5-4 ごちそうと泥

 長い昼食が終わり、私は食べ疲れどころかぐったりしていた。


「田中さん、本当にこれが食べたかったんですか……?」

「ええ、フレンチのフルコース、ワイン付きなんて滅多に食べられるものではないですからね。しかも昼間から酒にまでありつけるというのは夢でしたから」


 対照的に英気に漲るっているのは田中さん。

 よりにもよって彼は一番高いコースを選んでいた。しかも、彼が口に出した通り高いワインまでつけて。


 エレベーターは封鎖していたはずなのに、シェフなりソムリエなりよくわからない人たちが入れ代わり立ち代わりお皿と飲み物を持ってきて、イナンナ様にマナーをいちいち尋ねながら気を使って食べていたら逆に疲れてしまっていた。


 前菜の透き通る煮凝りのようでいて甘酸っぱい、私には初めの味のゼリー寄せとか、透明なのにすごく奥行きの深いコンソメスープとか、こんなに小さいの? って思ったのに、口の中で蕩けた後で味の余韻だけが力強くじっくりと長く残るビーフステーキとか、主張は強くないけれど、ソースをしっかりとぬぐい取って舌に受け渡した後に胃に満足感を届けてくれるパンとか、あとは最後にすっきりと口の中の味を綺麗にしてくれて、なおかつ甘酸苦のバランスで締めてくれた柑橘のシャーベットとか、全然楽しめた気がしない。


”そう? ナナエ、すごくおいしそうに食べていたわよね?”


(いえ、全然。全く、これっぽっちもです)


 そう返しながら、味の素晴らしさを思い出す。

 もっと食べたい。とは言えないし、極力、なるべく、出来る限りそれを頭の隅に寄せておいた。


「お嬢様も、飲み物追加でいかがですか?」


 勧められるままに、「頂きます」と即答してフルーツジュースを注いでもらい、それを楽しむ。


”それなりに、いい質のものだったわね”


 イナンナ様からもお墨付きをもらえたそれらは、確かに美味しかった。

 あ、うん。やっぱり美味しかったとは認めよう。


「田中さんも、もう一杯飲みますか?」

「ええ、頂きます」


 お返しとばかりに聞いたその答えは即答だった。


 立ち上がって配膳台の上で冷やされているワインを取り、テーブルをぐるっと回って彼の傍に寄ってからグラスに注ぎ入れる。

 ちゃんと注ぐのはグラスの半分ぐらいまでにする事は忘れなかった。


”ボトルの持ち方とかもちゃんとあるのよ?”


 そんな声も聞こえるけれど、今はとりあえず気にしないことにする。

 香りを楽しんでから一口つけた彼は、美味しいとばかりに息を吐いた。 


「美味しいですか?」

「ええ、それはもう。こんな高い酒も食べ物も本当に久しぶりですから」


 そう言ってから、もう一口ワインを口に含む。

 口の中で転がしながら飲み下すその姿は、横から見ていても確かに満足しているようだった。

 グラスを眺めている彼に、なんとなく私は話かける。

 

「普段、田中さんってどんなものを食べているんですか?」

「普段、ですか?

 最近の常食は主に軍用のクッキーバーばかりですね。最近市販でも出てきている、スティック状で栄養たっぷりとかで売り出しているブロックタイプの菓子と同じようなものですよ。

 日持ちして、持ち運びも楽で、少量でも必要な栄養素とカロリーが取れるので、仕事をする時には重宝するんですよ。ただ、いかんせん毎日そればかりだと食べ飽きますが」


 折角の楽しい食事の時間だったのに仕事の話が出てきて、振る話の内容失敗したなってちょっと思う私。


「確か仕事テーブルの上にも少しあったかと思いますが、良かったら少しお召し上がりになりますか? この食事の後だと泥を食べたような味になると思いますが」


 ……とは言え、まぁ、それはそれで興味は無くはなかった。


”まぁ、ナナエだしね”


(まぁ、私ですし)


