6-5 過去、今、そして私
黒の中に浮かび上がるように出て来たのは、半分だけのベビーカーと、下半分が消え去った赤ちゃんだった。
本当はベビーカーしか見えないはずの距離だった。けれど、私の目はどうした事かその中に居る赤ちゃんまでもしっかりと捉えていた。
恐らくは、ティアマトの咆哮が掠めたのだろう。ベビーカーは最初からそうだったかのように中身ごと半分だけになっていて、それを押していたであろう母親の姿はそこには無かった。
私のお腹の傷が疼く。
頭の後ろの方では、イナンナ様が震えている。
目からは涙が出て来ていた。
私の直感が叫んでいた。
あれは、私だ。
《巻き込まれた可哀そうな赤子です。ちょうど上だけ残っていたのでこれに付けてしまいましょう》
ティアマトの言葉はほとんど耳に入らなかった。
ティアマトのその大きな口から出された
下半身から押し出されるように魔力が上半身へと流れていき、それと同じくして下半身のサイズが赤ちゃんのものへと縮んでいく。
《力の差があり過ぎて多少歪にはなりましたが、まぁ良いでしょう。
この人間の赤子はこれで生を取り戻すはずです。
あとは貴方に任せます。来る時までは人としての人生を送るように大事に扱いなさい》
ゆっくりと落下するその赤ちゃんは
神しか動けないこの世界の中で、息を吹き返したその赤ちゃんは静かに眠っていた。
「ああ」と、受け取った彼が頷く。
私は理解する。このあと、ギルガメッシュ様は、霧峰さんは、赤ちゃんの私をお父さんに渡すんだって。
そして、何も知らない私は魔力を持て余したまま育って今に至るんだって。
ああ、ようやく繋がったんだ。
この夢の出所と結末が。
これだもの、私一人で魔法を使う事なんて無理だったんだよね。
私はイナンナ様の半身だったんだもん。
人として制御できる力を超えているわけだよ。
本当は私の力はイナンナ様に返すべきだったんだ。
こんな身に余る力なんて……
でも、
”ええ”
イナンナ様の声には力が戻っていた。
”その力は今は貴方のものよ、ナナエ”
そう、私は奈苗。稲月家の一人娘。魔力過多で一人ではろくにコントロールが出来ない半端者。
そして、イナンナ様の降臨体であり、彼女の理解者だ。
《あとは、少しだけ私の力をこの世界に振り撒いておきましょう。いかにもあなたが勝利したようにね。
それが終われば私は休眠につくことにします。15年後、再びまみえるその時まで》
ティアマトの声はいつも優しく響いて、私の涙はさらに溢れ出る。
ティアマトとギルガメッシュ様とイナンナ様。手の届かない所で行われた神々の戦いと気まぐれの末に私はここに居るのだ。
涙でにじむ視界の中で、過去のティアマトとギルガメッシュ様や、過去の私は、黒に塗りつぶされるように消えていった。
そして、頬を伝っていたはずの涙も、乾いたわけではなく、元々無かったかのように消えていた。
目を拭って前を見なおすと、視界の先にはティアマトが見えた。それは、今の世界のティアマトの方だった。
《どうでしたか? 感慨深いものだったでしょう?》
「ええ、とても」
私は怖気づく事無くティアマトにそう返していた。
最古の神、今現存する神様達の母親であり、邪竜と呼ばれるティアマトに対して、私は怖気づくことなく言葉を返せていた。
《おや、まぁ。
私と口が利けるとは。
この場では分を弁えて静かにしているのかと思っていましたよ》
人間が神々の戦いの中に割って入ったところで、何の影響があろうか。本来は何もないはず。
《神の力を携えて、あまつさえ半端な神も上に載せて来るとは、いかにも無駄を嫌うマルドゥクらしい作戦ですこと。
かわいそうな事ですが、私は約束に従って、
事が終われば、あなたと言う存在は消えてしまうでしょう。
経緯を明らかにしたのは私からの手向けでもあります》
ティアマトこの場でも約束を守ろうとしていた。
それが母神の信条なのかもしれない。
どんなことであれ、結んだ約束はしっかりと守る。神話にあったようなマルドゥク様との喧嘩が無ければ、本当はティアマトとは良い母神だったのかもしれない。
けれど、今の私には関係無い。
《そうですね、一応あなた達にも尋ねておきましょう。
我が孫と、半端の神よ。我が元に付くつもりはありませんか?
