そのとき彼は、想いを抱いた(3)
山吹さんが主導する徒競走の練習があった翌日の朝のことだ。
電車通学の俺は運悪く電車遅延に引っかかり、一時間目の授業が始まるギリギリの時間に学校に到着した。
気持ちは逸るも筋肉痛が残っており走る気にはなれず、俺は堂々といつもの様に教室に入る。同時に始業のチャイムが鳴り、ざわめく教室の中で俺は自分の席についた。教卓に目を遣ると、既に我がクラスの副担任かつ英語の教師でもある冴島先生がいる。
俺は彼女と目が合ってしまい気まずさを感じつつ、隣の席で教科書を開いてお行儀よく授業の開始を待っているユウスケに視線を移して話しかけた。
「これはセーフかな?」
ユウスケは「どうかな……?」と視線を教室の前方へと向けている。俺がバツの悪い気持ちで再度前を向くと、冴島先生がまだ俺の方を見て……睨んでいた。
「随分と余裕のある出勤だな、久喜」
出席簿を持った冴島先生は、呆れた顔と怒りの視線を器用に両立させながら俺に話しかける。級友の視線も集まってきて、居心地悪くなる。
「……いや、電車が遅延してて」
「そうか。それでは遅刻と記載するのは止めておこう。……ただし」
冴島先生がその瞳をギラつかせて出席簿を教卓へと置いた。
「簡単な手伝いくらいはしてもらうか。昼休み、新山と職員室に来い」
「えっ、職員室ですか」
「ん? 遅刻のほうが良いか?」
有無を言わせぬ冴島先生の物言い。俺は彼女の言葉と、相変わらず集まってきているクラス中の視線に打ち負けて、渋々と頷いた。
「……いえ、喜んで馳せ参じさせていただきます」
「よろしい。……それでは授業を始めるぞ。今日は教科書十五ページからだ」
昼食を食う時間が削られてしまうのは全くもって不本意ではあるのだが、仕方ない。
俺は諦めて観念し、鞄から取り出した英語の教科書を開き始めるのだった。
○
ゴム製の靴底を持つ上履きが六十キログラム程度の俺の体重を受けて廊下と擦れ、独特の軋んだ音を立てる。そんな小さな音など昼休みの喧騒で掻き消えようものだが、その音はやけに俺の耳に残った。
カクテルパーティー効果というものがある。
これは中学生の頃に、当時の友人である橋山一樹に聞いた現象なのだが、人間は騒音の中でも特定の音を聞き分けることができるのだという。名前の由来となっているカクテルパーティーのような騒がしい場所で、話し相手の言葉をはっきりと認識できる原因がそれなのだとか。
勿論、俺は二十歳前に酒を嗜んでしまうような不良生徒ではないので、『カクテルパーティー』のうるささというのは想像も出来ないのだが、昼休みの廊下のうるささの中で自分の足音が聞こえてきてしまうのは、例の効果の賜であろう。
……ただし、そんなことを考えてしまうのは、同行者が妙に静かだというのも原因の一つであると思う。
俺の隣を並んで歩き、かつ無言を決め込んでいる女子がいる。名前は、新山(にいやま)ヒカリ。背が低いショートカットの女の子だ。彼女は真っ直ぐ進行方向だけを見ていて少しもこちらを見ない。
英語の授業の始まりに冴島先生に言われ、俺は彼女と二人で職員室に向かうことになった。
授業の後に冴島先生から聞いた詳細を付け加えるならば、何だかの係の新山さんが職員室から教室に運ぶべき荷物が重いので、遅刻――電車遅延のせいなので俺は納得していないが――の罰として俺も駆り出されてしまった、というわけだ。
貴重な昼食の時間まで削って駆り出されたのが口を利かない女子との荷物運びとは、今日は随分と運勢の悪い。朝のニュースは見ていないので知る由もないが、きっと俺の星座の今日の運勢は最下位なのだろう。
「……はあ」
なおも続く沈黙。いよいよ気まずさのピークも迎えている。耐えきれなくなってきた俺は新山さんに話しかける事にした。
「……ちょっとくらいの遅刻、見過ごしてくれても良いのになあ」
返事をしてくれないかもしれない。そんな恐怖に負けて、俺は独り言ともとれるようなレベルの言葉をこぼす。じっと返事を待っていると、小さいため息が隣から聞こえた。
