あなたの風邪はどこから?

如月凪月

悪寒

「風邪、うつってないか?」

「だいじょうぶ」

「そうか。それならいい。……風邪には、気をつけてな」

「うん!」

「……本当に、風邪には、気をつけてくれ。僕は、……僕が心配なんだ」

「だいじょうぶだってば。それに、もし病気になっても、おとうさんが治してくれるでしょ?」

「違う。そうじゃないんだ。病気になってからじゃ、遅いんだ」

「……わかんない!」

 おとうさんはそれから、喋らなくなった。おとうさんとの最後の会話の日は、大きなかみなりが鳴っていた。

 お母さんに聞くと、おとうさんはどこか遠いところに行ったのよと言っていた。遠いところってどこだ? でも、いつか帰ってくるんだろう。それまで待とう。そうしよう。

 おとうさんが居なくなってから、何日も経った。時々僕に見つからないようにしておかあさんが泣くから、その時は大丈夫だよ、帰ってくるよ、って言って頭を撫でる。でもそうするともっと泣くから、僕はこれをやめようかなと思っている。だって、悲しくなるのは嫌だから。幸せがいちばん。僕は手を叩いた。幸せなら手を叩くらしいから、手を叩けばそれはつまり幸せだということだ。これは親戚のおにいちゃんが言っていた。あの人は他の大人みたいにしごとをしていなくて、ずっと僕と遊んでくれるから好きだ。どうしてか、おかあさんはその人のことが嫌いみたいだけど。どうしてだろう。まあいいや。ぱんぱん。手を叩いておいた。幸せだ。たぶん。

「いってきます!」

 そんなことを考えていたら登校の時間になったから、僕は慌ててランドセルを背負って家を出た。この青いカバンとも半年のお付き合いだ。肩に馴染んでいるような気がする。

 玄関にある全身が映る鏡を見て、リコーダーを忘れていることに気が付いたから、僕はいったん部屋に戻った。間に合わなくなりそうだったけど、走ればいいや。一時間目は体育だから絶対に行かなきゃ。僕は運動が大好きなのだ! だから、走るのもとくいなのだ! 将来はりくじょうせんしゅだねってよく言われるけど、りくじょうせんしゅを知らない僕はいつも適当に頷く。でもそうするときまって笑って頭を撫でてくれるから嬉しい。あ、そういえばこれをよく言ってくれるのはおとうさんだった。帰ってくる前にりくじょうせんしゅがなんなのかをおかあさんに聞いておこう! そして、驚かせてやるんだ。

 あ、忘れてた。僕はリコーダーを取りに来たんだった。ええと、確か机の上に置いてあったはず……。

 探している時に胸が苦しくなって、咳が出た。風邪かも。格好いい言い方をすれば、やまいかも。もう。おとうさんに風邪に気をつけてって言われたばっかりなのに。でも体育したいし、ちょっとくらい無理してもだいじょうぶだよね。

