第五章:理由
そのとき彼は、想いを抱いた(1)
【理由】〔り・ゆう〕
1.なぜそうなった、また、なぜそのように判断したのかという根拠。わけ。事情。
2.いいわけ。口実。
○
高校一年生の春の話だ。
俺の視界は校庭独特の茶色く乾いた地面と若干消えかかっている白線のレーンによって一杯になっていた。うつむいて地面を見ているからではない。
――今まさに、転びそうになっているからである。
「うおっ」
足の踏ん張りが効かず、情けない声まで出てしまう。
徐々に地面が迫って来る中、俺は強く後悔する。必死になって身体を仰け反らしてみるももう遅い。
そして俺は、皆が見ている中で、盛大に……転(こ)けた。
「痛った……!」
皮膚を切ってしまったらしく、膝を見ると容赦なく血が流れていた。場所が悪かったんだ。見慣れない量の赤が溢れている。
レーンの外でざわざわと騒ぎ始める級友達の話し声が耳に入ってくる。その耳まで真っ赤になっていくのが自分でも分かった。
痛みと、そして羞恥。その両方に苛まれて悶えていると、突然脇を掴まれて身体を持ち上げられた。
「……うわっ」
貸してもらった肩が少し高い。俺も背は低い方ではないのに。誰だろうと思って肩を貸してくれた人間の横顔を見た。
通った鼻筋。涼し気な目元。色白の俺とは違って健康的な肌の色。貸してもらった肩からでも伝わる細身なのに筋肉質な身体。話したことは無いが、俺は彼のことを一方的に知っていた。
「肩、貸してやる。保健室行くぞ」
彼の言葉に嫌味な部分は感じなかった。ただ、親切で手を貸してくれているのだと伝わった。俺は声も出さずに頷いて、一緒に保健室へ向かう。
彼以外にも休み時間に話すくらいの友人はいたのだが、まだ入学して日が浅いからか直ぐ様駆けつけてはくれなかった。
それを、一言もしゃべった事のないこいつに助けられた。
だが、こいつは。
藤谷カズトは、そういう男だった。
○
「ほら、着いたぞ。……保健の先生は居ないみたいだな」
消毒液と薬品の匂いが交じる保健室へと入っていく。藤谷に付き添ってもらいながら、俺は保健室の椅子に腰を下ろした。
この高校へ入学したのは数日前である。自分の実力以上の偏差値の高校だったが、入試でヤマ勘が働きまくるという幸運によって俺は入学することが出来た。
そして、今日は入学して初めての体育の授業。体力テストの日だった。
運動が苦手でしょうがないというわけではないが、合格後からずっとだらけ続けていたのが良くなかったのだろう。久しぶりの運動で馬鹿のように張り切って全力で走り、なまりきった足は体重を支えてくれずにさっさと崩れてしまった。
その結果が、この膝(ざま)だ。
今も膝は痛み続けている。保健室に来る前に、消毒のため給水所で膝を流したせいでより一層酷い痛みだ。……恥ずかしいことに、痛みで無様に叫びだすところまで藤谷には見られてしまっている。
その藤谷はというと、保健室の棚から消毒液のボトルとガーゼ、脱脂綿を掴んで戻ってくるところだった。
「あっ、ありがとう。助かったよ」
俺は彼に頭を下げてから、その姿を見上げた。
改めて見ると、背が高く、細身ながらもしっかりした体格。日本人離れしていて、モデルのようだ。しかも顔まで良い。世に言うイケメンの部類だ。
藤谷はその整った顔を少しほころばせる。
「いや、お礼はいいよ。クラスメイトだからな。お前は……久喜、だったよな? 俺は藤谷カズトだ」
「久喜で合ってる。藤谷のことは知ってるよ。うちの学級委員だもん」
「ああ、そう。やりたくもねーんだけどな。『あいつ』のせいで無理矢理だ」
そう言って藤谷は苦笑いをした。
藤谷が言っている『あいつ』とは、同じクラスの山吹(やまぶき)桜華(おうか)の事だろう。
彼女と直接関わったことは無い。しかし、目立つ人間だったので入学したばかりではあるものの彼女の名前は覚えていた。
噂では、俺が運に頼ってぎりぎり通過できた入試で満点を叩き出し、入学式では新入生代表として挨拶も行っている。見た目も優れていて、黒く長い髪の似合う大和撫子だ。それだけでも話題に上がるのに充分なものだが、彼女はそれ以上に『変わっている』人間だった。
