていたのは見ていた。


「まあそうだけどさー。……あれ無かったら答案真っ白になってた……」


 学生の本分とは何か、と問い詰めたくなるような恐ろしい言葉をさらりと言いながら、ユウスケは遠くの席で他の女子と談笑する前田さんに向かって両手をあわせて拝む。冗談のような仕草ではあるものの、本心から感謝しているんだろうというのは感じ取れる。


「……そんな情けない姿ばかり見せてたら、フラれちゃうかもよ」


「ええ! それは困る!」


 ユウスケが悲壮感たっぷりの表情をしたので、俺は再度苦笑した。


 あの事件の後、佐藤と斉藤が退学になって、俺が部活を辞めて、俺がひっそりと失恋した。でも変わったことは、もうひとつある。

 ユウスケが前田さんと付き合い始めた、ということだ。

 藤谷と山吹さんが佐藤と斉藤を職員室に連行した後、俺は新山さんによって多目的室の外に引きずり出された。そのタイミングでユウスケが前田さんに告白したんだとか。


 俺は失恋して、ユウスケは大成功。勝ち負けじゃないけど、なんか負けた気分だ。……幸せそうで、良いんだけどさ。


「おい、久喜」


 後ろから突然名前を呼ばれて振り返った。短髪の男子が……石田が突っ立っていた。

 彼は俺に対して悪い印象を持っている。体育祭が原因だった。あれから大分時間は立っているものの、未だに彼とはまともに話したりすることがない。

 お調子者で誰とでも仲良くできる石田は、藤谷や山吹さんとは別軸でクラスのムードメーカーになっている。おかげさまで、自然と俺のクラス内の立ち位置は悪くなりがちなので、俺としても石田のことを好意的には思っていない。

 お互い嫌い合っているという意味では綺麗な両想いである。こんなところで両想いになっても仕方ないことこの上ないが。


 そんな石田がわざわざ話しかけてきたので、俺は目を丸くする。素直に珍しいし、単純に驚いた。


「……何?」


「話がある。部活も辞めたんなら今から時間作れるだろ?」


 石田は普段の喧しさとはかけ離れた冷淡な話し方でそう言って、教室の前の廊下を目線で示す。


「外で話したい」


「ちょっと待てよ」


 石田を振り返っている俺の後ろからそう言って、ユウスケが割って入ってくる。


「輝に文句でもあんのか? それなら俺もついていくぜ」


「落ち着けよ、赤田。別に喧嘩をしに来たわけじゃない。ただ、このまま久喜と変な空気のまま夏休みに入っちゃうのが嫌なだけだ」


 石田の釈明に対し、直感的に『嘘をついている』と思った。それでも俺は席を立つ。ユウスケに「一人で大丈夫」と告げてから石田に向き直った。


「外だよな。荷物まとめるから廊下でちょっと待っててくれ」


「……わかった。あんまり待たせるなよ」


 石田は納得し、先に教室を出ていく。俺もその後を追おうと荷物を鞄に入れ始めていると、ユウスケが俺の鞄を掴んできた。


「本当に、大丈夫か?」


 彼の表情から、俺のことをいたく心配してくれているのを感じながらも俺はうなずいた。


「問題ないよ。たとえ何かあっても明日は終業式。夏休みの間に有耶無耶になって終わるさ」


「……りょーかい。輝がそこまで言うならしょうがない。でも、何かあったら連絡くれよな。借りがあるんだ。ちゃんと返すぜ」


「ありがと。そんときゃ利子つけて返してもらうことにするよ。……じゃ、また明日」


 鞄から手を離したユウスケに手を振って、俺は教室の外へと出る。廊下には下校やテストの打ち上げの待ち合わせをしている生徒たちがいて賑々しかった。その中に携帯を弄って待っていた石田の姿を見つけ、声をかける。


