そのとき彼は、想いを抱いた(2)

 体力テストの時に作ってしまった傷は浅く、血さえ完全に止まってしまえば痛みも我慢できないほどでは無い。ましてやあれから二日も立てば傷自体もふさがってくる。

 そんなある日の六時間目が終わり、ホームルームが始まってからの第一声は山吹さんのものだった。


「では、体育祭の子細についてを決めよう」 


 黒板の前に立ち、やけに堅苦しい言葉使いをしている彼女。昼食時に藤谷にちらっと聞いたところによると、彼女の家は古くから続くお家柄であり、四民平等となったその後もしっかり商売を成功させた由緒正しいお金持ちらしい。

 とはいえ、それがどうして浮世離れした言動につながっているのかは謎だし、そんなお嬢様がド平民の俺も通うような公立高校にいる理由も良く分からない。普通、そういうやんごとなき人間はそれなりの私立学校にいるものじゃないだろうか。

 まあ、気にしてもしょうがないことだ。俺が彼女と直接関わることもないだろう。


「まずは各人が出場する競技だが……カズト」


 彼女はその隣に突っ立っている藤谷の名を呼んだ。藤谷は「はいよ」と面倒くさそうに返事を返し、チョークを持って黒板に向かった。

 大きく書かれる『体育祭競技決め』という議題。その下につらつらと競技名やその定員を書き加えていく。楷書の上手な文字だ。この男に弱点はないのか。


「体育祭か……」


 中学生の頃は秋に執り行われていた気がする。それを考えるとこの高校は随分と早い時期に設定されてるんだな。

 春に執り行うというのは学校側にも何か意図があるのだろう。クラスの団結やまとまりを早い段階でつくることを考えて、なのかもしれない。

 ぼうっとそんなことを考えていたら隣の席のユウスケが俺の方へ身を乗り出してきた。


「オイ、輝」


「どした?」


「どの競技出る?」


「あー。うーん」


 俺は黒板に書いてある種目にざっと目を通す。

 確か、体育祭は全員競技と個人競技に分かれている。今年の全員競技は全員リレーで、それとは別に、いくつかある個人競技から最低一つへの参加が必要だ。これからその選手を選んでいこう、というのがこのホームルームの議題なのだろう。

 個人競技の欄には、徒競走、玉入れ、大縄跳び、綱引き、大玉転がし、その他諸々……と、定番の種目名が並んでいる。

 俺はというと、何が一番責任が少なくて楽だろうか、なんてことしか考えていなかった。

 入学してから一応運動部に所属し始めたし、ユウスケ程ではないが、足の速さに全く自信が無いわけじゃない。それでも平均よりちょっとマシ程度のものだ。それだったら……そうだな。


「玉入れ、にしようかな」


 綱引きや大縄跳び、徒競走やらは練習が発生しそうだ。体育祭程度のことで必死に努力するのも馬鹿らしいし、道具の調達に苦労しそうで練習が無さそうかつ、人数も多くて責任も少なさそうな玉入れが最適だろう。

 俺がそんなふうに考えていることを知ってか知らずか、ユウスケも「俺もそうしよ」などと同調してくる。


「では、順に集計をとっていこうか。まず、玉入れに出場したい者は……」


 山吹さんの言葉に即座に反応して俺とユウスケは手を挙げる。しかし、俺と同じような考えのやつが多いのか、挙手してる人は定員以上にいた。

 男女合わせて十人の枠を巡って、目算で十五人もいる。なんて熱意のない連中だろう。


「ふむ。多いな」


 山吹さんは困った顔。さて、これをどう捌くかが学級委員の見せ所――。


「仕方無い。公平にジャンケンだ」


 ――そんな馬鹿な。


 そして、その五分後の教室にはあえなく散った俺とユウスケ他数名が存在していた。

 残った気楽そうな競技も次々取られていき、最後に余ったのは二百メートルの短距離と五キロメートルの長距離。

 ……長距離は絶対に避けたい。せめて短距離を……。


「長距離は俺がやろっかな」


 手を上げたのは一人の男子生徒だった。藤谷や俺よりも背は低いが、短く整えられた髪の似合う運動が得意そうな男。彼の立候補に誰も反対することはなく、藤谷が黒板に名前を書いていく。

 石田タクマ。幾つかあるクラスのグループの中でも所謂『一軍』と呼ばれるようなところにいて、その中心人物でもある。そういった人物の例に漏れず、彼はサッカー部だったか。

 藤谷は引き続き、残る二百メートル走に名前を書いていく。消去法で男子三人の名字が記される。

 久喜、赤田、そして……藤谷だ。


「これで全員かな」


 藤谷がそう呟いたタイミングで教室のドアが開いた。そこから黒いスーツを着込んだ若い大人の女性が現れる。


「出場種目は決まった?」


「はい。たった今無事に決まりました。冴島先生」


 黒板の近くに立っていた山吹さんが代表して答える。「ずいぶん早く決まったな」と満足気に微かな笑みを浮かべているスーツの若い女性が、このクラスの副担任にあたる冴島先生だ。

