第二章:覚悟

医者(1)

【覚悟】〔かく・ご〕

苦境や困難、危険に対し、心構えをすること。



 俺は森の中を突き進んでいた。例の黒いマントの集団、それを率いていたと思しき巨躯の男と遭遇した地点からはもうかなり離れているだろう。シュヘルも同じ。そしてそれはそのまま、ソラたちとの距離だ。

 ――自分は迷子だ。だけれど、迷子だからといって何もせずに済むわけではない。動かなければずっとこのままになってしまうのも事実なんだ。

 だから俺は、黙々と森の中を進んでいる。


「そろそろ、方角を確かめとくか」


 比喩ではなく、本当に迷子になってしまったらおしまいだ。

 俺は荷物の中からコンパスを取り出す。とは言えそれは簡素なもので、磁石と思しき細い棒が入っただけの丸い箱。磁力も弱いのか、指し示す方向は曖昧だ。何度か揺らして大体の方位を定め、脳内に記憶している地図と照らし合わせて、これから進んでいく方角を微調整する。

 地図の方角に関する記法と、方位の定義が元の世界と同じなのは一つの救いだった。

 魔法を使わず、モンスターとも遭遇しないとなるとつい忘れてしまいそうになるのだが、ここは地球ではない。北や南という方角も、その定義だって違っていた可能性もあったのだ。それでも、太陽は東から登るし、ものは地面に落ちるし、呼吸をすると肺に酸素が行き渡る。基本的な物理環境は元の世界とそう大きく違わないのだろう。

 そうなると不思議なのが魔法という現象だ。今の所、原理は全くわからないし、『ただ疲れる』という代償だけで風を起こしたり、風を刃のようにして飛ばしていくなんて、物理現象から外れているように感じる。

 それは、今ここで考えてもしょうがないことではあるのだが。


「……腹、減ったなあ。もう昼過ぎたかな……」


 速人の荷物の中に入っていたかと思うが、時計を拝借し損ねたので正確な時間がわからない。あの時は興奮していた。もう少し落ち着いて荷物を盗めばよかった。


「盗めばよかった、ね……」


 罪悪感が刺激される。そのたびに俺は頭を振って、そいつを追い出す。しかし、しばらくすればまた暗い気持ちは別の形で戻ってくる。

 あんなにきっぱりと決別する必要は無かったんじゃないか。話し合いの中でお互いの妥協点を探すことはできたんじゃないか。ソラが言うことは――綺麗事ではあるが、綺麗事であるゆえに――正しい部分もあったのではないか。


「ああ、もう……!」


 ……腹が減ってるからこんな暗いことを考えてしまうのかもしれない。

 俺は足を止め、荷袋に手を突っ込んで、食料を小分けにしている包みからパンを取り出した。

 腹ごしらえをしよう。

 思い切りかぶりつく。手で持った感触で分かってはいたがとても硬かった。


「まっず……」


 それでも文句は言えない。なにもないより全然いい。

 必死に噛み砕き、唾液で少しずつ柔らかくしながら飲み込んでいく。

 硬いのもそうだが……何のパンだろう。今まで食べたことの無い風味だ。普通の小麦とは違うような。ライ麦のパンに近いかもしれない。

 俺はパンを飲み下し、荷袋の中から今度はペットボトルを取り出した。俺が元々持ってきていたペットボトルに水を詰め込んだものだ。


「んぐ……」


 浪費はしたくないので一口だけにしておく。先程食べたパンが胃の中で水分を吸って膨らんできているのがわかる。満腹ではないが、とりあえず満足だ。


「距離はわからないけど、野宿の回数は減らしたいな……急ごう」


 俺は再び荷物を背負い、方位を再確認した上で歩き出す。

 周囲を覆う森が、風に揺れてざわめく。心地いい状況なのだろうが、俺は違和感を感じて立ち止まった。

 ……風の影響を受けないような草むらが揺れている。

 俺は息を止めて槍を構えた。動物か何かだろうか。いや、朝森で出会った黒いマントの集団のようなこともあるかもしれない。サウルでアルヴァさんは、野盗が出る可能性について触れていた。それはつまり、そういう輩がこの世界には存在しているということだ。


「……ここだよな」


 風がやんだ後も揺れている草むらを見つけた俺は、槍の先端をそっちに向けて近づけていく。この草むらに隠れているのが野盗だと思うと恐怖で胃がすくんでくる。さっき食べたパンを戻してしまいそうだ。