「じゃあちょっと頂きますね」


 勧められたら断るわけにはいかないよね。と、自分に言い訳をしながらワインを戻した後で彼の仕事机に向かう。

 それらしき箱は、書類束の隙間だったけれどすぐに見つかった。


 でも、同じタイミングで私は別のものも見つけてしまう。

 気になって取り上げて見たそれは、写真立てに入った幸せそうな家族の写真だった。


 面影がはっきりとわかる若い田中さんと、そこに笑顔で寄り添う奥さんらしき女性。

 そして、二人の前にはベビーカーに乗せられた赤ん坊の姿。


 それは本当に幸せそうな家族写真だった。


 だったのだけれど、これ、絶対見たらダメな奴だ。と、直感が叫ぶ。


 私は田中さんの昔の話なんて聞いた事はもちろんなかったのけれど、その写真が今の写真ではなくて、過去を映したものだという時点で何か悪い想像をしてしまった。

 プライベートに踏み込んではいけないよね、と反省しながら、それよりも直感に従って私は静かに写真を戻そうとする。


 写真を静かに置いたところで、「場所わかりますか?」と田中さんから声がかかった。


「あ、大丈夫、見つかりました」


 そう言って急いで彼の方に向いた私と、振り向いた田中さんの目が合ったところで、最後に私の手に触れた写真立てがぱたりと音を立てて倒れた。


 ……やっちゃった。


「別のものも、見つかりましたかね?」


 彼の口から出たその声は平坦だった。

 やっぱり田中さんも、霧峰さんと同類だと思った私の感覚は間違っていないかった。

 あれだけ上機嫌だった彼の雰囲気は、瞬時にいつもの仕事の時のそれに切り替わっている。


「えーと、この写真、田中さんですよね?」


 観念した私は取り繕うよりはと、率直に聞くことにした。


「ええ」


 それだけ言うと、彼は興味を失くしたかのように私から視線を外し、正面を向いてワインを口に入れる。

 でも、味わっていないのは傍から見てもよく解ってしまった。


「若いころの私と、家族ですよ。もっとも、二人は行方不明になってしまってもう長いですが」


 こんな時に限って私の直感が大正解してしまった事に頭を抱えたい。


「私が仕事に出ている間に、どこかに出かけて二人ともそれっきりですよ。知らないところで生きていると信じたいのですが、この仕事をしていて情報が無い以上、期待薄と言わざるを得ないですね」


 美味しいランチの味が本当に泥の味に変わっていくようだった。

 どんどんと冷たくなる空気をそのままにも出来なくて、私は口を開く。


「それは、どのくらい前の話なのですか?」

「私が26の頃なので、ちょうど15年前ですね。ああ、もうそんなに経つのか」


 この話は、いつも冷静で穏やかな田中さんにとっての急所だったのは間違いなかった。

 泥水に代わってしまったワインを苦々しく彼は飲み干す。


「娘も成長していたら、お嬢様の同級生ぐらいだったと思いますよ」


 そこまで言ったところで、彼は自分が何を言ったか理解したらしく、立ち上がって水差しを取り、誰かと同じように直接飲み始めた。


「すみませんでした。込み入った事を聞いてしまって」


 水を飲み干してから田中さんは私の謝罪を受け入れる。


「お気になさらず。片づけ忘れた私が悪いので」


 やっていることは霧峰さんと同じだったのだけれど、水差しをテーブルに置いた後の彼の姿は全く異なるものだった。

 正面からなんて怖くて見れるものではなかったけれど、横からこっそりと伺うその顔には、自責と後悔の思いが染み出していた。見覚えのあるその表情は、霧峰さんがお父さんの死を悼んだ時ととても似ていて、私の心にも苦しさを移していく。

 でも、見覚えがあるはずの表情なのに、彼のそれはとても人間臭くて、一つの後悔だけではなくて色々な気持ちが交じり合って、結果的に私に違うイメージを与える。

 

 どちらかと言うとそれは、お父さんの敵を討ちたいと思った最初の私に近いような……?


 私の視線に気づいたのか、彼は両手で顔を二回叩き、その後でちょっとした後悔を口にする。


「酒、久しぶりに飲むとダメですね。酔っ払ってしまったようです」


 こちらに向いたその顔は、酔った形跡なんて全くない、いつと同じスキのない表情を保つ田中さんに戻っていた。


 その変わり身の早さには、本当に酔っていたんですか? と聞きたいぐらいだった。

 話の内容的に聞ける訳ないのだけれど。


「そろそろお開きにしましょうか」


 口調も表情もいつも通りの彼に戻っていたのだけれど、手が震えているのを私は見過ごさない。


「そうですね」


 でも、私が言えるのはこれだけしかなかった。


「ああ、もし試してみたければ、そこのクッキーバーは持っていって構いませんよ。部屋でゆっくりご賞味下さい。それと、ルームサービスのメニューはお嬢様の部屋の机の中にもあるはずなので、夕食はご自分でお楽しみください。

 申し訳ありませんが、失態を見せてしまったので今日はゆっくり休ませて頂きます」


 どうしようかと戸惑う私に田中さんは数本のクッキーバーの箱を持たせてくれた後、やんわりとした雰囲気で帰りを促す。


「すみませんでした。あと、昼食、ご馳走様でした。美味しかったです」


 そう言って部屋を出たものの、私の口と心の中には泥の味しか残っていない気がした。

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