For your life

鏡水たまり

For your life

 風香が窓を開けたのか、車内に外からの風が入ってくる。もう海がすぐそこに迫っているのか、少し潮の匂いを含だ冷たい風は秋の気配を濃厚に感じさせる。

 「どうしてこんな寒い時期に海に行くんだ?大学時代散々行ったじゃないか」

 「いいじゃん海。何度だって来たくなる。新は海の近くで育ったから当たり前なのかもしれないけど」

 助手席に座る風香をちらりと横目で見ると、少し唇を尖らせている。窓から入ってくる風が彼女の髪を悪戯になびかせる。その瞳はキラキラと輝いていた。まだ海の気配は、漂う潮風だけなのに、彼女の目前には大海原が広がっているかのように、移り変わるフロントガラスの遥か彼方一点を見つめていた。

 風香と実際に会うのは半年ぶり、決して遠距離恋愛をしているわけではない俺たちがこの半年会えなかったのは、彼女の会社がブラック企業だからだ。

 週2日休めて有給休暇も自由に取れる俺とは違って、風香の職場は平日は22時なんて当たり前。土日だって1日休めるかどうか。たとえ病気をしても会社に来いというような職場で、入社して1年半以上経ったのに今回が彼女の初めての有給休暇だというのだ。

 そんな彼女がこの有給休暇に行きたいと言ったのが海。美しい砂浜で有名な海でもなく、沈む夕日がインスタ映えするとSNSで話題な海でもない。俺は、そんな風香の期待に応えるべく、そこそこ綺麗で静かな海に彼女を案内することにした。日帰りで行けるか行けないかギリギリのその場所に、もぎ取った有給休暇で一泊二日の旅行に来たのだ。


 昨日も夜遅くまで仕事をしていた風香を思って、昼頃に出発した俺たちが海についたのはもう日が沈む頃だった。綺麗な茜色に色づいた空が視界を鮮やかに彩る。

 車を適当な場所に停めると彼女は荷物も持たずに車外に出て、砂浜へ向かっていった。その足取りは小走りになり、最後には波打ち際に向かって駆け出していた。

 「うーみー!!!!」

 サンダルを履いた足を波に曝しながら風香は水平線の向こうの夕日へ向かって大声をあげた。

 そう叫んだ彼女の姿は遠く、一回り小さくなってしまったみたいだ。荷物を持って風香に向かって歩いていた俺には、逆光なのも相まってとても儚いものに見えてしまった。

 俺が彼女の横に並んでも彼女はまだ夕日を、水平線の向こうを眺めていた。

 俺には彼女が泣いているように見えた。その小さな体に膨大な重しを乗せる、彼女の職場が憎かった。

 彼女にかける言葉は結局見つからず、俺も目前いっぱいの海を見つめることしかできなかった。夕日に反射した光がキラキラと目に痛かった。


 夕日が沈んだのを見届けた俺たちは、言葉なく車に向かって歩き出した。そのまま俺たちは海岸からほど近い旅館に移動した。

 「潮風浴びて気持ち悪いだろ。先、お風呂入りなよ」

 俺がそう言うと風香はありがとうと言って浴槽に向かった。ちらりと見えた浴槽はやはり白いセラミックで、畳敷きの和室とはちぐはぐに感じられた。

 俺は彼女が風呂に入っている間に、食事を部屋に持ってきてもらうように手配をしたり、備品のチェックをすることにした。そんな雑用はすぐに済んでしまって、俺はすることなしにスマホを弄る。だけどそれにも限りがある。時計を見てみるともう結構時間が経っていた。だけど、まだ風香は風呂から出ない。彼女は長風呂じゃないのに…もしかして仕事の疲れから浴槽で寝てたりするのか?