 気の強そうな眼差しと、暗い茶髪を後ろにまとめた髪型――シニヨンと言うんだったか――が特徴的だ。

 彼女は手を二度鳴らし、教室中の生徒の注目を集める。


「体育祭の種目も決まったしもう帰っても良いぞ。では解散。また明日。山吹は決まった種目を後で職員室に伝えに来てくれ」


 恐ろしいことに彼女はそれだけ伝えて教室を去っていってしまった。

 ……ずいぶんと、荒っぽい先生だ。

 確か新任の教師だと自己紹介していたから二十代前半だろう。だが、その堂々とした佇まいからは初々しさなど感じない。さっきの行動の通り、冴島先生は見た目の可憐さとは裏腹に竹を割ったような性格だ。そこが人気なのかはわからないが、早くも年上好きの男子から人気票を集めている、とユウスケに聞いたことがある。

 ……まあ、そんなことはどうでもいいか。ホームルームは解散と言ってたし、俺もさっさと部活に行こう。

 そうしていそいそと部活の準備をし始めていた俺の所に藤谷が来て、声をかけてきた。


「な、久喜。この後、空いてるか?」


「いや、これから部活なんだよ。ごめん」


 俺が謝ると藤谷は少し困った表情で「そういえばそうだったな……」と呟いた。


「……あー。じゃあさ。部活の後はどうだ?」


 部活の後か。確かに用事は無い。けど……。


「えーと……。空いてるけど、どうしたの?」


「ああ、二百メートルの練習、かな。ユウスケはもう誘っといた。……『あいつ』が練習するって聞かなくてさ。来てくれると嬉しいんだけど」


 顔の前で手を合わせる藤谷。話を聞くところ山吹さんに無理矢理命令されたようだ。

 普段の藤谷と山吹さんの間には何か主従関係見たいなのが見え隠れする。今回に限らず、藤谷が面倒事に巻き込まれるのは幾度も見ていた。でも、藤谷も嫌とは言わない……どころか、どこか楽しそうにしているのを俺は知っていた。

 練習は面倒だから嫌だけど、部活の後ならそこまで長い時間にはならないだろう。それに、友人である藤谷の頼みだ。


「そっか。……わかった。俺も行くよ」


「本当か! ありがとう、助かるよ!」


 嬉しそうに笑みを見せる藤谷に毒気を抜かれ、俺もつい口元を緩めてしまう。

 こうして、俺は部活の後に二百メートル走の練習をすることになった。



 高校にほど近い夜の公園。街灯が周囲を明るく照らす。まだ、夜は肌寒さを感じる季節。

 そんな公園にあるグラウンドの一角で、しなやかなバネのある筋肉が藤谷の体を強かに運んでゆく。陸上種目に造詣の深くない俺でも、彼のフォームを見て美しいとすら思ってしまった。


「速え……」


 本心からのつぶやきだった。

 俺とユウスケ、藤谷。そして言い出しっぺの山吹さんを含めた四人で短距離走の練習は始まった。部活が終わった後でへとへとになっている身体を引きずって来ている俺は気だるく思っていたのに、藤谷の実力に目を見張ってしまった。

 彼が走る姿を見たことがなかったのは事実だ。体力テストで彼が走っていた頃には俺は保健室で休んでいた。


「なあなあ」


 ちょいちょいと俺の肩を叩いたのは、藤谷が走るところを俺の隣で並んで見ていたユウスケ。横顔から動揺が透けて見える。


「俺、結構足に自信あったんだけど、……数秒前までは」


「ここまで差があると、比べないほうが幸せかもな」


 それくらいしか、掛ける言葉が見当たらない。それほどに速かった。タイムは知らないが陸上部ならそれなりの記録を残せそうだ。

 藤田にはグラウンドのゴール地点を踏み、足から力を抜きながら俺たちのいる場所へと小走りで戻ってくる。近くまで来て「本気で走ったのは久しぶりだなー」と照れたように笑うさまを見て、俺は引きつった作り笑いを浮かべた。

 この男、『本気で走ったのは久しぶり』と来た。日々鍛えてるというよりは、天性の才能によるところが大きいのかもしれない。


「うむ、ご苦労。やはりカズトが一番速い、か」


 手にストップウォッチを持ってタイムを計っていた山吹さんが戻ってきた藤谷を労う。表情は変わらずで、まるで『当たり前のことである』と言わんばかりだ。

 そして彼女はユウスケに視線を遣った。


「その次に速いのは赤田か。タイムは申し分ないが、フォームが大雑把だな。筋力に頼りすぎだ」


「うへぇ……だって俺陸上部じゃないもん」


 ユウスケがオーバーに嫌そうな顔をして言い訳を放つ。山吹さんは彼の主張を無視して「カズトに教えてもらえ」とだけ付け加える。そして、次は俺を見据えた。顔の動きに合わせて黒い髪がゆらりと踊る。