 瞬間、視界がぐるんと半回転した。足の感覚が無くなる。下半身がなくなったような錯覚に陥る。右往左往する重心を抑えつけるように足に力を入れてみるが、上手く立っていられない。いや、既に僕は倒れている。直後、頬に衝撃が来る。順番に身体にも。床と零距離になる。母親の悲鳴が聞こえる。なんだこれ、風邪? 風邪? 風邪? 風邪ってなんだ。こんなふうに倒れるものなのか? 足はどうなっている。僕は思考を張り巡らせる。螺旋状になったそれを何度も幾度となく登る。終わりは見えない。終焉が訪れることはない。此処が何処で在るかすら理解の外である。状況が把握できない。笛、笛、何故か笛なんて物を手に持っていた。なんだこれ。不必要だ。いらない。僕はそれを階段の外に投げる。は? 階段? 螺旋階段ということだろうか。いや、僕は先程まで何処にいた? からんという乾いた音が鳴る。恐らく笛が地面に転がったのだろう。そんなことはどうだっていい。僕は誰だ。俺は誰だ。私は。手を叩く。鳴る。幸せではない。そのまま音を立てて手を叩くイコール幸せの式が崩壊していく。拾い集める為に身体を起こさなければ。あ、僕は今倒れているんだった。起き上がれない。倦怠感に包まれると同時に上半身の感覚もなくなる。消えていく。世界から消えていく。此処に僕の居場所はなくなった。え。じゃあ僕はなんなんだ? 今此処に存在する僕はなんなんだ? 蛋白質の塊ですらない。何故なら身体自体が消滅しているのだから。ならば意識の集合体? 魂は何処に行くのだろう。器を失った魂の行き先は何処だ。少なくとも此処ではないことは確かだ。ぐるぐる。ぐるぐる。思考が同じところを巡回し、明滅する。視界が溶ける。煮え滾るような熱さに呑まれる。意識は沈殿する。水没していく。溺死するのか。家の中で? いや、そもそも此処がもう家なのかすら分からない。理解が出来ない。締め出されている。渦に呑まれる。病を食む。誰のせい? これは、誰の生なのだ。螺旋。思考の螺旋に閉じ込められた。脱出できない。鍵を探す。あるわけがない。そもそも鍵なんて何処にもないのだ。僕が探していたのはリコーダー。そうだ、思い出した。僕はまだ小学生で、忘れ物を取りに家に戻ってきたんだった。ならはやく登校しないと。だって一限目は僕の好きな、好きな、好きな、なんだっけ。僕は、なにが好きなんだっけ?

 僕は、誰だっけ?

 目を開けると、そこは教室だった。

 見慣れた教室ではなかった。しかし、僕はこの教室を知っている。そして僕が誰なのかも理解している。

 高校一年。六月。学校にももう慣れた時期。父親は生存している。代わりに母親がいない。僕が中学に入る頃に病死している。父親はそれからどこかおかしくなって、度々僕に暴力を振るうようになった。そんな生活。これが僕の生活で間違いない。

 あれは、今見ていたものはなんだったんだ。

 夢にしては現実に寄り過ぎていた。匂いも、感覚も、心の動きも、全てが真に迫っていた。あれは真実だ。僕がそう言っているのだから、そうなのだ。

 どちらが本当の僕なんだ。一体、なにが起きているんだ。

 後ろから肩を叩かれる。一気に現実に引き戻され、僕は驚きを隠さずに飛び上がるようにして背後を確認した。

「大丈夫か?」

 そこにいたのは友人だった。僕の、友人だ。僕は彼を知っている。ということは、今この場所が現実なのか。

 思考を振り払うようにして頭を振って、僕は笑みを張り付け、手をひらひらと振る。問題ない。の合図だ。それを見た友人は、「次は移動教室だから遅れんなよ」なんて言っていた。そうか、次は体育ではないのか。一限目は、体育では、ないのか。しかし、僕はそれを友人から聞く前段階で理解していた。何故なら、連続する今としての生活の上で起きている出来事だから。僕は不良ではないから、前日にしっかりと時間割を把握してきている。つまり、一限目が体育でないのも、知っていた。

 リコーダーではなく教科書を手に取る。表紙には楽しそうにリコーダーを吹いている少女が描かれている。音楽の教科書だ。ぱらぱらとめくってみるが、教科書として当たり前のことしか書かれておらず、退屈になって閉じた。そのまま音楽室に向かって歩く。一年二組のこの教室からだと少々距離があるのだ。間に合わなくなるかもしれないと思って、僕は駆け足になる。走るのは得意なのだ。過去には、まだ優しかった父に「お前は陸上選手になれる」とさえ言われていた。当時の僕はその言葉の意味が分からなかったから、その意味を問うた覚えがある。……誰に質問したんだっけな。大人の口から回答が飛び出てきたことだけははっきりと覚えているが、その前後が曖昧だ。

 あれは、先程見ていたものは、一体何だったのだろう。僕はどうして、こうも懐かしい気持ちになってしまっているのだろうか。これも家庭内暴力が原因の幻覚なのだろうか。僕はそこまで、病んでいるのだろうか。

