5-3 優しい罠

 イナンナ様の言葉を聞いた後、ようやく私は目を開けた。


 部屋の中はあいも変わらずで、ベッドの横にあるナイトテーブルの上にある時計の針だけが時間の経過を表している。


 うわ、まだ朝だと思っていたのに、もう11時過ぎてる!

 お昼もうすぐじゃない。


”お腹空いたでしょう? 一旦何か食べてきなさい?”


 イナンナ様に言われたのもあるけれど、珍しく朝ご飯を抜いた事もあって、さすがに私も空腹感を覚えていた。


「日曜日の昼ってどこで食べればいいのかな?」


 誰もいない部屋の中では独り言にしかならないのだけれど、


”ホテルのレストランか、外で食べてきたら?”


 いつもよりも律義にイナンナ様がそれに答えた。


(そうしますね)


 今の恰好はジャージ姿だけど、近くに行くだけならいいかな。


 とりあえずジャージに厚手のダッフルコートだけ羽織って、少しだけ鏡を見て色々直してから部屋を出る。

 いつも通りにエレベーターに乗って階下に行こうとしたところで私は気づいた。


 エレベーターのボタン、反応しない。


 下だけでなく上も押す。両方ともカチャカチャ何度も押してみるも、まったく反応していない。

 エレベーター自体は普通に動いているようだったけれど、ボタンだけが全く反応していないみたいだった。


「これ壊れてる……?」


 口に出してから考えること数秒。

 そのあとで私は、もしかして、とその理由に心当たりを見つけた。


 昨日、霧峰さんがホテルから出るなって言っていたけれど、もしかしたらこれは物理的に私を外に出させないようにしたんじゃないかって。


 すぐさま廊下を戻り、私の隣の部屋のドアをノックする。

 確かここには、田中さん(本名がハタナカさんなのはもう覚えた)がいるはず。

 前に私の隣の部屋で仕事しているって話をしていたし。


 私のお目付け役になっている彼なら、ちゃんと説明していくれるに違いない。


 部屋の中から返事があった後、出てきたのはいつも通りの黒服姿の田中さんだった。


「おはようございます。

 と言うには少し遅い時間になりますが、おはようございます、お嬢様」


「あ、おはようございます、田中さん」


 ちょっとだけ会釈したところで田中さんが先に話し始める。


「ええ、お気づきになったでしょうが、エレベーターの方はこの階には止まらないようになっています。今日は一日外には出られませんよ。

 それに気づいたら私の所に来るかと思って、お待ちしておりました」


「ああ、やっぱりそうなんですね」


 待ち構えていた田中さんの答えで、私の考えが正しかったと確認する。

 頷いた後で、田中さんはこう言った。


「お嬢様、もし宜しければ、これから私の部屋で一緒に昼食でもどうですか? 朝食もお召し上がりになっていないでしょうから、お腹も空いているのではと思いますが」


 突然の申し出にちょっと戸惑ってしまう私。


「ええと、その、田中さんの部屋って、仕事部屋ですよね? 入っても大丈夫なのですか?」

「ええ、部屋は綺麗にしてあります。

 それに、謹慎を申し付かっている身なので、今日は仕事をしていませんから」


 その謹慎と言うのは、あくまで方便だと私は気づいていた。


「ああ、もし気になさるのでしたら、もちろん自室の方で食事を取って頂いて構いませんよ。ルームサービス用のメニューをお渡し致しますので、ご自分でオーダーなされても問題ありません」


 田中さんは事務的に対応することが多いけれど、心遣いがなんか暖かい感じなんだよね。霧峰さんの有無を言わさない感じと違って。

 そんな事を考えながら、どうしようかちょっとだけ迷う私。


”食べてきなさい? 昨日の今日なのだから、体にエネルギーを蓄えることの方が今のナナエには必要よ。

 私との時間はこれからいつでも出来るわ”


 イナンナ様に背中を押された私は、田中さんに「わかりました」と答えたのでした。


* * * * * * * * * *


 招かれて入った彼の部屋は、間取りの大きさこそ私の部屋と大した違いはないけれど、随分と仕事部屋じみた様子になっていた。

 