 どうしよう。とりあえず一旦突き刺してしまおうか……。そんなことを考えていたら、突然草むらから栗色の毛をした一匹の動物が現れた。


「うおおっ?」


 俺は大いにビビって後ずさった。

 動物だ。大きさは膝の高さくらい。形は鼠に似ている。栗色の毛の大きな鼠だ。……見ようによっては、カピバラのようで可愛いのかもしれない。

 大鼠はその小さな鼻で周囲を嗅ぎ回っている。そして、俺の槍の穂先に鼻をつけて、動きを止めた。


「……何してんだこいつ」


 大鼠のよくわからない動きに頬がほころびかけた。その瞬間だった。

 大鼠が、思い切り口を開いた。


「うおおおおっ?」


 鼠とは違う生き物だと確信した。

 胴体の半分ほどまでが裂けて上下に開き、赤い口内と細かい歯が剥き出しになる。そしてその生物は開かれた口を俺に向けて飛びついてきた。


「うわ!」


 思わず情けない声を出した俺は、左腕で自らをかばう。直後、激痛。肘のあたりに思い切り噛みつかれていた。俺は慌てて腕を振り回す。だが、噛みしめる力が強くて外れない。

 そうしている間にも痛みは増していく。このままだと、食いちぎられてしまう!

 俺は槍を短く持って、その胴に思い切り突き立てる。するとそのバケネズミは小さな鳴き声とともに、俺の腕から離れた。

 俺は大きく後ずさる。痛い。左肘を見ると、白いパーカーが真っ赤な血で染まっていた。


「あああああ!」


 痛みで朦朧とする最中、俺は槍を思い切りバケネズミへと投げつける。刺さりはしなかったが、運良く柄があたってくれて、バケネズミは動かなくなった。


「いってえええええ!」


 俺は地面に膝をついて、左腕の二の腕あたりを押さえた。血が止まらない。これでは、失血死してしまう。どうにか血を止めないと……!


「止まれ……、と、まれ……」


 二の腕をきつく締め付ける。だが、痛みが酷くなっていくばかりで血が止まらない。


「ぐう……! あ……? 何だこれ……」


 胸元が銀色に輝いていた。確認するまでもない、銀のペンダントだ。

 俺はふと思い出す。甲冑竜と相対して最初に魔法を使った時、ペンダントから暖かい何かを……魔法の力とでも言うべき何かを身体に満たした瞬間に、歩き詰めて疲労困憊となっていた身体が軽くなった。

 歩き詰めた身体の重さというのは、つまりは乳酸の蓄積と、筋肉の損傷だ。それを無にして身体が軽くなったというのならば、それは……治癒の力だ。

 もう、神頼みに近かった。確証なんてものは無い。それでも痛みが耐え難かった俺は、全身に力を行き渡らせる。身体が軽くなって、痛みも和らぐ。でも、それだけじゃ何も変わらない。

 俺は左腕の患部を見た。今、全身に行き渡っている力をこの傷口に、一点に集中させるんだ。


「く……」


 徐々に、痛みが抜けていく。それどころか、血も止まっている。数秒もすると、俺の左腕は元通りになっていた。


「……す、げ……。治った……!」


 俺は左腕をぐるぐると動かす。違和感の一つもない。ついでに屈伸運動もしてみる。歩き続けて怠くなった脚の重みも抜けていた。

 しかし、疲労感は依然として感じる。身体は軽いが、疲れが抜けない。普通の疲れとは別の部分に負担があるように感じられる。魔法というのであれば、それは精神的な疲労ということになるのだろうか。

 ……ただ、それでも今この力に気付くことが出来たというのはありがたい。治癒と、身体を軽くする……言わば身体強化の力。竜巻を起こすよりかはいくらかこの旅に活用できそうだ。


 一人でそうやって希望を見出していると、視界の端でうごめくものがあった。先程俺が投げた槍に当たり、動かなくなったはずのバケネズミだ。槍の柄に当たっただけだから死んではおらず、気絶しただけにとどまっているのかもしれない。

 すぐに槍を拾って、穂先をバケネズミに向ける。


「殺るなら、今か」


 俺は全力でバケネズミの胴を貫いた。手には肉を貫いた独特の感触だけが残る。追って、獣の甲高い断末魔が森に響く。


「……あんまり、気分の良いもんじゃないな」


 槍を抜いたらバケネズミの胴から赤黒い血液が飛び出した。吐き気を催していると、強烈な臭気が立ち込めてきた。硫黄と糞尿の混じったような最悪の臭い。


「くっせえ!」


 たまらず鼻呼吸をやめて、口呼吸に切り替えた。そして、さっさとこの場を離れようと足を踏み出す。すると、周囲の茂みがやけにざわつき始めた。風は吹いていない。悪臭が未だここにとどまっていることからそれは明確だ。