 ぐるん。

 回転する。

 突如として世界が傾いた。否。僕が倒れている。感覚だけでそれを理解した。先程、夢の中で経験したものと同じ。ぐるん。ぐるん。回転する。思考がこれからどうなるのか、僕は知っていた。脳内が暴走するのだ。そして暴徒と化した脳が意味の分からない単語を並べ立て、同じ場所を旋回し、明滅するのだ。それは今も同じ。連続していた今の線がぷつりと途切れる。死ぬ。嘘だ。死んでしまったかのような錯覚に捉われる。そしてそれは間違いではない。矛盾する脳。騙される僕。いや、僕は死ぬのだ。今此処に存在し生存し息をし生を重ねている僕という僕は今この場所立っている場所踏みつけている場所教室内で細胞まで死滅するのだ。また次の僕になる。僕ではない僕になる。不思議と恐怖を感じることはなかった。宙に浮かんでいるような心地よさに包まれる。宙に浮かんだこともないのにそんな表現をしてしまう。あれ、僕ってこんなことを考えるやつだったかな。絶対に違う。もっていかれていた。全てを僕じゃない僕にもっていかれようとしていた。思考の裏側まで支配されそうになる。堪える。堪える。無理だ。無理。耐えられない。引力が強すぎる。僕はきっと、僕ではなくなる。目を覚ますとほら、

 別人だ。

 薄暗い部屋。パソコンの画面から漏れるブルーライトだけが部屋を照らしていた。

 僕は床に座っている。現状を把握しようと手を伸ばし、周りを確認する。食べ終えていない菓子、中身の残った缶ビール、いつ使用したか分からない塵紙。知っている。僕は僕だからこそ、この部屋を知っている。

 十七歳。本来であれば高校二年である歳。僕は学校に行っていない。中途退学というやつだ。僕は学校が嫌になってやめたのだった。父親がそれについてなにかを言うこともなかった。放任主義などではない。父親は、僕に興味がないのである。母親は既に死亡している。理由は分からない。僕は、父親が殺したのだろうと思っている。死体が今でもリビングに転がっているのではないかと、考えている。

 先程見ていたものは、なんだったのだろうか。本当に、夢だったのか。

 夢の中で、僕は順調に成長している。小学生から高校生へ、そして、今は十七歳の引きこもりへ。夢の中に戻れるならば、僕は小学生の僕に戻りたかった。あの夢には、愛があった。二つ目にも今にもない、愛が。そしてあの場には母親がいた。代わりに父親が死んでいた。僕はあの夢の中に行きたい。あの夢の中で、生きたい。僕をやっかむ父親もいないし、それなりに愛情も注がれる、あの夢の中に。

 しかし、現実はそれ程甘くはなかったようで、僕はこの僕として一年生活をすることになった。

 またあの時みたいに視界がぐるんと回転するのではないかと、それを心待ちにして生きていたが、ついにその瞬間が訪れることはなかった。

 僕に関心のなかった父親はこの一年ですっかり変わり果てた。この表現から分かるように、良い方に変わったのではない。父親は僕に暴力を振るうようになった。しかし、働いていない手前僕はなにも言えなかった。ただ時が終わるのを待って、そして部屋に戻る。その繰り返しだった。

 唯一の癒しは、親戚の集いだった。とはいっても、こんな生活を送っている手前、親戚が集まる会に顔を出すことなんてできない。僕が言っている癒しは、そこに来る親戚の子供だった。幼女趣味なわけではない。僕のことを偏見の目で見ない人間が、子供だけだったというだけだ。それにその子は男である。

 その子供と、その時間だけ、遊んだ。無邪気な笑顔が眩しすぎる時もあったが、よく懐いてくれたから、僕はそれを気にしなかった。身体を動かしたりなんかした。昔の話だけれど、僕は運動が得意だったのだ。その時だけ、過去に戻れたような気がした。ぱんぱん。手を叩いた。幸せでもないのに。手を叩けば幸せになれるなんて宗教染みたことを教えてくれたのは誰だったっけな。親戚の……忘れた。

 そして唐突に思った。いや、ずっと考えていたことが溢れ出ただけかもしれない。

 僕なんて、死んだって構わない人間なんじゃないか。

 母親はいない。父親はいるが暴力を振るうような男。僕は人間として生きていなかった。

 だからなのか、癒しであるはずの子供と遊んでいる最中に、死にたい、と漏らしてしまった。当然、子供は子供だから、僕の心の前に立ちはだかる壁なんて軽々壊して、土足で心を踏んでくる。悪意がないから不快を感じることもない。僕は簡単に、分かり易く、「病気になりたいってことさ」と言った。するとその子供が「僕のおとうさんはお医者さんなんだよ。だから、お兄さんが病気になったら治してあげる」と、無邪気な笑顔を崩さないままに呟くのだ。会話が成り立っていない。僕は病気になりたいんだ。治してほしくない。そのまま死にたいんだ。

