6-4 15年前のやり取り

 ティアマトの懐に飛び込んだアナスタシアさん過去のイナンナ様は、その無防備な腹を縦に切り裂きながら登り行く。

 飛んで来る血しぶきは私に掛かったかもしれないけれど、そんな事で視線を外す事は出来なかった。


 最後の打ち下ろしの一閃の後、弾かれた時の金属音が聞こえたのと、その先の光景が見えたのはほぼ同時だった。

 下半身を食いちぎられ、落下してきたアナスタシアさん過去のイナンナ様の上半身だけが、無残にも地面に叩きつけられる。

 黒く染まった地面はほとんど地面としての概念を果たしていないのか、彼女の上半身は綺麗なままだった。

 ただ、こちらを見たままの彼女の表情は驚愕のまま固まっていて、動きが全く無くなっていただけで。


「ティアマト。話がしたい」


 その声で私は横を見た。その声はギルガメッシュ様そのものだったから。

 でも、彼は首を横に振り、顎で前方を指す。


 話をしたいと言ったのは、過去のギルガメッシュ様だった。


《はなし、ですか? よもや、我が子から声を掛けて来るとは》


 聞き慣れたとはまだ言い難い、けれど暖かくて優しい声が上から発せられる。


「ああ、話だ。有り体に言えば、今後の事に関して交渉がしたい」


《先ほどまで貴神あなた方は私の命を狙っていたのでしょう? それなのに、交渉とはどういう風の吹き回しですか?》


「ティアマトお母様と話をすること自体、マルドゥクに禁じられている行為だ。

 理由は今この場で身をもって理解した所だがな。

 こちらはマルドゥクの禁を破って、さらに敵と交渉を持とうとしている。

 意を汲んではくれないだろうか?」


 淡々と話すギルガメッシュ様のその雰囲気は、何かを隠していると私はすぐに気づく。


「誠意なら、これで見せよう」


 ティアマトを拘束していた光の輪が解けた。

 同時に、黒い力が一気に膨れ上がる。

 一通り自由になった体を動かした後でティアマトが言った。


《交渉に応じましょう。それで、貴神の要件は?》


「この期に及んで、ただの命乞いだ。俺と、お前に殺されかけているそこの神両方のだ。この場からの離脱を望む」


 この言葉を聞いて息を飲んだのは、私ではなくてイナンナ様だった。


《代償は?》


「10年、ここで好きにしていい。俺の命を賭けてそれを約束する」


《この場で命乞いをした所で私と交渉を持った以上、我が息子、マルドゥクはそれを許さないでしょう? 帰還した所でマルドゥクに殺されるだけでは?》


「そうかもしれない。だが、そうならないかもしれない。

 少なくとも、俺を戻してくれるならはこの約束をマルドゥクに飲ませる事だけは確約しよう」


《ふむ》


 そう言うなり、ティアマトは少しの間沈黙する。

 目の前に広がる、いさぎの良さなど何もないただの命乞いの光景を見て、私は思案を巡らし続けていた。


 まだわからない。

 まだ繋がらない、アナスタシア昔のイナンナ様と私の関係が。


 それと、イナンナ様はギルガメッシュ様がマルドゥク様を裏切ったかもと思って怒っていたみたいだけれど、その心配は私には無かった。

 それは単に、ギルガメッシュ様が何を思っての行動なのかなんとなく気付いたからなのだけれど。


《自分の命よりも、この神の命の方が大切、と言う事ですね?》


 ティアマトもまた私と同じところに気付いていた。


「そうだ」とあっさりそれを認めたギルガメッシュ様は、静かにこう言った。


「もし受け入れぬと言うのならば、手傷程度は覚悟してもらうぞ。

 こちらに勝ち目がないとは言え、わが命を賭せば多少なりとも届くはず」


 どうしてかはわからないけれど、ギルガメッシュ様はイナンナ様を守る為にこの行動に出ていたのだと私も、彼女もはっきりと認識する。


 その理由は明らかにされないまま、またしばし考えた後ティアマトはその返答をした。


《良いでしょう。ただし、追加の条件があります。

 そこの神の事です。上は返しましょう。ただし、今私の口の中にある下に関しては、私のものとします》


 私は無残に転がったままのアナスタシアさんの上半身を再度見る。

 所々傷のような削れた跡があって、目はずっと見開いたまま。どう見ても死んでいるように見えるそれは……やっぱり私が夢の中でショーウィンドー越しに見た顔と同じだった。


「10年を15年に延ばす。下半身も返してくれないか」


 即答で返すマルドゥク様の言葉は、私から見ても駆け引きなんて全く感じられない。

 切羽詰まっているのか、それとも、別に算段があるのか、裏があるようには見えない言動だった。


《30年であれば》


「無理だ、長すぎる。流石にそこまでは確約できん」


《であるならば、こういう事ではどうですか?