身の安全と、少なくともマルドゥクとその勢力との矢面に立たせることが無い事は約束しましょう》
ティアマトのその声は魅惑的で、話した内容もとても好意的だった。
この場で私が篭絡されたところで何らおかしくないぐらいに。
「お父さんや、私の友達も生き返らせてくれますか?」
私がそう言うな否や、ギルガメッシュ様が私を睨みつけるのが分かった。
《そのくらい造作も無い。あなたの問題も解決してあげましょう。
あなたが消えたいと思うその時まで、幸せな生活を送れる事を約束しますよ》
至れり尽くせりの回答を聞いた私は、ティアマトから視線を外してちょっと考えるように上を向く。
本当は考える必要なんて無くて、答えは出ていたのだけれど。
だから、イナンナ様は私の中でずっと何も言わないでいた。
「考えてみたのですが、折角のお誘いですけれど、私は断らせてもらいます」
ティアマト相手に物おじせずに言い切った私を誰か褒めて欲しい。
なんてことは思わなかったけれど、私はその誘いをはっきりと断った。
《……どうしてですか?
このままだとあなたは消滅してしまうのですよ?》
そう、普通ならそうなるのだし、私が誘いを断ることに何の利もない。
でも、私の中ではそうじゃない。
「いえ、そうはならないと思います」
私の言葉に合わせてイナンナ様が畳み掛ける。
”ええ、私も断るわ。それともう一つ、私の半身の力だけれど、返してもらわなくてもいいわ。
私がここにいる以上、結果的にあまり変わらないのだけれども”
二人の答えに、当然とばかりにティアマトは反論していく。
《約束は、約束です。交わされた以上、あなた達がどう答えようと守らなければならない》
それに対して三人目が詰めた。
「いや、俺からも言わせてもらう。以前の約束は破棄だ。本人たちが戻ることを望まない以上、俺もそれに従うさ」
事態を呑み込むのに時間が掛ったのか、ティアマトの返答は一瞬遅い。
《……そうなれば、そこの神は神としての力を十全に振舞えず、半端なままになるのですよ?》
「それでも結構だと言っている」
《……正気ですか? この後また私の命を取りに来るのでしょう?
半端な神と貴神で私と相対出来るとでも?》
不遜を承知でそこには私が割り込んでいく。
「イナンナ様だけではなくて、私がやります」
《それこそ笑止。
……いや、その槍を持って、本気なのですか?》
私は頷いた。
直後、吹き飛ばされそうなぐらいの強い力がティアマトから吹き出す。
魔力の感知だけは全開にしておいたけれど、あまりの魔力の強さに目を瞑ってしまう。
再び開いた私の両目が捉えたのは、突如として増えた二本目のティアマトの頭だった。
《脅すつもりはありません。が、我が孫よ、分を弁えなさい》
私は素直に理解する。
単なる威嚇ではなくて、それはティアマトの温情なのだと。
二本の首と頭をこちらに向けたティアマトは、今まで私の知っている人間とか神とかそういう次元を通り越したような魔力を持っていた。きっと、このマルドゥク様の風なる防御が無ければ、今頃は吹きつける魔力だけで私の存在は消え去っていただろう。
でも、その魔力を浴びて消え去ったのは私の臆病な気持ちの方だった。
「ティアマト様。申し訳ありません。
私はそれほど賢くも無いですし、物分かりがいい方でもないんです。
私は子供の頃からマルドゥク様を慕っていました。今もそれは変わらないですし、色々仕組まれていた事とはいえ、お父さんや夜野さん、田中さんや先生が死んだ原因は貴神にあると思うんです。
人なんて弱いです。簡単に願い事を叶えられちゃったらすぐにダメになっちゃいます。
マルドゥク様とティアマト様の間に何があって殺し合いになったのかはわからないけれど、少なくとも私の身の回りの人に関しては、貴神のせいでおかしくなった。
……全てを元に戻せるならば、貴神を倒すべきだって思うんです」
無謀だって、わかっています。
言えないそれの代わりに、私は最後にこう続けた。
「それに、今の私の半分は女神イナンナ様ですから。彼女の役割もこなさないといけないですしね」
ティアマトも、ギルガメッシュ様も、イナンナ様も、誰も言葉を発せなかった。
一人間が母神にタンカを切っている、滑稽では済まないその状況において、しばし無言が続く。
《どうなろうとも、後悔はしませんね?》
ようやく口を開いたティアマトに私は大きく頷いて返事を返した。
《よもや、我が孫にまでここまで反抗されるとは。
育て方次第でこうも変わるものなのですね》
ティアマトのその声から、初めての、そしてとても強い悲しみが伝わる。
《ええ、私は今はっきりと哀しいと感じていますよ。
私に対して物おじせずに言葉を返せる子と孫を、わが身に取り込まなくてはならないとは。
本当に、口惜しい》
悲しみの感情はそのまま魔力に乗って、さらにティアマトから受ける圧が増していく。
ホント、バカだなぁ私……
色々な諦めを乗せて考えた私に、イナンナ様が一言だけ言った。
”ありがとう。ナナエ。あと、ごめんなさい”
私は大きく前後に足を開いて、左中段に槍を構える。
(行きますよ、イナンナ様)
これから始まるのは、象対ミジンコ以下、私達に勝ち目なんて草の根一本さえ無いような戦いだった。
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