 それになんなんだ、この餓鬼は。医者の息子? 将来安泰じゃないか。僕なんて、僕なんて、僕なんて。どうせお前には愛情を注いでくれる両親がいて、学校にも友達がいて、さぞかし楽しい人生を送っているのだろ「お兄さん、だいじょうぶ?」う。

 僕はその場に立ち尽くす。

「ああ、こんな子供にまで嫉妬心が芽生えるなんて」

 僕は、もうとっくに、病んでいるのかもしれないな。

 ぐるん。

 回転。

 瞬間は理解できなかったが、すぐに気が付いた。これは僕が待ちわびていた回転であると。旋回する。沈殿する。酔い、良い、宵。僥倖。僕は水没する。得体の知れない色の海に、塵芥と共に倒れ込む。まるで実写のような題材を使って取り込んだ原風景のような映像美の中で僕は観測される明かりを灯すことに疑問を抱かない馬鹿で間抜けな太陽が僕を見て笑うがまた僕もその太陽をみて嘲笑っていることに彼は気づいていないどころか僕たち人間を掌握した気で魂を燃やしている生物と概念が打ち立てた壁が突如融解し僕の目の前に現れるがそれに触れたら終焉であることを理解している僕が壁に触れることはなくただ溶けていくだけの哀れで矮小なその光の中は変質を恐れており変質を恐れない僕に取って食われるのも気づかないまま域の中で息をして生き良い気になっているそれだけが愉しみであるのは理解しているが立方体の中では私はただのパーツに過ぎなくて旋回する回転する意識が混濁する。混ざり合う。僕は今なにを考えていた? 誰なんだ。僕はこれから、誰に成るんだ。

 そもそもこれは一体、なんなんだ?

 目を覚ます。

 僕は、僕は、僕は。

 今、誰になっているんだ。

「お兄ちゃん、薬飲んだ?」

 心配そうな表情を引っ提げて、寝台に横たわる僕の顔を覗き込む、高校生くらいの少女。

 別人になっている。誰だ。僕は。誰だ、この少女は。

 差し出される薬を拒否して、僕は絞り出すように呟く。

「僕に、妹はいない」

「はいはい。分かったから。薬飲んで」

 そんな僕の言葉に動じることなく、妹を続ける少女。不気味だった。僕はさっきから、なにに巻き込まれているのだ。初めの世界が恋しい。はやく僕をあの場所へ帰してくれ。

 動じないということは、以前の僕も似たような言葉を頻繁に吐いていたということだ。そこから推察するに、この僕はなんらかの精神病を患っているに違いない。妹は今の僕の発言を、薬切れにより発生するものだと思い込んでいる。別の世界まで来ても、僕は不幸みたいだ。

「ごめん。飲むよ」

「うん。えらい」

 突然意見を変えた僕になにかを言うわけでもなく、妹はずっと変わらず優しかった。幸せの片鱗を見て、涙が出そうになる。ぱんぱんと、手を打ちたい気持ちに駆られる。

 手渡された錠剤を口に含み、一気に水で流し込む。気分は変わらない。これから変わるのだろうか。効果が出るのはいつになるんだ。

 いつ、この悪夢は終わるんだ。

 深呼吸する。部屋を見る。見慣れた部屋だった。

 記憶として、見慣れているのではない。

 僕は過去の転生の中で、この部屋を見ている。

 その証拠に、机の上に僕のリコーダーがある。あれは一度目の世界で、僕が取り損ねたもので間違いないだろう。

 一回目、そして、三回目。多少の差異はあれど、そこでこの部屋を見ている。

 僕は、連続して僕のまま。

 もう一度深呼吸する。異常な兄の行動を見ても妹はまだ黙ったままだ。もう見慣れているのかもしれない。それならば好都合である。全てを把握してやる。そして、元の世界に戻ってやる。あの、優しかった世界に。僕が人としての生活を送っている、あの世界に。