 一台のシングルベッドは部屋の片隅にちょこんと追いやられていて、窓際にはびっしりと書類の山ができた作業デスク、伝って壁沿いには二台のテレビがあった。

 ちなみに、部屋の真ん中には意匠も何もない完全に仕事用の長方形の大きなテーブルが鎮座している。


「殺風景で申し訳ないですが、そこはご容赦を」


 もともとホテルにあったと思われる綺麗な椅子を用意してきた彼は、そこに私を招く。


「いつも仕事はこのテーブルで?」


 コートを脱いでから中央のテーブルに向かい、椅子に座ってからそう尋ねた。


「いえ、こちらはどちらかと言うと資料台です。本来はこんなに綺麗ではなくて隙間なく紙が散らばっているんですよ。

 仕事の方は窓際の方の机でやっています」


 話をしながら、テーブルを挟んで正面に座った彼は私に食事のメニューを渡してきた。

 受け取りながら、「そうなんですね」と返事を返し、とりあえず渡されたのだからとメニュー表を開く。


 そして、一目見てすぐ閉じ、それをすぐさま突き返した。


「田中さん、これ!」


「どうかなさいましたか? お嬢様」


 不思議な顔をする田中さんと、対して私の顔は目が飛び出しそうなぐらいの驚きの表情だったと思う。


 何故って、食べ物の値段がゼロが一つ多かった。

 開いたページですぐに見えたシェフのおすすめフレンチランチセットが一万円を超えていた時点で、私にはこれらが手の出ないものだと直感していた。


”食べればいいじゃない? そのぐらいの値段ならどうせ大したものでもないでしょうけれど”


 頭の中で響くイナンナ様の声を無視して私は田中さんに答えた。


「値段高すぎですよ! 私には到底払えないです!」


 私の叫びに珍しく目を開いて表情を出した田中さんは、その後少しだけ声を出して笑う。

 その後で、得心したように頷いてから彼は言った。


「ああ、そう言えばお父様も倹約家でしたね。気にされなくても大丈夫ですよ、支払いはこちらが出しますから」


「いえ、それは……」


 とだけ言ってから、私は改めて気づいた。ここのホテル代も全部霧峰さん持ちなんだっけ?


「ええ、そうですね。それでは一つお話を致しましょう。

 これは秘密の話ですが、私は上官からお嬢様には金の糸目はつけないから何不自由なく生活させるようにとの命令を受けています。

 ですので、もしお嬢様が気にされて何も食べないようなら私は命令を違反したことになり、この先困った事になってしまいます」


 そう言った田中さんの表情はいたずらっ気が少し見えて、なんだかちょっと楽しそうだった。


 それを見た私の口から話に関係ないことが自然と漏れる。


「田中さんも、そんな顔するんですね」


「ええ、仕事でなければ私とて普通の人間ですよ。

 そうですね、もう一つ言わせてもらうとすると、普段私は仕事が忙しくて食事を楽しむような生活をしていないのです。

 ですが、今回はお嬢様と一緒に食事をするということであれば何でも食べていいいと伺っています。

 と言う事で、できれば私に美味しいものを食べる機会を頂けると嬉しいのですが」


 言葉的に霧峰さんと同じ方向の人なんだなってすぐにわかったけれど、田中さんのそれはやっぱりちょっとやわらかく感じた。

 だからと言うか、言いくるめられたのになんか悪い気がしない。


 うーん、でも、どうしよう。

 やっぱり高いものを頼むのは気が引けるので、私は別の案を提案することにした。


「ええ、それでは、田中さんが食べたいものを二つ選んでください。

 私がそれを頼めばいいですよね?」


「了解しました、お嬢様」


 少しだけ楽しそうな表情を浮かべ、丁寧に頭を下げる彼。

 そして面を上げた田中さんの目には、今までとは別の光が見えた気がした。


 ……あれ? ちょっと待って、何その目……?

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