5-26 人をやめたその先
「稲月! お前は俺を守ると言ったな! なのにどうして俺を傷付けたんだ!」
怒声と共に、切られた腕の先は先生の胸元まで戻っていた。
「ああ、お前も嘘吐きの一員と言う事か! この世にいる神は龍神様のように約束は守らんからなぁ!」
腕の断面からはきっと血が噴き出していたのだと思う。でも、先生がそれを眼前で眺めているうちに、異様な魔力光が迸り、傷口がもりあがってあっという間に腕が再生されてしまった。
”……既に取り込まれて人を辞めているわね”
私の体に痛みは感じないようになっているはずなのに、冷たい感覚だけは背中を通り過ぎる。
(どうして、先生が……?)
いつも優しい先生がそんな事になるなんて信じられなかった。
腕の事も折り合いをつけたと言っていたはずなのに、あれは……先生の嘘だったの?
”人は欲望に抗えないだけよ”
(……欲望に抗えない?)
”あの神の力に魅せられた人は、己が欲望を叶えるために下僕になるのよ。単にそれだけの事”
先生は、神に魅せられたのか、それとも自ら願ったのか。
いずれにしろ、今となってはどちらでも同じだった。
「龍神様はな、ちゃんと約束を守ってくれたぞ。祈りを捧げたらお前に消された腕を元に戻してくれたよ。前よりもいい腕だ!」
生えていた数本の腕は、一瞬にして先生の体内に引きずり込まれるように戻り、ここに来た時に見たような隻腕の状態に戻る。
「それに、他の約束も守ってくれた。祈りを捧げる人を一人連れて来る度に、一本ずつ腕を増やしてくれるってな」
今度は、肩口どころか側面がわからなくなるぐらいに、先生の体から沢山の手が生えていく。
その姿はとっくに人間ではなくなっていた。
「先生は、みんなの事も大切に思っているぞ。だから学校で悩んでいる生徒を沢山教団に連れて行ったんだ!
みんな喜んでいたぞ、龍神様の力を受けてな。みんなは喜ぶし、俺には腕が増えるし、最高じゃないか!」
ふふっ。
かすかに漏れた笑い声は、震えて出たからじゃない。
なんだ、先生が、全部を隠して最初から糸を引いていたんだ。
突き上げる三度目の胃からの逆流は留めることが出来なくて、反芻出来なかったそれを前屈みになって出す。
隙には違いないけれど、今のタイミングでは大丈夫だと思ったから、出せるものは出してしまおう。
「おいおい、稲月、大丈夫か? 先生は優しいから、今からでも稲月が改宗するなら取り持ってやるぞ?」
ふふっ。
口の中一杯に酸っぱさを感じながら、私はまた笑う。
おかしいよね、先生がそうだったなんて全然気が付かなかったんだから、相談していた私達がバカみたい。
対処すべき相手に、対処の方法を相談していたなんて。
コートの袖口で口を拭った後、私は大声で聞いた。
「夜野さんは、どうしたんですか?」
「ああ、
先生は何の事も無いようにそう言い切った。
大切な生徒だったはずなのに、そんな事はみじんも思わせないような言いっぷりで。
気力が戻ったわけでは無いけれど、それを聞いた私は静かに槍を構える。
「なんだ、お前もなのか」
失望を乗せた声を先生は発するが、失望しているのはお互い様。
「教頭先生もな、お前みたいに反抗したから龍神様の贄になってもらったんだよ。
ああ、夜野はまだ従順だったぞ。お前を助けるためにと言ったら自分でそれに乗り込んだからな!」
先生から伸びた腕が数本、吹き飛ばされて横倒しになったロボットに近づく。
「……先生がそそのかしたんですか?」
「そそのかすとは酷いな。ちゃんと
まぁ、乗ったはいいが龍神様の為に働く前に俺を襲ってきたのは良くなかったな。だから、ちょっとお仕置きをしたわけだ」
先生の中では既に、お仕置きがどういうものなのかわかっていないのだろう。
人を殺す事に、私とは違った方向で心の整理がついてしまっているのだろう。
「ああ、そうだ。夜野も俺の命令に従わなかったのだから、俺も夜野との約束を守る必要は無いよなぁ? だったら、悪い事をした生徒にはちゃんとお仕置きをしないとな!」
先生の言葉を引き金にして数本の腕がしなり、ビュンと払いのけるように動く。それは箒でごみを払いのけるような仕草だったのけれど、先生の腕にはどんな力があると言うのか、飛んで来たのはごみではなくてロボットの残骸だった。
残骸と言うよりはロボットそのままだった。思考加速がされていても、回転もせずに高速で私に迫りくるそれは、単純にロボットが巨大化していくように見えてしまう。
見とれていたわけでは無い。ただ、逃げようと思っても恐怖が抜けない私の体は思ったように動かなかった。
”体、借りるわ”
私の視界にモザイクが掛かる。
それは見てはいけない光景なのか、襲い来る現実を見ようと目を凝らす。
次の瞬間、全身に衝撃が走った。
今までにない強い衝撃は、一瞬の痛みと共に視界を明瞭にしてくれる。
私はロボットに当たったのだと思った。
でも、実際にはしっかりと避けていた。ただし、その動きは明らかに私の体の許容を超えるものだっただけで……
槍を引き戻す速度さえも俊敏で、飛び上がった私の下を通り過ぎるロボットにかすりさえしない。
槍の柄と全身のばねを使い、ぎりぎりまで衝撃を殺してしゃがみ込むように着地した時点で彼女は言った。
”ナナエ、魔力を頂戴。私一人ではこれ以上体を維持するのは無理よ”
体の自由が私に戻る。でも、私は槍を支えにして座り込んだ状態から立てないでいた。
この一瞬の回避行動だけでも、回復のための魔力が足りなくなって肉体には明らかな限界が来ていた。
「避けたら罰にならんだろうが!」
動けない私の前に、無数の腕を振り回しながら先生が近づいてくる。
私にとっての絶望とトラウマの象徴を振り回して近づいてくる。
”ナナエ、早く!”
叫ぶイナンナ様の声が私に届く。
本当の死の恐怖が目の前にあった。
私一人ならばへこたれてもよかった。この場で殺されてもいいやと。
だけれど、イナンナ様の事を私は考えた。
私がここで死んだのなら、彼女との約束を守れなくなる。
いくらトラウマが私を蝕もうと、その約束だけは守らないと。
土壇場の瀬戸際のギリギリの状況で、こんな当たり前の事を思い出す事が手遅れに近いのはわかっていた。
《湧き出て……》
直線と横薙ぎと振り下ろしの三方から先生の腕が飛んでくる。
思考加速の状態に入ってすぐに魔力を熾そうとしたのだが、その後の回復まで間に合うかどうかは微妙なタイミングだった。
三方から飛んでくる攻撃を全て避ける事は出来ない。
取捨選択してどれかは受け止めないといけない。そこまでは考えて、後はなるようになれと覚悟する。
そんな中、この期に及んで私は信じられないものを目にした。
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