 15年の間、私はこの片割れに手を付けない事にします。代わりにこの地に結び付けておくとしましょう。

 いずれ貴神がここに来た時に取りに来るというのは?》


「……俺が戻って来られる確証はない」


 笑い声のような叫びがティアマトから放たれた。


《本当に自らの命を犠牲にしてでもそこの神を助けようというのですね。

 いいでしょう。自らを犠牲にするその気概、嫌いではありません。

 そうですね、こういう話にしてはどうですか?

 貴神はそこの神の犠牲によって私と痛み分けをした。私を倒せなかったまでも、封印する事には成功するのです。

 ですが、眠りに入る前に私はそこの神に呪いを掛けるのです。15年間、残した半身をこの地に住む人間に結び付ける呪いです。

 15年この地で時を過ごし、再び私達が相まみえた時にその呪いが解ける事にしましょう》


 気のせいか、お腹にある傷がじくりと痛みを発した気がした。

 私とイナンナ様はお互いに何も声が出ないまま、話はさらに続いていく。


「出来過ぎた話だ」


《呪いの所は私が言ったと言えばいいでしょう。それに、命を賭けているのであれば、この程度の茶番ぐらいはマルドゥクに飲ませられるでしょう?

 私は貴神の意見を汲んだ上で、再戦の機会まで与えている。この場の交渉結果にしては最大級だと思いますが?》


「こちらに利が多過ぎる。狙いは何だ?」


《はっはっはっ!

 単に利己を求めなかった貴神を心地良いと思ったからですよ。

 勝てないと悟ったや否や、すぐに交渉に切り替えるその手口も良い。

 今後また同じように敵対する関係とは言え、そういう気質を持った我が子は好きなのです。母として温情さえ掛けたくなっただけの事ですよ》


 ティアマトの声はずっと優しくて、暖かい。でも、この状況を見続けている私の体の芯は冷え切って固まっていた。


《そうですね。もし貴神がマルドゥクを見放して私に付くというのであれば、この半身を即座に返すのもやぶさかではありませんが》


「断る」


 甘言だけは即答で断るギルガメッシュ様。


《ええ、そうでしょうね。本当に好ましい。

 忠はしっかりと持っているその姿は実に良いですね。

 そうですね、こう言えば貴神にも納得出来ますか。

 実の所、15年というのは私には十分すぎる時間なのです。今は一本しか戻す事は出来ていませんが、15年もあればもう一本首を取り戻すことが出来るでしょう。

 こちらも十分な利を受け取る事になるのですよ》


 神話に曰く、ティアマトは七つの首を持っていた。今見るティアマトには首は一本しかない。

 首が増えるとどうなるのか、私には単純な事でしか想像がつかなかった。


《さて、話もそろそろ終わりにしましょう。

 決断しなさい。

 条件を飲むか、それとも、この場で私に飲まれるか》


 私にはわからない事だらけだった。けれど、ここは過去の記憶。

 ティアマトが迫った問いへの答えは、予想通りだった。

 

「ああ、条件を飲む」


 感情を押し殺したギルガメッシュ様の声だけがその場に響く。


《よろしい。

 では、まずは下のそれを取りに来なさい》


 言われるがままに出て来たギルガメッシュ様は、丸腰だった。


「この時はイナンナが前衛で、後衛の俺には武器が渡されていなかったんだ」


 そう言ったのは、今の方のギルガメッシュ様だった。

 チラッと横目で見た今の彼の手には、錫杖がある。それがもしこの時にあったのなら、過去は変わっていたのだろうか?


「こちらは確かに受け取った。

 そして、下の方はどうするつもりだ?」


 私の目の前で、もう一人の……いや、過去の幻影の方のギルガメッシュ様がアナスタシアさんの上半身を抱えて立つ。


《言った通りです。

 此処に居る私の孫、人間でしたね。それに結び付けます。

 手頃なのはそれですかね》


 黒の中に浮かび上がるように出て来たのは、半分だけのベビーカーと、下半分が消え去った赤ちゃんだった。

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