(06/06) 壮健を祈る
地下倉庫を出るともう悲鳴が聞こえていたので、ああこれは事態が新たなフェーズに入ったのだな、とわかった。元・騎士のおじさんは置いてきた。
ぼくとジェレンは階段を登りに登って、偽領主の寝室に入る。
何かを踏みつけて、ずでんと転ぶ。
よく見たら人間の腕だった。
悲鳴を上げなかったのは、今までにも見たことがあったからだ。戦場というところはとにかく悲惨で、斬ったり斬られたりということがよく起こる。騎士時代のぼくの仕事には、落ちた腕を拾って持ち主の元に届けることも含まれていたので、そういうものは見慣れていた。傷口の潰れ具合によっては、治癒術式でも接続できない場合がある。
今ぼくが踏みつけたものについては、営利な刃物で綺麗に切断されていた。繋ぎ直すことはできるな、と判断する。職業病だ。一度体に染み付いたそういうものは、なかなか抜けきらない。同時にそれが人間の腕とは違う部分もあることに気づく。
なんというか、人間の皮膚に包まれてはいるものの、中の構造が微妙に違う。月光と急いで付けられただろう薄明かりの中でもわかった。血もほとんど出ていない。
誰が誰の腕を切断したのか。
主体は、窓枠に腰をかけていた。
――吸血鬼、ブランシェスカ。
そしてベッドの上には、肘の辺りを押さえながら怯えている偽領主がいる。
「あんまり騒ぐからさァ」と吸血鬼は言った。「手元が狂っちゃったじゃねぇかよ」
彼女の指揮に合わせて、ギロチンのような血の刃は、翼の部分に戻る。
「わしが何をしたって言うんだ!」と偽領主は言う。
彼は壁にべったり背中をつけており、今にも壁にめりこみそうだった。できないとも限らない。なにしろ、そいつは人間の皮を着た魔物なのだ。魔物の中には、壁抜けのスキルを持つ者もいる。
そいつの傷口からも血は出ていない。
威勢よく吠えることができるということは、痛みもないということだ。
「誰しも罪は抱えてるもんだろ?」と吸血鬼は言って、ぼくを見る。「その様子だと、事態は了解済みってところだな」
「そいつが魔物で、領主の偽物だってことはわかった」とぼくは言う。
「証拠はどこにある!」と偽領主は叫ぶ。
「必要か?」と吸血鬼。
「この数年、この領土を支配してきたのはわしだ! この辺りの山もわしの支配下にあるはずだ」
権利の問題。
その出自がなんであれ、実際に支配していたのであれば、その領土の所有権は支配していた者にある。魔物だとしても例外ではない。
「そうだな、アンタに対する
証拠というか証人だが、「地下倉庫にいたよ」とぼくは言う。
「意気消沈の呪いがかかってましたからね」とジェレン。「解除しておきましたけど」
「そこまで知られたからには」と偽領主は言う。
「どうするんだ?」と吸血鬼。
彼女の指揮に合わせて、血製の刃が空気を切る。偽領主はベッドの上から降りることすらできない。下手な動きをすれば、彼女に切断されないとも限らないからだ。
相手が悪いようだった。
「アンタが、女の子を食いまくってたのは話に聞いてるんだよ。わたしとしては気持ちはわからなくなもない。血の味が変わるんだ。魅了も良く効く。自分好みの味になる」彼女は舌舐めずりをする。「ただ、それは、はっきり言って時代遅れなんだよなあ」
世の中にはもっと美味しいものがいくらもあるんだ、と彼女は言う。
「魔物だって所領が欲しい、人間を支配したい、そういう気持ちまで否定するつもりはない。わたしにも経験があるからな」
「だったらわかるだろう、我々の方が人間よりも強い」
「一部は認める。単純な力の面ではそうかもな。だが、だからといって、我儘を通していい理由にはならねえんだよ。特に女の子を泣かせるのはダメだ」
「人間の女など」どうなったって構わん、とそいつは言う。
