第3章:現実見てもいいことないなら


「…………は?」


 目の前にあるのは、日に透かした魚卵のようなオレンジ色の球体。

 時折表面にノイズのようなものが走る半透明のそれの中で、淡い光に包まれている悠璃が穏やかに目を瞑ったまま、ゆらゆらと漂っている。

 何度目を擦ってみても、涙が出るほど頬をつねってみても、目の前の光景は変わらない。

 事態を飲みこめず立ち尽くす莉結を前に、無機質なアナウンス音声が鳴り響く。


『〈当該ユーザー:Y65535〉に〈神〉の権限を移行しています。今しばらくお待ちください。くりかえします。〈当該ユーザー:Y65535〉に〈神〉の権限を移行しています。今しばらく――――』


「いやいや、何の冗談……っ!?」


 タチの悪い冗談だと笑い飛ばそうとした莉結は悠璃に近づいて、立ち止まる。

 悠璃を包む半透明なオレンジの球体は、夥しい量の文字列だった。ノイズだと思っていたのは、文字と文字の間にできる空白だった。


「なんや、これ。意味わからん」


 いくらゲーム作りに不慣れな莉結でも、それがプログラムコードだということくらいわかる。

 けれど、わからないことがあった。


「……なんで、これが」


 なぜ。こんな形で、こんなところにがあるのか。

 だって、これは、


「悠璃の書いてたコードやん」


 なぜ。悠璃の被造物が悠璃を覆っている?


「わからん……なんも……」


 わからん。と、莉結がもう一度弱々よわよわしく呟いた。

 理解不能な事象に直面した人間が往々にして発するその言葉に――――


『〈当該ユーザー:R65535〉の〈code:Unknown意味不明〉を検知。現在データ移行中の〈当該ユーザー:Y65535〉に代わり、オブザーバーシステムが回答します』


 が応じた。


「え……なに? オブザーバー?」


 突然、莉結の前に白地のスクリーンが空中投影され、オブザーバーシステムと名乗ったモノが無機質な音声で返答をしていく。


『昨日、十九時四十五分三秒。本製品の起動を確認しました。


 同日、二十三時十四分五十五秒。〈当該ユーザー:Y65535〉のシステム管理プロトコル閲覧を確認しました。


 同日、二十三時五十五分十二秒。規定コマンドに則り〈当該ユーザー:R65535〉のチュートリアルプログラムを起動しました。


 同時刻。チュートリアルプログラム起動に際したシステム変更により〈当該ユーザー:Y65535〉およびメインシステムを制限しました。


 本日、五時四十八分十秒。〈当該ユーザー:Y65535〉へのデータ移行を開始しました。現在時点でのデータ移行率は99・4%。


 終了予想時刻は一分三十七秒後の六時五十一分二十五秒です。


 データ移行完了後、〈当該ユーザー:Y65535〉はメインシステムへと組み込まれ、〈当該ユーザー:R65535〉はチュートリアルプログラムを開始する予定です。


 以上、回答終了』


 図形と数字の並ぶスクリーンを前に莉結は立ち尽くしていた。


「………………なんや、それ。そんな。こんなん、」


 口を開くと、なおもわなないたままの唇の端が切れて出血した。

 けれどそんなの気にしない。

 自分のことなど、もはやどうでもよかった。

 肺腑の奥のさらに奥――――地底の先の地獄の底から滲み出るような声音で、言う。


「いつまで経ってもゲームのエンディングを見られないのも、


 両の手のひらを開閉するだけで不思議なこと起こせるのも、


 何のためゲームを作っているのかぜんぜんわからないのも、


 悠璃にゲーム画面見せたら意味深なことを言ってきたのも、


 なんでかわからんけど悠璃がウチのこと好いてくれんのも、


 なんでかわからんけど悠璃のこと気になって仕方ないのも!


 ――――――――――――ぜんっっっっっっぶ!!!!!!」


 莉結が立ち尽くしていたのは、困惑し、思考停止してしまったからなどではない。

 断じて、ない。

 ただ。

 ただ、巨大な失感情によって動けなかった。

 

 それでも信じたくなくて、莉結は頬をひきつらせながら問いかける。


「   ……ゲームだからってこと?   」


『肯定。現在、本製品が起動されてからは十一時間六分六秒が経過しています。


 ――――データ移行率100%到達。


 六時五十一分三十二秒。〈当該ユーザー:Y65535〉への〈神〉の権限移行を確認。


 これより、〈当該ユーザー:R65535〉のチュートリアルプログラムを開始します』


 無情なる言葉を最後に、オレンジ色の球体が光を増していく。

 同時に、巨大な機械が動き出すような、地の底から空の果てまでを余さず轟かせるような、静かで大きい音を立て始める。


 それは、無慈悲に世界が回り出す音だった。

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