「……久喜君は普段から遅れがちでしょ。それに、嫌だったら教室戻っても良いよ。私一人で出来る」
「あ、いや。……ごめん」
つい謝ってしまう。何が不愉快なのか知らないが手痛い反撃を食らってしまった。
……というか何だこの女は。やたらと刺々しいな。俺、何か恨まれるような事したっけ。……いや、この新山さんという女子とは今日はじめて話したんだ。俺に非は無いだろう。この女子が全面的に悪い。
「……ここまで来たし、ちゃんと手伝うよ……」
心中とはかけ離れて下手に出る言葉を放つ。また戻ってきた沈黙の中を足音だけが廊下に響く。渡り廊下に差し掛かったせいか気づけば周囲に人はおらず、沈黙の中の足音が妙に存在感を増していた。
ああ。こういうの苦手だな。逃げ出したいな。
「……ふう」
隣の彼女に聞こえてしまわぬよう、極小さくため息をついた。と同時に、新山さんが足を止める。
まずい、ため息を聞かれてしまっただろうか。
「久喜君は」
不意に名前を呼ばれて俺も立ち止まり、振り返った。並んで歩く時も、一緒に教室を出たときも伏目がちだった俺はそこで初めて新山さんの顔をまじまじと見た。
黒いショートカット。その前髪は真っ直ぐで――確かボブというのだろうか――その下から覗く目はちょっとだけつり目だけど、大きくて、俺を見透かすようだった。そんな目の下には小さな鼻と小さな口。猫のようだと形容できそうだが、可愛らしい顔つきだった。
山吹さんの圧倒的な美貌に目を奪われがちだったから気づかなかったし、周りも騒いでいないのかもしれないけれど、うちのクラスにこんな女の子がいたんだな。
……まあ、声色から察するに、俺に対してポジティブな感情を抱いては無さそうだけど。
俺は若干眉を潜めて聞き返す。
「……何かな?」
「久喜君は、カズトくんと仲良いの?」
突飛な質問だと思った。それから『いや……』と思い直す。女子に大人気な藤谷のことだ。もしかしたらこれこそが、女子から俺に対するまっとうで普通な質問なのかも知れない。
とはいえ、やっと沈黙から抜け出せたのだ。この機を逃す手はない。
「そうだね、藤谷とはたまに昼飯一緒に食ってるんだ。ユウスケ……赤田とも一緒に。でも話すようになったのは、割と最近なんだけどさ」
話しながら新山さんを見ると、少し、複雑な表情をしている。何だ。また何か不服なのか。
「……カズトくんが。意外だな……。……でも、そっか……」
一人で何事か呟いて納得する新山さん。意外、とはどういうことだろう。それに……。
「『カズトくん』って下の名前で呼んでるみたいだけど、藤谷とは知り合いなの?」
「元中。ただの」
最小の文字数でぴしゃりと答えを寄越される。会話が広がる要素すらないような一問一答だ。
……なんだか軽く腹が立ってきたな。ここまで来たら是が非でも俺ときちんと話してもらおうじゃないか。
「そっか、元中なんだ。……で、何でそんな事を訊いたの?」
質問を重ねる。何か、会話を広げられるようなキーワードを引き出さなくてば。
俺のある種の意地でぶつけた質問だったが、あっさりと無言で首を振られてしまい、無残に敗れ去る。
しかし、今度は彼女から口を開いた。
「カズトくんが、久喜君みたいな人と仲良くするなんて驚いたな……」
「みたいな人って……どういう意味?」
彼女の言葉の意図を掴みかねて質問で返す。新山さんは冷ややかな目を俺に向けていた。
「カズトくんは凄いから、凄くない人から妬まれているのを何度も見てきた。中学校の最後の頃には、山吹さんぐらいとしか話してなかった。……高校に入ってもしばらくそうだった」
短い付き合いだが思い当たる節はある。彼は元々クラスに馴染まない人間だった。その理由が、誰かと関わって妬まれることに疲れたことだとしたら、納得のいく態度だ。
だからこそ、確かに新山さんの驚きは共感できる。どうして俺みたいな平々凡々な人間と関わってきたのだろう。何か心境の変化でもあったのだろうか。
