第5話

電話を切ってから25分くらいで、久石は家にやってきた。

不意に、待ち望んでいたインターフォンの音が鳴った。

僕にしてみれば、長いんだか短いんだか、よく分からない時間が経った後のことだった。


「鍵開いてるから入っていいぞ。」

玄関に向けて声を張り上げる。

玄関まで迎えには行かない、というか行けない。

この部屋の廊下は、翼を広げて歩くには狭すぎる。

この部屋が広くないのは事実だが、何より翼が人の家には大きすぎるのだ。


「お邪魔します。」

少しドアが開いて、久石の顔が覗く。

僕と目が合うなり、顔にまで張り付いていた外の寒さがほんの少し溶けたみたいに、彼女の表情はゆるんだ。

表情が凍り付いていないところを見ると、恐らく彼女の視界にこの翼は入っていないのだろう。


「すまん、ちょっと今そっちまで行けないんだ。

 そのまま鍵かけて入ってきてくれ。」

「ほーい。」

返事の後にかちゃんと鍵が閉まる音がした。

それに続いてごそごそと玄関で靴を脱いだり、服なんかを直してるだろう音が聞こえる。

正直手持ち無沙汰ではあったが、まじまじと見つめるのもどうかと思って、部屋の隅をぼんやりと眺める。


とてとてと足音が近づき、俺の部屋に足を踏み入れた久石と目が会う。

一瞬目線が合った後、視線は予想通り僕の顔から背中へと逸れる。

そして訪れる、これもまた予想通りの冷たい沈黙。


「は?」

うん、それが正しい反応だろう。


「え、何コレ、ドッキリ?」

「誠に遺憾ながらドッキリではないんだ。」

僕だってできることならパネルを出してドッキリでした、なんてこの冗談みたいな夜を終わらせて、そのまま酒を仰いで寝てしまいたいのだが、生憎そんなことが許される筈もなく。