「だったら、どうして初夜権なんて話なんだ? 魔物同士でしっぽりやっときゃよかったじゃねぇか。だからさ、アンタのそれは単純に支配欲なんだよ。純粋な支配欲だ。人間との魔物の間の子でも作って、大家族を経営したかったのか? 違うよな、ただアンタは力を見せびらかせたかっただけだ。他者に優越する力ってのは気持ち良いからな。そこ見ると、アンタはただ井戸の中にいる蛙なんだよ」
彼女はもう一度宙を指でなぞる。
展開していた血の刃は、彼女の手元に集まって、球体に戻る。
「そしてわたしには、そういう”蛙”を殺す趣味はない」
「わしを殺さないのか?」
「そう言った」と彼女は言った。
確かに、正体が魔物とわかれば、寝室での討伐はマズい。瘴気の問題がある――それについては〈浄解士〉がいるとはいえ、事故物件になってしまうわけだ。そんなところに、本物の領主がまた眠りたいと思うだろうか。
「領主をどうにかしろという依頼は受けたが、具体的な手順までは指定されていない。わたし達としては、アンタがここから立ち退いて、本物の領主サマが元の鞘に収まってくれれば問題ないわけだ。アンタを殺して――」さっぱりとした言い方を彼女はする。「――泣いた女の子が元に戻るなら、嬉々としてそうするけどな。それこそ力の証明になる。最高に気分が良いだろうな」
想像するように目を細める吸血鬼。
「――だが、そうはならない。だから、アンタも殺さない。恨みを晴らせとまでは言われていないんだ。言われても、晴らしきれるものじゃないだろうからな」
魔物を倒したところで、奪われたものは戻らない。
「とりあえず、あんたにはここから出て行ってもらう」
が、その前にやることがあった。
町民に、事件の真相を伝える必要があるのだ。人が変わったようになったのではなく、実際中身が魔物でしたと了解してもらわなければならない。どうするのが手っ取り早いか。街の中に連れ出す――そうすると、こいつの持っている瘴気を町の中に持ち込むことになってしまう。
それは、色々と面倒だ。
「町ごと浄解するとかできたりしないのか?」
「中心地を消し飛ばすことなら」と物騒なことを言うジェレン。「星角次第ですけど」
そこで、吸血鬼は指を立てる。
「あんたさ、化けるまでどれくらい時間かかる?」
具合悪そうにしている化け物は、質問の意図がわからない様子だった。
「素材があれば、一晩あれば」
「なら、話は簡単だ」とブラン。「もう一人、余分な騎士がいただろう。本物の領主の古い友人だったって男だ」
地下倉庫に置いてきたおじさんの話だ。
「おまえも、あのひとだけ人間だってわかってたのか?」とぼくは聞く。
そんなの当然だろ、というように彼女はぼくを見る。
ぼくだけがわかっていなかった。
「ともかく、そいつの髪でも髭でも良いから持ってこいよ。で、この魔物に化けさせる。友人だと思っていたやつが、権力に目が眩んで成り代わっていた、という筋書きにする。外面だけ人間であれば、町の中を歩いても瘴気は漏れないからな」
彼女はさも名案かのように言う。
「要するに、権利の問題ですからね」とジェレンが続ける。「偽領主がこの屋敷にいる以上、この山の中腹はこいつの領域になってしまいます。逆に言えば――本物の領主がちゃんと元気になれば、権利は復元されていくはずです。山頂のユナグラもそれくらいはできます」
「……素材元の騎士はどうなる」
「この屋敷には居られないだろうな。そいつの顔を借りて、魔物を森の方に追い出すわけだからな」と吸血鬼はさらりと言う。
三年間、隠れて守っていたほどの友人と二度と会えない。
そういう話を果たして了解してくれるものか。
「手紙くらいは出せるのだろう?」と受け入れる元騎士である。
本物の領主はまだ目を覚さない。
いずれは医療関係のひとも呼ぶ必要があるだろう。比較的新たに雇われた騎士を解雇した分、領主の世話をする人間も雇うこともできる。本来の領主は人望に厚かったのだ。一連の事件が魔物による者だとすれば、納得してくれる人間も多い。