 嫌な予感がする。早くこの場を離れるべきだと、俺の全身が訴えるように鳥肌が立つ。


「ち……!」


 俺は駆け出した。魔法とやらの力のおかげなのか知らないが身体は軽い。立ちふさがる木の枝は槍で叩いて折っていく。

 背後から物音がする。最初は気のせいか何かだと思っていたが、走りながら振り向いた俺は気づかなければ良かったと後悔した。

 先程のバケネズミが何匹もの群れとなって、俺のことを追ってきていたのだ。


「うわあああ!」


 叫んだ。一匹だけでもひどく痛い思いをさせられたんだ。これだけの数がいたら骨の一片も残らない。何故だ。何でこんなにあのバケネズミは集まってきてる。

 疑問に思ったのは一瞬。すぐに推測は建てられた。

 多分、あの臭いだ。もしかしたら絶命時の鳴き声もそうなのかもしれない。普通の動物であれば仲間が死んだらそこには近づかない。危険に対する恐怖を覚えることで生き残る。

 でも、あのバケネズミは違う。仲間の死んだ場所には、仲間を倒した生き物がいる。その生き物を集団で屠ることで天敵を減らし、生き残ってきたのかもしれない。


「くそ……! 分析してる場合じゃないだろ!」


 俺は全身に風を纏う。

 フォルまでの距離がわからない以上、ずっと走り続けるわけにはいかない。方位磁石で進む方向のチェックをすることを怠れば方角だって違ってきてしまう可能性がある。

 あのバケネズミを追い払わないと。


「くらえ!」


 俺はまとった風を竜巻として手のひらに集めて、振り向きざまに地面に放つ。風が吹き荒れ、木の葉が舞い上がる。まずは威嚇だ。殺傷能力は無いだろうが、これで退いてくれれば……!

 しかし、それは甘い考えだったみたいだ。バケネズミどもは依然変わらず俺を追いかけ続けてきている。

 こうなってしまうと、もうどうしようもない。魔法も使って全力で走っているのに振り切れないことから、逃げ切るのは難しいだろう。竜巻での威嚇も効果がないときた。

 どうする、どうする、どうする。脳内であれこれ生き残るための方法を考える。

 荷物と槍を捨ててもっと早く走るか。……いや、もしそこまでやって捕まったら終わりだ。それに、物資がなければここからフォルまでの旅を生き抜くことができなくなる。もしかしたら急にソラたちが来て、助けてくれるかも――なんて、そんな都合のいいことは絶対に起きない。当たり前だ。俺から逃げたんだ。

 そしたら、できることは――。

 心臓が早鐘を打つ。これから俺が行おうとしているのは、大博打だ。

 俺は木々が比較的少なく、茂みも無いような場所で、足を止めた。


「――戦うしか、無いのかよ……!」


 そうだ。それしか無い。敵の数はわからないが、向こうも動物だ。不利と分かれば追い払えるだろう。それに俺には槍という武器もあるし、魔法という大きな力もある。

 甲冑竜には通用しなかったが、バケネズミはすでに一匹倒しているんだ。一匹一匹冷静に処理できれば、他の方法よりも生き残る確率はだいぶマシだ。


「行くぞ……!」


 追ってくるバケネズミたちの物音。それが近づいてくるのに合わせて俺は全身に風を纏い、大きめの竜巻を地面に放った。

 突風が吹き荒れ、何匹かのバケネズミは吹き飛ばされる。俺もよろめいたが、すぐに立ち上がって槍を構える。

 茂みや木々が少ない場所だから少なくとも不意打ちは避けられるはずだ。


「こんなところで終われるか……。俺は生きるんだ……。そのために捨ててきたんだ……」


 誰かの助けを求める声も、悲鳴も、訴えも。すべてから逃げるために俺はここにいる。

 そんな俺が誰かに助けを求めながら死んでいくなんて冗談としてはきつすぎる。


 遠くの茂みからバケネズミが姿を現した。そしてそのまま一直線に向かってくる。グロテスクなほど大きすぎる口に悲鳴を上げそうになりながらも、俺は吠えた。


「うおおおお!」


 俺は槍を振りかぶり、バケネズミの脳天へと振り落とした。


 だから俺は、絶対に生き残る。

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