第3話

店を出て、僕が情けない声を上げて、さらにほんの少し歩いたくらい。

びゅう、と不意に後ろで大きな風が吹いた。

背中を押されるように、一歩二歩、前に出る。


気になって後ろを振り返ってみたが、風が吹いただけのことだ、何があるわけでもなかった。


勿論、視界にも何も入らない。

だがそれとは別に何か背中がむずむずする感覚があった。

そしてその違和感は、どうもいつもと違っていた。

どう違うのかと答えるのも難しいが、物理的な違和感があるわけではなくて、そのむずむずした想いが背中に宿った、そんな感じだ。

よく分からないだろうが、当の僕にもよく分からないのだ。


「変な病気だとか、勘弁してくれよ。」

背中がむずむずするなんて、どう考えたって気のせいだろう。

考えられる原因なんて、虫が背中に入ったとか、そんなもののはずだ。

ただ、こんな下らないもののために、先ほどの幸福感が薄れてしまっていくことがあまりにも勿体なくて、少し足早へ家へと急いだ。


家に着き、部屋の鍵もそのまま、コンビニ袋をこたつ上に投げ出すなり、取り敢えず上着を脱ぐ。

上着を抜いで、肩を一つ回した上で違和感が消えないことを確認し、さらに下着を脱いだ上で部屋の隅の姿見に背中を映してみる。

だが鏡に映っているのは僕の背中のみで、いつもと何が違うわけでもない。


「まぁ、そりゃそうか。」

彼女やそれに関わるもろもろのことで、まだ色々と落ち着いていないだけのなのだろう。

違和感はまだ十分にあったが、それももう数分もしたらなくなる筈だ。


落ち着け、僕。

背中と、まだ心に残るざわめきを落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐いた。

それと同時に悪寒が背中を駆け上がった。

大きな何かが僕の身体を上り、そして。

「へくしょい!」

大きなくしゃみが一つ、僕一人のワンルームに響き渡った。

突然僕を襲ったくしゃみへの驚きが収まると同時に、少し拍子抜けした。

もしかしなくてもただの風邪だったのか。

あまりの下らなさに少しがっかりはしたが、もし本気で悪い病気だったらなんてことを考えると、これでよかったのだろう。


「・・・あほらしいな。」

少し落ち着くなり、自分の浮かれ具合が情けなく思えてきた。

一人で色んなことに一喜一憂して、挙句によく分からない妄想ときたもんだ。

自分に言い聞かせるように独り言ちる。


もう今日は早く寝るか。

頭の中でもう今日やるべきことは残ってないことを思い返しながら、大きく伸びをした時のことだ。

何だ、と思ったのも束の間、僕の視界の脇、姿見の隅、僕の後ろに、明らかにこの家には存在しないはずの、白いものが映った。


「は?」

大きくなった鼓動と同時に沸いた恐怖感を誤魔化すよう、少し不機嫌そうな声をあげる。

ただ、耳に入ってきた自分の声は思った以上に動揺していて、隠そうとしていた感情は結局より大きく顔を出すこととなった。


何かがいる。

確かに怖いのは事実だが、確かめなければならない。

ゆっくりと視線を移す途中、視界の隅、映った白いものが動いたこと引っかかり、より身体を固くする。

こんなときには一刻も早くその正体を確認するなり、その陰から遠ざかるべきなのだろうが、僕の身体は全くもってどうしようもない。


だが身体が動こうが動くまいが、このままで事態が改善するわけではない。

結局は、この怪しい物体の正体は確かめなければならないんだ。


まず少し動いてみて、その何らかの物体が、僕自身のものなのか、それとも全くの第三者的な存在なのかを確認する。

結果、その何者かは僕の動きとリンクして、左右にゆっくりと動いた。

僕の触覚とリンクをするように動く白いもの。

混乱した頭で考えてみる。

つまり、あの白いのは、僕のからだの一部なのだろう。


取り敢えず、得体の知れない何らががこの部屋にいるという、最悪の結果は免れたようだ。


しかし僕の身体にそんな白いものなどない筈だ。

身体の中の白いもの、と考えて思いついたのは。

骨、と少し想像しただけで、身体から力が抜けていくのが分かった。

一瞬頭に思い浮かんだ状況のおどろおどろしさに、僕の想像力にすぐさま蓋をした。


結局のところ、どう考えたっていいことなんかない。

正直本日のこれまでの心労で、これ以上なにかをしなけばならないというのもこりごりなのだが、見ないわけにもいくまい。


出来るだけショックを受けないよう、得られる情報を極力少なく、ゆっくりゆっくりと、薄目で肩越しに僕の背中を眺める。


徐々にはっきりとしていく姿。

その白い物体は、ぼんやりとだが、ふわりとした輪郭をしていて。

そう、これは人ではない。

そして骨でもなくて、あれ、そうアレだ。

翼だ、これは。


恐ろしいものでなかったと確信を持つなり、もう一度背中を眺めてみる。

背中越しな上、僕の部屋にある小さな姿見でははっきりとした全体像は分からなかったが、それは間違いなく翼だった。

大きな大きな白い翼が、僕の肩甲骨のあたり、背中から力強く伸びていた。


後から冷静になって、それはとんでもないことだと気づくことになるのだけれど、その時は何となく、その姿に誇らしさと喜びを感じた。

それは、想像していたような、悪い結末にならなかったからだろうか、それとも翼が美しいからだろうか。


そんな風にして、僕はこの世界でたったひとつの武器を手に入れたのだ。

その本当の理由を知ることはまだ先になるのだけれど、恐らく彼女を口説くためにもたらされたであろう、あまりに過剰な武器を。

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