「久喜は……平凡だな。フォームは赤田よりマシだが、そもそもの筋力が足りない。走り込みが必要だ」


 酷評である。しかし、ここで歯向かうのも無駄な労力に思えて俺は「部活のついでに走っとくよ」とだけ返す。山吹さんは俺の適当な発言の真意を探るようにじっと睨んできたが、二秒ほどで目を閉じてため息をついた。


「そうすると良い。……赤田はこれからカズトのフォームを参考にしながら練習を続けるぞ」


「待った待った!」


 ユウスケが両手を軽く突き出して首を横に振る。


「俺はもう疲れたっての! まだ本番まで時間あるんだから明日でいーじゃないのよ。暗くなってきたし」


「む……」


 不服そうな山吹さんだったが、藤谷もユウスケの意見を援護するように話に入ってきた。


「俺も赤田に賛成だ。桜華もそろそろ帰らないと不味いだろ?」


「むむ……」


 彼女は腕時計を確認し、眉をひそめる。そこへ藤谷が更にもうひと押し。


「……親父さん、怒るんじゃないか?」


「むむむ……」


 そしてあからさまに拗ねているようなため息をついて、彼女は「そうだな」と渋々認めた。


「では、今日はここまでとしよう。カズト、帰るぞ」


「わかってる。……久喜と赤田も帰るだろ?」


 藤谷に訊かれ、俺が『そうする』と答えようとした時、かき消すようにユウスケが「俺らはもうちょいダラダラしてから帰るわ」と笑いながら答える。

 何を言っているのかと驚いて彼の方を見たら片目で瞬きして合図を送ってきた。どんな意図かは知らないが、付き合ってやろう。


「そうだな。ちょっと疲れたしな」


 藤谷は俺とユウスケをやや訝しみながら「分かった」と言って頷いた。


「こっちから呼び出したのに先に帰って悪いな。……じゃ、桜華、行こうか」


「ああ……」


 藤谷に促され後編の出口へと足を向ける山吹さん。だが、彼女は一瞬俺を振り返り、何か訴えるような視線を送ってきたあと、何も言わずに藤谷と去っていった。

 ……確信には至らないが、言わんとしていることは感じ取れた。


「……苦手だな……」


 横にいるユウスケに聞こえないように、口の中で呟く。

 きっと彼女が訴えているのは至極単純なことだ。『努力をしろ』。これに尽きる。多分彼女は俺が体育祭のためにわざわざ練習する気など毛頭ないと気づいているのだろう。


「さて、と。これからどうする?」


 藤谷と山吹さんが公園から出ていって見えなくなって、ユウスケがそんなことを言ってきた。


「どうするって……。ユウスケが残るって言い始めたんだろ」


「ああ、あれは藤谷と山吹さんを二人っきりにさせるため……」


 いや、嘘だ。それだけじゃないはずだ。

 俺がユウスケに向き直ると、何も言っていないのに彼は早々に苦笑して白状し始めた。


「……というのもありつつ、輝、不機嫌そうだなーって」


「不機嫌……に見えるかな?」


「見える見える。山吹さんに酷評されてる時の顔、すっげえ無表情だったぞ」


 今度は苦笑ではなくからからと笑いながら指摘してきた。

 変なところで目聡いやつだ。……彼の言う通り、確かに愉快な気持ちではない。でも、誰だって酷評されればご機嫌ではいられないだろう。自分としては致し方なく思えてしまう。


「まあ、そうだとして……。それを聞くのが残った理由?」


「そう。そして、そのモヤモヤを晴らす方法を伝授しようかなと」


「……そんな便利な方法があるなら、ぜひ教えてもらいたいな」


 冗談っぽく肩をすくめた俺に対して、ユウスケが両の拳を胸の位置へ持っていって軽く上下に振る。


「自主練で走り込み」


「……自主練?」


「ああ! 部活が終わったらこの公園で走り込みだ! 体育祭まではまだ時間あるだろ?」


 確かに、それが普通の解決法だろう。一種の呆れを俺に対して感じていただろう山吹さんも見返せるかもしれない。

 ……だけど、それが何だというのか。世の中には努力とやらでどうにもならないことが多くある。例えば俺がいくら走り込んだところで、あまり練習のして無さそうなあの藤谷に勝つことは出来ないだろう。


「……やめとくよ。部活だけでも疲れちゃうしな」


「そっか……」


 ユウスケが上げてた両手を下げて、残念そうな顔をする。まあ、いくらそんな顔をされてもやる気の出ないものは出ない。俺は踵を返して公園の中に戻っていく。


「荷物とってくるわ。さっさと帰ろうぜ」


 逃げていると言われようが、無駄なことはしないほうが良いだろう。それよりも不愉快に思った自分の気持ちに蓋をしてあげるほうが、安上がりだ。

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