その次の昼、ぼくらはおじさんに化けた魔物を連れて、町内を横切ることになった。誹謗中傷が飛び交う中、ぼくらは長い農作地を行く。堰を切ったように、恨みの言葉が押し寄せてくる。どれだけ奪われたものがあると思っているんだ、今すぐそいつを討て、というような声も聞こえてきた。
瘴気の問題はある。
だが、そういう衛生観念と感情は独立したものだ。彼らの言う通り、ここで偽物を殺めたとしても、ジェレンのミグラスを使えば、浄解自体はできる。しかし、こうして怨恨が渦巻いてしまえば、それもあまり意味がない。
悪いのは、この魔物だ。
それは間違いない。
けれども、人間の負の感情もまた、魔物を産むことができる。
そうならないように、ぼくらは魔物を森の方に連れて行くのだった。
「行けよ」と吸血鬼は言って、魔物の背中を押す。
「わしは、助けてもらったことになるのか」
「どうだろうな」
彼は――魔物に彼というのも変な気がしたが、今は男性の姿なので間違ってもいないのだろう。小さく頭を下げて、森の中に入っていった。風が吹いて、草木が鳴いた。鳥も飛んでいった。何かがうずくまる音が聞こえ、うめき声が聞こえた気がした。
「ブラン、あなた今何かしましたか」と浄解士は言う。
「ん? ああ、宣言通り、呪いをかけた」内臓剥がしと皮剥ぎ。「今はまだ人間の状態を保っているから、剥がしやすかったんだ。気分は悪いだろうぜ。そうするとまあ、隙ができるよな」
ぼくは遭難中のことを思い出す。
「あいつが長生きできるかは、わからない。さっさと人間の姿を捨てればチャンスがあるかもしれないが、それもどうだろうな」
魔の森というのは、基本的には弱い者に成り代わろうとする。
吸血鬼という特別な存在がいない限り、浄解士という特別な職業の人間がいない限り――そういう加護のない状態であれば、いくら魔物とて成り代わりの原則からは免れ得ない。それが今まで人間の領分で権力を持ち、今は手負いであれば、なおさらだった。
悲鳴のようなものが聞こえたような気がした。しかしそれはやはり、奇妙な風のようにも聞こえた。
魔物に奪われたものは戻らない。
「さあ、戻ろうぜ。領主も目を覚ましたんだろ? 謝礼として馬車の一つでももらわないとな」
そういう話になっていた。
吸血鬼は踵を返し、ジェレンもその後に続く。
ぼくは隣に立つ、甲冑姿の元・騎士本人の方をそれとなく見た。兜の下でどんな表情をしているのかは、ぼくにはわからなかった。彼は、自分と全く同じ姿になった魔物が消えていった方向をじっと見ている。彼も近い後にこの町を去らねばならない。魔物が人間の皮を被っていたように、彼は汚名と金属の鎧を着たまま、しばらく生きることになる。
「あの、変なこと聞くんですけど」とはぼくの言葉だ。
「なんだ」
「あなた、死なないですよね?」
質問の意味がわからない、という顔をされる。当然だ。ぼくらが揃いも揃って死にたがりだから、そう尋ねただけなのだ。悲壮感のようなものが漂っているように見えたから、そう聞いた。
「自分からそうするつもりはないな」と彼は胸中を確認するように言う。「それに、俺はもう森の中で死んだんだろう?」
「正確なところはわかりませんが、おそらく」
「だったら、第二の人生でも歩むさ」と彼は言う。「この歳になって、第二も何もないかもしれんがな」
若いぼくには、それこそ答えが思い浮かばなかった。
そういう考え方をすることのできる大人もいるのか。
「おまえ達こそ、どこに向かうつもりなんだ?」と逆に聞いてくる。
「まだ決めてません。とりあえず列車ってのを見に行きたいと思ってはいます」
「そうか」大して興味もなさそうに。「だが、壮健を祈る」
壮健を。
その言葉を最後に聞いたのはいつだったろう、と記憶がリプレイをはじめる。
ブランやジェレンがぼくを呼んでいた。
彼女らに返事をして振り返ると、そのひとはもう遠くまで行っていた。
かくして、馬車を手に入れたぼくらは国境を目指すことになる。
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