「それなのに、『普通』の君がどうしてカズトくんと仲良くなってきてるんだろう……」
恐らく、彼女は何の含意もなく言っている。でも俺は再びムッとした。人に対して『普通』だなんて、あえて言うことじゃないし、何なら失礼極まりない。
俺だって中学の頃に普通じゃないことは沢山経験してきている……と言いかけて、ふと『ある記憶』に思い当たって声に出すのをやめる。その記憶は、ある秋の雨の日の、金木犀の匂いに包まれている。……俺の安っぽいプライドを守るためだけに、軽薄に言葉にしていいものではない。
それでも腹の虫はおさまらないので、代わりに別の言葉を返すことにした。
「……新山さん、俺と話すのは今日が初めてだろ。俺が『普通』だなんてよく分かるね」
「分かるよ」
彼女の冷ややかな視線が俺を貫く。綺麗だと思うと同時に、つい、息を呑んでしまう。
「君は、カズトくんとは並べない。……並ぶ努力すらしない。そういう人」
「……う」
図星だ。心当たりがある。それは昨夜の公園での徒競走の練習だ。
俺はユウスケに自主練を勧められた。だけど、早々に諦めてしまったんだ。敵うわけのないほどの藤谷の才能を見て、やる気を失ったんだ。
「藤谷みてえなやつに、並ぶ努力なんてするだけ無駄だよ。意味のないことはしないんだ」
そうだ。並ぶどころか近づけるかも分からない。そんなことのために自分の時間を使うのは無駄だ。
だが、新山さんも引かない。意志のある目は未だに俺を見透かし続けている。
「……そういうことを言う人は、好ましくないな。意味だって、あるだろうに」
「好ましくないって……」
「好きになれないってこと」
厳しい物言いに俺は辟易する。つぐみそうになってしまう口を無理やり開いて、次の言葉を紡ぎ出す。
「嫌いとか、随分はっきりと言うんだね。新山さんは」
「嫌いとは言ってない。好きになれないってだけ」
またもやぴしゃりと言いつけられる。どうしてここまで言われなくちゃいけないんだ、と俺の中で不満が膨れ上がっていく。
そんな俺の気持ちを知らずに彼女は再び渡り廊下を歩み始めた。そして、立ち止まったままの俺を振り返り、一瞥とともに一言。
「冴島先生が待ってる」
こうまでしっかり馬鹿にされたのは久しぶりかもしれない。中学の頃以来か。
たしかに俺は努力もしなければすぐに諦めてしまう人間だ。だとしても、それは平々凡々な一般市民である俺が、そんな自分と上手く付き合っていくために身につけた処世術でもある。
俺の人生における時間は限られている。だから、限りある時間(リソース)は可能性のあるものに振るべきだ。藤谷のような天才に対してムキになるために使うべきじゃない。
……でも、何故だろう。
「ねえ」
俺は先をゆく新山さんを呼び止める。彼女が立ち止まり、俺をちゃんと振り向くのを待つ。
……俺は今、ムキになっていた。新山さんの言葉が綺麗事でしか無い嘘で、俺の考えがまともであると証明するために、その限りある時間を使おうとすら思っているのだ。
「じゃあ、見てろよ。本当に意味があるのか、試してやる」
「……そろそろ、行こうか。昼休みが少なくなる」
独り言のように呟いて職員室へとさっさと歩き始める新山さん。その呟いた一瞬に、彼女がふと口角を上げた……そんな気がした。
「……はあ」
その笑みの意味を考えるのが面倒になった俺は、思考停止して今度は盛大にため息。彼女を追いかけて歩き始めた。
こんな気持ちは本当に久しぶりだと思った。それは、……あの雨の日の葬式以来だ。
「……見てろよ」
最早誰に言ったのかすら自分でも定かではない言葉を宙に浮かべ、俺はその後、職員室で冴島先生から英語の授業に関するプリントを渡され、教室に運んだ。
もちろん新山さんと会話は一つもしてない。
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