「この学級をこの学校で一番良いものにする。皆(みな)、私に任せて欲しい」
これは、二人の学級委員を決めるホームルームで彼女が立候補した時に吐いた台詞である。
教師や警官かのような男口調で凛と言い放つ様はアニメや漫画の実写化に似ていて、俺は見ていて恥ずかしくなってしまった。しかし、一種のカリスマというのだろうか。級友たちの反応は概ね好意的で、満場一致で学級委員に決まった。
そして、そんな彼女がもうひとりの学級委員として指名したのが藤谷である。彼もまた山吹さんに並び立つほどの目立つ人間だった。
山吹さんとは所謂幼馴染であるらしく、普段から二人は一緒にいることが多い。それによって男子たちからの嫉妬の視線を一身に受けているのも一つだが、彼自身も山吹さんと並んで見劣りしないような容姿だ。
入学式で一目惚れした女生徒に告られたという話まである。
俺があんまり関わらないタイプの人間。……というか、近くにいるだけで自信を失ってしまうから、正直なところ関わりたくないタイプの人間だ。
「自分でできるか?」
藤谷が手渡して来た消毒セットを受け取った俺は「大丈夫」と言ってから脱脂綿に消毒液を染み込ませていく。ピンセットがあったほうが衛生的だが、そんなに深くてデリケートな傷だというわけでもない。脱脂綿を傷口に押し当てては痛みに顔を歪めつつ、ガーゼ越しに傷を抑え込んで止血。包帯は流石に仰々しいので使わず、近くの棚にあった大きい絆創膏を張り付けた。
中学時代に橋山一樹という男から応急手当について教えてもらったから――彼が何故そんなことに詳しかったのかは未だ謎だが――一通りは問題なく出来た、と思う。話を聞いたのが中学二年生の頃だから、若干あやふやなところもあるが。
記憶を頼りに自分で消毒止血をしていると、突然保健室のドアが開いた。
「輝ー、大丈夫か?」
入ってきたのは天然パーマの男。彼は俺を見つけて人懐っこい笑みを浮かべる。赤田(あかた)ユウスケ。高校で出来た友人の一人だ。まだ付き合いは浅いが……保健室まで来てくれたんだ。多分悪いやつじゃないんだろう。
使い終わった消毒セットを回収した藤谷は、入ってきたユウスケの姿を確認して部屋の扉へ向かう。
「確か、赤田は久喜と仲良かったな。じゃあ俺は保健の先生探してくるよ。赤田は久喜を頼むな」
藤谷がユウスケの肩を軽く叩いて外へ出ていく。俺はその彼の表情にどこか後ろ暗いものをふと感じ、声をかける。
「藤谷!」
呼び止められた彼は少し驚きながら俺を振り返る。
「ほんと、ありがと! 今度お礼するよ。何か困ったことがあったら言ってね」
大袈裟すぎただろうか。だけど藤谷は屈託なく笑っていた。
「分かった。頼み事でも考えとく」
そうして彼は今度こそ保健室を去った。代わりにユウスケが頭を下げてんだか下げてないんだか微妙なラインの会釈を返してから保健室に入ってくる。
「輝、いつの間に藤谷と仲良くなってたんだ?」
「いや、今日初めて喋ったけど」
笑みを浮かべながら「へぇー」と呟いたユウスケ。物珍しいものを見た、という心の声が追加で聞こえてくるようだ。
藤谷カズトは基本的にクラスの中でも人と関わらないのだ。彼が自分から人に絡みに行くところを見たこともない。目立つから幾人もの挑戦者――主に女生徒だが――が話しかけたりするのだが、大抵会話が続かない。男にいたっては嫉妬心からか若干藤谷を省いている節(ふし)もある。
まともに話してるのは藤谷に『あいつ』呼ばわりされていた山吹さんくらいのものだろう。
「じゃあ、藤谷は話した事もねーのに助けてくれたんだ。案外良いやつなのかもな……」
「少なくとも、直ぐに駆けつけてくれなかったユウスケ氏よりは良いやつなんじゃないのか」
俺は冗談交じりで切り返す。ユウスケは「悪り悪り」と苦笑いをしながら謝ってきた。あまり本気には見えない。まあ、俺も本気で言ったわけではない。あくまで冗談のつもりだ。
それでも……。今の時間はまだ授業中だというのに、わざわざ様子を見に来てくれたユウスケも充分、良い奴には違いない。
「輝も大丈夫そうだし俺は授業戻るかな」