 もし、眠ってしまったまま湯に沈んでしまったりしたら…

 心配になった俺はマナー違反だと思ったけれど、それ以上に心配する気持ちが勝ってしまい、結局のぞいてみることにした。そうすると、案じていた通り、風香は実際に浴槽で寝ていた。

 「こんなところで寝たりしたらダメだろ!溺れてしまうかもしれないぞ」

 「ふぁ、あ、心配だからって、『彼女』の入浴中を覗くのはナシなんじゃなあい」

 風香が両腕を伸ばし、冗談交じりに目をこすりながら言う。

 「湯は冷めてないか?体、冷えてないようだったらもう出れば?」

 「新はほんと心配性だな」

 そう茶化した風香だったが、小さな声でありがと、というのが俺にははっきりと聞こえた。


 続いて俺も風呂に入り、ちょうど測ったように食事の準備をするために中居さんが準備をしにきた。

 卓上に料理が所狭しと並べられていく。風香は中居さんが一品一品卓に乗せるのをキラキラとした目でていねいに目で追っている。そんな姿を俺は可愛いなと思い眺める。

 中居さんが退出したのを見計らって

 「食べよう!食べよう!」

 と風香が、いただきますと手を合わせる。箸を手に取りまず一口食べて、目を輝かせた後、彼女はしばらく食べるのに夢中になっていた。

 無口な彼女を前に味気ない食事になったかというとそんなことはなくて、風香はまるで表情で味の感想を述べているようだった。それに彼女の幸せそうな表情はどんな時でも眺め飽きないものだ。

 湯のみに入っていたお茶を一気飲みして、空になったところに俺がまた入れる。入れたての熱いお茶をふーっと冷ましながら今度はゆっくり飲む。

 「ごめんね、久しぶりにちゃんとしたご飯だったから、つい夢中になっちゃって」

 「ちゃんとしたご飯?いつもはなに食べてるんだ?」

 「コンビニ、レトルト、冷凍食品の3コンボ」

 俺は苦い顔を隠しきれなかった。

 風香も冗談交じりで済ませたかったのがアテが外れて気まずそうな顔をしている。心配させている自覚はあるようだ。そんな彼女に可愛らしさとともに少なからず怒りが湧いてくる。俺はやはり彼女をこんな状況においている会社が憎かった。

 だけど、その重く淀んだ感情はこの場に似つかわしくない。俺は微塵もそんな思いは抱いてないかのように軽い口調で

 「転職しないのか」

 と、言った。

 「苦労して、苦労して…やっとの思いで就職できたの知ってるでしょ。しかも憧れだったデザインの仕事。ここを辞めたら次また就職なんてできないよ」

 彼女は俯きながら、だけれども芯のある声でそう答えた。

 俺は口に出そうとしていた言葉を飲み込んだ。彼女が就職活動にどれほど苦労したか、やっと掴んだ夢だということを一番側で見て知っていた俺には、それ以上言葉を紡げなかった。


 「ほんと、ここの料理美味しいね!家でもこんな料理食べれたらな~」

 風香はおかしそうにくすくすと笑った。きっと彼女自身の破滅的な料理のセンスでは到底無理だと一人面白おかしくなっているのだろう。

 「代わりに俺が作ろうか」

 気づけば、そんな言葉が口からこぼれ出ていた。

 そうだ、それがいい。今は人並みに料理ができる程度でしかない俺だけれど、これからは仕事に忙殺されている風香のために俺が食事を用意をしよう。結局俺が彼女にしてあげられることはこんな些細なことしかないんだけれども…

 風香はイマイチわかっていないようで、口をもぐもぐとさせながらも首は少し斜めに傾いている。これまで彼女の負担になってはいけないと連絡を取るのも遠慮していた俺が、彼女のために料理を用意するということまで話が繋がっていないようだ。

 そんな風香を可愛らしく思いながら、俺はこれまでの自分を自省した。彼女に気を使わせないために見守るという選択をしてきたが、もっと早くに、もっと積極的に彼女の生活に介入すべきだったのだ。

 風香を支えられるのは、俺だけなのに。


 食事を下げてもらって、二人で肩を寄せ合ってたわいない話をする。

 忙しくしている風香を思って連絡もほとんどとってなかったから、お互い話が尽きる様子をみせない。一通り彼女の近状を聞き終えて、今度は俺が最近の出来事を話す。過去の記憶を思い返しながら話をしていると、次第に彼女の相槌は「うん」だけになっていた。

 「もう眠いのか?布団で寝る?」

 俺が話をやめて風香に尋ねると

 「ううん。続き話して」

 と、俺の肩に頭をもたれ掛けさせながら、寝入る前の吐息混じりの声で、そう答えた。

 肩の重さに愛おしさを感じながら、俺は改めて、俺のたった一人の大切な人である風香の負担を少しでも減らせるように、どんな些細なことにでも手を貸そうと気持ちを新たにした。

 手始めに、俺はほとんど子守唄を歌う気持ちで、続きを話すことにした。

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