「待たせた。……それで、どこで話すんだ?」


 石田は俺に気がつくと携帯を閉じてポケットにしまい込みながら廊下を歩き始める。


「とりあえず、こっち」


 簡素な言葉。俺は無言でうなずいて石田の後についていく。

 会話の一つもなく歩いていく石田と俺。いくつかある教室を通り過ぎ、渡り廊下までやってくると同世代の少年少女たちのかしましい声も遠くなっていった。

 引き続き歩を進めながら石田がこちらを見向きもせずに話し始める。


「俺が言えたことじゃないけど、良く俺についてくる気になったな」


「……ああ。まあ、別に」


 なんとも言えない相槌をうち、俺は会話を濁す。

 怪しすぎる石田の誘いに俺が乗ったのは、衝動的なものだった。今日をもってテスト期間が終わり、部活もない俺には空虚な時間が待っている。そして、自由な時間があればまた新山さんのことを考えてしまい、悶々とするのだろう。それならばいっそのこと、なにか起こってくれないかとすら期待している部分もある。

 ……要するに、投げ遣りになっているだけだった。


「俺が通ってた中学には、一個上にちょっとした有名人がいたんだ」


 つれない返事をした俺に対し、石田が再び話し始める。二人きりで歩いているのに流石に適当に流すわけにもいかず、俺は「有名人?」と石田の話を促した。


「そう。有名人だ。俺がやってた部活の先輩でさ。色々あってその人には逆らえないんだよ、俺は」


 何の話だ?

 流れを掴めずに俺は黙ってしまう。すると、石田は渡り廊下の終わり際のところで足を止めた。


「悪いとは思ってる。けど、どうしようもないんだ。……久喜。何も言わず、このまま廊下を渡って、階段を登って四階まで行ってくれ」


 突然の謝罪と指示。怪しいことこの上ない。それでも引き返すことをしなかったのは、やはり俺が投げ遣りで、少しばかり自暴自棄だったからなのだろう。


「わかったよ。行けば良いんだな」


 俺は吐き捨ててから立ち止まった石田を追い越して廊下を渡りきり、階段に足をかける。石田には一瞥もくれなかった。

 今いる三階から四階まで続く階段をだらだらと登っていく。踊り場で折り返し、四階の方を見上げた。そこには人影が三つ。いずれも見知った顔だった。

 ――つい先日まで所属していた部活の先輩たちだ。そしてその中央にいるのは……戸上。


「やあ。ようやく来たね。久喜」


 戸上は『表の顔』でにこやかに話しかけてくる。俺は足を止めて絶句した。

 彼は前田さんの事件の主犯格だ。それなのに退学も謹慎もなく逃げ切った。俺とユウスケは抗議しようとしたが、事を大きくしたくないと言う前田さんの頼みで、さらなる訴えかけは取り止めたのだった。

 あれから部活の先輩たちを含めて戸上側の人間も俺たちに接触してくることはなかったので、随分久しぶりの邂逅となる。


「どうした、久喜。早く上がってこい」


 立ち尽くす俺に戸上が催促する。

 石田の言っていた一個上の先輩というのは彼のことだったのか。いずれにせよ、ここで突っ立っているわけにもいくまい。

 俺は唾を飲み込んでから、四階まで階段を登りきった。


「何か、用ですか」


 端的に疑問を伝えると、戸上は薄ら笑いを浮かべる。


「先輩相手に随分な態度だな」


 冗談っぽく彼は言う。その様子に俺は腸が煮えくり返るような気持ちになった。

 前田さんに対して最低な事をした人間が、よくもこんなに飄々としていられるな。


「……敬語使ってるだけでも、褒めてほしいくらいですが」


 怒りのままに言葉を吐く。戸上の両脇にいる先輩が顔をしかめた瞬間、戸上が片手を上げてそれを制する。


「まあまあ。……『あれ』から、結構な騒ぎになったからね。名門進学校の生徒が不祥事を起こして退学者が出た、なんて、中々無かったみたいだし」


 そして戸上が上げていた片手の人差し指を上に向けた。


「色々と精算したいんだ。少し屋上で話そう。どうかな」


 提案されて、俺は黙り込む。そして、戸上とその両脇を固める先輩を順番に見た。

 どうかな、も何も、逃げ出せるような状況じゃない。ここは屋上で話をする以外はなさそうだ。

 俺は観念して戸上をにらみつける。


「わかりました。行きます」


 そして俺は、四階から更に上……屋上につながる階段を登っていった。

 これ以降、何度も登ることになり、そのたびに苦痛を味わった屋上。その最初の一回目が始まろうとしていた。

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