 考えるとおかしな点がいくつもある。

 幸せなら手を叩こう。

 僕はこれを、どこで知ったのか。一度目の世界で知ったのだ。それなのに、三回目の僕も手を叩いていた。「幸せなら手を叩こう」なんていう言葉は広く知れ渡っているが、「手を叩いたら幸せ」という穿った見方をしている人間は少ないはずだ。つまり、どの世界の僕も、根底は僕のままなのである。

 考えられるのは、なにか、が起こることによって、何度も世界線が移動しているという説だ。これならば断片的な記憶を保持しているのにも理由がつく。

 そしてそのなにか、だが。記憶を辿っていけばすぐに正解が出る。

 病、だ。

 病に包まれた時、僕は別人になる。厳密にいうなら、病を自覚した時に。

 都合が良い。と思った。僕は今、都合よく病人だ。薬なんて飲んでいる。まだ世界が回転していないのは、僕がこの病を病として認識していないからだ。現実感がないと言い換えてもいい。朧気だった現実が顔を出した瞬間、僕はまた別の世界に放り出されるだろう。それまでに、初めの世界に帰る方法を探し出さなければならない。砂漠で一粒の砂を見つける以上に難しいことであると理解はしているが、それでもやらなければいけない。僕はここで死ぬわけにはいかないのだ。思考が疎らになる。冷静になれ、と自身で自身を叱咤する。感覚を保て。地面を踏め。角度は零度。いつも通りではないいつも通り。よし、大丈夫だ。だいじょうぶだ。風邪じゃない。元気だ。

 気づくと僕は揺られていた。なにも言葉を発さなくなった僕を見て、妹が身体を揺らして安否を確認していたらしい。朗報だ。安だ。僕は生きている。まだ死ねない。

 肩に乗っている手を優しく包み込んで、僕はそのまま顔を上げて妹の目を見る。僕の妹にしては可愛らしい顔をしていて少し驚いた。大丈夫だ、と告げてから、僕は立ち上がり、綺麗に整頓された部屋を歩く。視線はクローゼット。

 初めの世界に戻りたい。ならば、初めと同じことをすればいい。大人になった僕がランドセルを背負うのは少し気恥ずかしいが、この際そんなことは言っていられない。妹の奇異の視線を掻い潜って、僕はクローゼットを開け、奥深くに眠っていたランドセルを取り出し、背負う。肩に馴染まない。そして一時間目は体育。僕の好きな、体育。思い込め。僕は今、小学生だ。あの場所に帰るのだ。

「薬、足りない?」

 妹が心配そうに呟く。客観視すれば、今の僕は精神異常者だ。ああ、そうか。僕は精神安定剤を服用していたのか。でも心配するな。薬は足りている。というか、飲む必要がないんだ。僕はまだ、病気じゃないから。

 振り返る。妹は僕を見て後ずさる。恐怖を押し殺したような目をしていた。そんな目で見るなよ。そんな、父親みたいな目で。父親みたいな? 僕の父親は、元から存在していない。そうだ、思い出した。僕に父親なんていなかったんだ。いるのは、優しい母親だけ。それだけ。この世界が異常なんだ。僕は正常だ。