「一応確認なんだが、俺が上半身裸なことと、背中に生えてるものと、どっちに対して言ってる?」

こいつに見られるまで忘れていたが、今の僕は上半身裸なのだ。

彼女への説明のためという訳でもなく、ただ単に翼があるから服を着られないという情けない理由から。


「そんなの、言うまでもないでしょ。」

そうですよね。

言われてみて随分と馬鹿な質問をしたものだと思った。

落ち着いたように見えて、だいぶん参っているようだ、僕は。


棒立ちのまま僕の翼に目を遣る久石、暫くの沈黙。


「まぁ取り敢えずこたつにでも入れよ、寒いだろ。」

どうしようもなくなって、上半身裸の男がツッコミどころ満載のセリフを吐く。


「うん・・・、そうする。」

久石はそう言って、手に持っていた鞄とビニール袋をテーブルの傍に置き、コートを脱ぐ。

ただ目線だけは、僕の背中、羽から逸らさずに。


「上着はそこにあるハンガー適当に使ってくれ。

 ちなみにコレは俺が頼んでたものってことでいいのかな。」


「あ、うん、それ。

 ちょっと見てみて。

 そんなんでよかったかな?」


袋を漁るとチューハイ4本にポテトチップス、アイス2つが出てきた。


「おう、まったく問題はない。

 ありがとう。」


「先貰うぞ。

 俺も少し酒を入れたい気分なんだ。」

「どうぞ。」

一応形式として許可を貰った上で、缶チューハイを手に取り、プルタブを空ける。


酒だけでなく、しっかりつまみも買って来てくれるのは、俺にはできない気遣いだ。

それが久石の好みの、いつもコンソメパンチのポテトチップスであったとしても。


「外寒かったろ?」

チューハイに口をつけながら、久石に声を掛ける。

身体に流れ込んでくる酒は、今日のごたごたで乾ききったこころに染み入るような感じがして。

やっと僕は許され、こころの武装を解いてよいのだと、そう感じた。


「うん、流石にね。」

ハンガーにかけた上着を整えながら、久石が返す。


「天気予報だと雪が降るかもみたいなことも言ってたけど。」

「ほんの少し舞ってたよ。

 全然積もる程じゃないけど。」

「そうか。」


酒を飲んだら少し落ち着いたのか、冷房を入れてなかったことを思い出した。

ベッドの枕元あたり、本や漫画に埋もれた中から、エアコンのリモコンを引っ張り出す。

この部屋は少しばかり寒い。

今外から着たばかりの久石にとって、そして何より上半身丸出しの俺にとって。


「取り敢えず冷凍庫借りるね。」

服を掛け終わった久石が、そのままコンビニの袋からアイスを出し、そのまま冷蔵庫へと向かう。

僕の状況から冷蔵庫まで辿り着くのは難しいと判断したのだろう。

「すまんね。」


冷凍庫のドアをパタンと閉めて、また久石が部屋へと戻ってくる。

僕の翼にちらりと目をやり、そしてそのまま立ち尽くしてしまう。

「まぁ座ったら。」

どうしたものかと思ったが、どうしようもないので、取り敢えず座って貰うことにした。

「あ、うん。」

久石はとてとてとこちらへと近づき、少し後ろめたそうにちらりと再度僕の翼を再確認した後、こたつに腰を下ろした。


「今日は結構飲んでたの?」

「まぁまぁってとこかな。」

久石の言葉とは裏腹に、久石の顔色は普段と何一つ変わりない。

普段を知っているものなら、何となく気付くかもしれない程度で、それすら気のせいだと言われたらそれも納得しそうな程度だった。

「相変わらず飲んでも変わんないよな。」

「いいことばっかりでもないけどね。」

「まぁ実際はそうなんだろうな。」


そこまで言って、再び沈黙が戻ってくる。

少しでもいつもの空気を取り戻すべく、軽い言葉を口にしてみたが、やはりその程度では、翼が吹き飛ばした日常は戻ってはきそうになかった。

期待は外れてしまったが、それもそうだろう。


「色々聞きたいことも山積みなんだけど、寒くないの?」

静寂を破ったのは久石の言葉で、彼女の口から放たれたその言葉は、ずいぶんと現実的なものだった。

この状況下で、まずそこに触れる久石がほんの少し可笑しくて、そしてそのほんの少しのやさしさが嬉しかった。


その久石からの提案も尤もなのだが、

「背中がこの状況だから、着られそうな服がないんだよ。」

そう、僕としてもこのクソ寒い中、服を着たいのは山々だった。

だがこんな邪魔なところに、こんなでかい突起物ができている以上、着ることができそうな服なんて思いつきもしない。

せめてもの対策として、下り易い腹を冷やさないよう、毛布を腹に巻いているくらいのものだ。


「シャツを前から着るとかできないの?」

目から鱗の提案。

これだから女の意見は侮れない。


「久石、お前に10ポイントを進呈しよう。」

「やった。

 で、ポイントって何に使えるの。」

「10000ポイントくらいでジュースと交換だ。

 で、申し訳ないんだが、後ろのクローゼットから、適当に着れそうな服を取って貰えないか。

 見ての通り動き回るのが大変に危険なんだ。」

「服を取るのは5000ポイントくらいかな?」

そう言ってにやりと彼女はこちらを窺う。

「・・・そうだな。」

「いやー、思ったよりもポイント溜まりやすそうだね。

 ところで開けちゃって大丈夫?」

「余計なあら捜しをしなければ大丈夫だ。

 ちなみにシャツは開けたらすぐ真ん前にあるからな。」

「それは残念。

 探し物も得意なほうなんだけどね。」


しかし本当に残念なのはこちらの方だ。

ポイントの内訳を明かすタイミングを間違えたせいで、1分足らずの間に早くも5010もの大量ポイントを久石に献上する羽目になってしまった。


シャツに袖を通し、まだ寒いとはいえ、さっきよりは随分とマシになった。

しかし当たり前といえば当たり前だが、着心地が悪い上に、随分と間抜けな格好にもなった。

シャツを後ろ前に着て、丸出しの背中からはでかい翼が生えている。

実際の姿を鏡で見たわけではないが、頭の中の姿はどう考えたって間抜け以外の何物でもない姿だった。


天使が美しいのは、翼が生えていることが十分条件ではないらしい。

それどころか一般人では、美しくなるどころかより醜くなるというのは新鮮な発見だった。

久石も同意見らしく、

「なんと言うか、大変なのは分かるんだけど、それでくつろいでる姿って――。」

「言うな。

 俺もよく分かってる。」

「・・・そう。」

これ以上どうしようもない問題を増やさないために、二人で情けない紳士協定を結んだのだった。

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