「わかった。ありがと」
ユウスケは手を振って保健室を出ていく。俺もユウスケに手を振り返した。
○
出血が無事に止まったのを確認した俺は、昼時になって保健室を後にした。
俺が盛大に転んでみせた体育の授業は三時間目の授業であり、その後に続く四時間目の英語の授業も出れないことは無かった。それなのに昼のチャイムが聞こえてくるまで保健室で寝っ転がっていたのは、単純なサボりだ。
いっそのこと返ってしまいたい気持ちもあったが、昼飯をサボるわけには行かない。俺は購買に寄って梅のおにぎりと惣菜パン、野菜ジュースを購入して教室に戻る。部屋に入ろうとドアに手をかけたところで後ろから肩を叩かれた。
ユウスケだった。
「よー、戻ってきたな。もう良いのか?」
「快調快調。これから飯?」
両手にパンと牛乳を抱えているユウスケは頷き、「一緒に食おうぜ」と持ちかけてきた。
了承し、各々自席に座る。俺とユウスケは隣の席なので、特に机を動かすこともない。
「それにしても、ユウスケ、足速かったんだな」
五十音でも一番初めの赤田ユウスケの体力テストの様子は見ていた。ハンドボール投げだったりは平均以下ではあるものの、足の速さには少し驚いた。
彼は口の中の焼きそばドッグを飲み下しながらご機嫌な笑みを浮かべる。
「ま、バスケ部の新入生の中でも俺、足の速さは一番ですから」
「そう言えば、ユウスケはバスケ部だったっけ。……ハンドボール投げの成績が悪いのは問題ないのか……?」
「ま、バスケ部の新入生の中でも俺、シュートの飛距離はドベですから」
そんなことを飄々と言ってて良いのだろうか……。いっそのこと、彼は陸上部にでも入ったほうが良さそうなものだと感じてしまう。
そんな下らないことばかりを話していると、突然後ろから肩を叩かれた。
「ん……?」
振り返る。すると、昼食であろうお弁当箱を持った藤谷が立っていた。何やら笑みが引きつっている。
「……あー、足の調子はどうだ?」
「おかげさまで、もう大丈夫。助かったよ」
そう返すと、藤谷は「そっか、良かった」と言って頭を掻いた。
……別に俺は彼のことを深く知っているわけではない。だけど、なんか様子が変に見える。
普段の彼は何についても我関せずで、いつも山吹さんに引っ張られてあれやこれやと面倒事に巻き込まれているイメージだ。それが今、俺の目の前にいる藤谷は違っている。照れくさそうな表情をしている。
「なあ、お礼に頼み事、聞いてくれるって言ってたよな」
保健室でのことだろう。それを言われると若干俺も恥ずかしい。大袈裟すぎるお礼だったからだ。
俺は「ああ、うん」と相づちを打って藤谷の次の言葉を促す。彼は小さく息を吐いて、それからその手に持っている弁当箱を持ち上げてみせてきた。
「俺も、一緒に飯、良いかな……?」
「……え」
思わず固まってしまった。そんな俺を見て藤谷が慌て始める。
「あ、悪り。嫌なら全然良いんだ。俺、別行くし」
「ふふっ」
俺は吹き出してしまう。俺の隣の席でユウスケも笑いだしている。
「そんなかしこまって言うことかよ、それ!」
ユウスケが自分の膝を叩きながら突っ込む。俺は「本当だな」と同調した。
完璧超人みたいな藤谷からまさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。こいつも俺と同い年の少年なんだと思うと、少しおかしく思えてしまった。
俺は立ち上がって、赤面している藤谷の高めな肩を掴んで俺の席に無理やり座らせる。そしてキョトンとしている藤谷を他所に、俺はユウスケの席の机に腰掛けた。
「じゃ、これで借りは返したってことになるのかな?」
驚いている藤谷が、またもや照れくさそうに笑う。
「……ああ。これでチャラだ」
この昼休み以降だろうか。藤谷カズトは俺や赤田ユウスケとよく話すようになった。五月にもなっていなかったと思う。
……まだこの時は、俺の高校生活も順調だったんだ。それが変わり始める小さなきっかけは、この少し後だった。
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