 ええと、あの時僕はどうしていたっけ。そうだ。リコーダーを持って行かないと。今日の音楽の授業で使うのだ。

 歩き出す。

 部屋の中を、歩く。

 歩く。

 今の僕は、どこからどうみても、精神が病に蝕まれていいる人間だった。ランドセルを背負って小学生になり切る。馬鹿だ。自嘲気味に笑っておく。その方が楽だ。僕は病に包まれている。そういえば歩くというのは頭に程よく刺激が行くので良いことであるらしいというのは皆も承知の上だろうがそれでも実行する人間は少数だ理由は簡単その行為が楽ではないからである人間というものは得てして楽に楽に楽に逃げようとするものでその刺激の表明に耐えることは出来ないのである。圧倒的閃きを誇示できるほど僕は大人でも子供でもないからこの考え思考は胸の深層に仕舞っておくとしてそうだな、例外の遭遇に気が付かないままでは隣の芝が青いという事象にすら辿りつけない着目できない愚かな人間であることは間違いがないとしておっとこの言葉は君に届いているのだろうかこの電波は貴方という貴方の脳内に無事到達しているのだろうかそしてしているのならばその到達点はどこなのかご教示頂けると有難い話なのは間違いがないのだが貴方が私という僕にそんなことをする義務も権利も有していないのは当然のこととしてこの文章を読んでいる人間なんて限られているのもまた自明の理としてそんなことは分かり切っている理解しているつもりでいるのだろうがまた僕の思考はどこかに四散してまるでバターのようにどこかに塗り付けられ咀嚼される末路を辿るのは未来が見えない僕でも到達できる事柄であってとなるとこの場所がその到達点なのではないかという勘違いを起こしても激怒する人間はいないだろうと考えてはいるもののそんなことあるわけもなしとなれば如何なる因果で文字列が記載されているのかの説明を求めるとしてキーボードを叩く音が心地良く感じるのは人間の中にある本能が持っているものである為当然のことと言えるはいかいいえで選択するひとつの質問があったとして君はどちらを選ぶだろうかいいえを選んだとしてもそれは絶対にはいになるのだそうだとしても君はいいえを選択するだろうか意味のない選択を貴方はするだろうか僕はしない意味の無い事をしても意味がないからだつまりこの文字列に隠されているただひとつの暗号を読み解く暇もないまま貴方は眠るそういうふうにできている驚くかもしれないが僕の思考は螺旋状になっており今現在立っているのは階段であるし僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、どうなった。暗闇に覆われる。

 手を引かれた。

 僕はまた、寝台に寝そべっている。

 ここは……見覚えがある。僕の、家だ。病に包まれるとどこかの僕に飛ばされるという説が信憑性を増す。

 左を見ると、僕のことを見つめる小学生くらいの男の子が立っていた。この子が僕の手を引いたのだろうか。

 なにも分からないまま顔をじっと見つめる。よく見ると、僕に似ていた。くっきりとした二重に、餅を彷彿とさせる頬。少し低い鼻は、外から見てみると愛嬌があって可愛らしい。

 ぼうっと、その男の子を眺めていると、今度は右の方から声を掛けられた。女性の声だった。振り向いてみると、そこには小柄な、僕が好きそうな女性が、柔和な笑みを浮かべながら、心配そうに僕を見ていた。

 なるほど。もう一度目の世界の僕は結婚をしているのか。考えてみれば、世界が変わった時、いつも年齢は重ねていた。ここから小学生に戻ることはないのだろう。少し寂しくもあったが、それでもよかった。何故ならここには、僕に暴力を振るう父親はいない。それだけでも嬉しいのに、なんと可愛い妻と子供までいるときた。至れり尽くせりだ。恋愛を楽しめなかったのは後悔が残るが、しかしそれはこの幸せを放棄する理由にはならない。僕は四度目の世界跳躍でようやくたどり着いたのだ。理想の世界に。

 幸せだから、手を叩こう。

 手を叩くから幸せなんじゃない。幸せだから、手を叩くのだ。

 ぱんぱん。

 涙が零れそうになるのを必死に堪える。幸せの匂いが鼻腔をくすぐる。

「大丈夫? おとうさん。風邪なんでしょ?」

 可愛らしい瞳で僕を見ながら、僕の遺伝子を受け継いだであろう男の子が言う。

 無性に抱きしめたくなったけど、何故か身体が思うように動かないから、右手だけで頭を無造作に撫でてやった。すると嬉しそうにくしゃりと破顔させるのだ。ずっと、こうしていたくなる。

 この子が言った言葉を脳内で反芻させる。風邪。僕は今風邪を引いているのか。だから身体が思うように動かないんだ。通りで倦怠感があると思った。

 けれど、病に侵されていると認識はしない。してしまった時点でこの幸福がなくなると知っていたから。

 ここが一番初めの世界かどうかはまだ分からないが、この世界が今までで一番幸せなのは確かだ。だから、手放したくない。

 僕は病に怯えている。

 だから僕は急に心配になって聞いた。

「風邪、うつってないか?」

 僕の言葉を聞いて、息子が嬉しそうに笑う。心配されているのが嬉しいのだろう。僕にはよくわかる。一度目の世界で、父親に心配された時、とても嬉しかったから。それを、覚えているから。

「だいじょうぶ」

 覚えているから。

「そうか。それならいい。……風邪には、気をつけてな」

 あれ、この台詞。どこかで。

 どこかで、聞いたことがある。

 どこで、聞いたっけ。こんな言葉、風に攫われて忘れてしまうような言葉の応酬。なんで僕は覚えているんだっけ。

 どうして、ここにきてこんなことを思い出すんだっけ。

「うん!」

 という息子の大きな返事は、頭に入ってこなかった。ただ、背景として消化された。

 なにか大事なことを忘れている。

 僕は、なにか大事なことを、忘れている。

 思い出せ。記憶を辿れ。なにか忘れものをしている。リコーダーなんて比じゃないくらいの、大事ななにかを忘れている。思い出せ。なにを落としてきた。記憶の断片。引っ張り上げろ。僕はこれを忘れてはいけない。僕に関するなにか。否。今の僕に関する、重大ななにか。先程までは晴天だったのにも拘わらず、今の天気は最悪だ。大粒の雨が窓を打つ。少しすると雷が鳴るに違いない。

 雷が鳴る日。

 僕が優しかった父と会話した、最後の日。

 その会話の内容と、全く同じだ。

 そんな、嘘だろ。僕は僕として世界を渡り歩いているわけじゃ、なかったのか?

 冷静になれ。大丈夫だ。まだ悲劇を、僕の数年に渡る惨劇を、回避できる。息子に病気に気を付けるように言うだけだ。全ては、そこから始まったのだから。元の原因を消してしまえばいいだけの話だ。簡単だ。簡単。焦るな。焦りは伝わる。できるだけ優しく。優しく? 一度目の父親が僕に優しかったのは、これが理由なのか? こんな理由で? こんな、こんな、こんな、利己的な理由で? 僕に、優しくしていたのか。なんだ、僕は元から不幸だったんじゃないか。笑える。必死に元いた世界に戻ろうとあがいていたのに。結局は、皆、自分が、自分だけが可愛いのか。なんだ。世界って案外単純なんだな。もういい。なら、僕は僕の地獄の数年を消すためだけに、優しくなってやる。

「……本当に、風邪には、気をつけてくれ。僕は、……僕が心配なんだ」

 僕は、お前が心配なんだ。ではない。

 僕は僕が心配なだけ。それだけ。たったそれだけ。

「だいじょうぶだってば。それに、もし病気になっても、おとうさんが治してくれるでしょ?」

 なんだ。この世界で僕は医者かなんかなのか。ということは、三回目の世界で僕と遊んでいた子供は、僕か? 僕が僕と遊んでいたのか。まあいいい。考えるのは後だ。

「違う。そうじゃないんだ。病気になってからじゃ、遅いんだ」

 そうだ。なってからじゃ遅いんだ。なってからじゃ、螺旋階段の迷路に閉じ込められてからじゃ、なにもかもが手遅れなんだ。聞いてくれ。僕なら分かるだろ。僕なら、僕なら、この言葉の意味が分かるはずだ。聞け。目を逸らすな。大事な話をしているのに。子供ってやつはどうしてこうも大人のいうことを聞かないんだ。どうしてだ。どうして、だ。

 待てよ。この子供が僕で、いずれこの子供が僕になるのだとしたら、僕という僕は、どこから生まれたのだ。

 螺旋。

 生命の螺旋。

 同じところを、ぐるぐる、ぐるぐる、旋回して、明滅する。

 記憶が正しければ、一回目の父親はもうすぐ死に至る。けれど、僕はまだ死にたくないから、死ぬ前に病を自覚して、また別の誰かに成り代わるだろう。

 僕はどこかの僕として、永遠に生きていくのだ。

 ならば、ならば、

 初めは、どこからなんだ?

 僕の風邪は、どこから?

 答えは案外すぐに帰ってきた。




「……わかんない!」




 と。

 背筋に走るのは、悪寒だけだった。

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あなたの風邪はどこから? 如月凪月 @nlockrockn

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