君との契約
俺と夏生の間を、一陣の風が吹き抜けた。彼女の黒い髪が巻き上げられ、その隙間を花火から放たれた火の粉がチラチラと飛び交う。
「そっか。それで、聞きたいことって何?」
舞った髪を左手で抑えながら、彼女は微笑んだ。右手では白色のススキ花火が勢いよく光を放っており、それは風に煽られ、瞬く間に暗闇へと溶けていく。
「夏生は……この先、どうするつもりなんだ?」
月明かりを反射して輝く彼女の瞳を見据えて、俺は声を絞り出す。潮風のせいか、やけに喉が乾いていた。
「んー、この先っていうのはどういうこと?」
「もちろん、そのままの意味だ。この旅行が終わって、また日常に戻って、普通に過ごしていく……そんな、未来のことだ」
ゆっくりと、俺は言葉を吐き出した。自分の言葉なのに、まるで別の誰かが言っているみたいに、遠くから聞こえた。
夏生は、何も答えなかった。
潮騒が、二度、三度と辺りに響き、海風が慎ましやかに鳴き声を立てる。
いつの間にか、岡本や佐原さんも近くに来ていた。視界の端に映った二人は、心配そうな面持ちでこちらを見つめている。
「この旅行の間だけは……忘れていたかったな……」
さらに数瞬が過ぎ去った後、消え入るような声が、耳に届いた。そして――
「……私は、お別れするべきだと思う……かな」
聞きたくなかった言葉が、後に続いた。
胸が痛んだ。
昼間、ガレージまでの通路で「恋人関係にはなれない」と言われてから、察しはついていた。多分、離れたいとか言われるんだろうな、と思っていた。思っていたのに、準備はしていたはずなのに……やっぱり、心はどうしようもなく痛かった。
「理由を……聞かせてくれないか?」
それでも、なんとか言葉を紡ぎ出した。肋骨の下で、バクバクと心臓が暴れている。
「……私が――」
夏生は、まだ微笑んでいた。だけど、その口元は小さく、微かに震えているように見えた。
「――雪女だから、だよ」
理由なんて、わかっていた。
わかりきっていた。
だけど。言葉として形を帯びると、それはどうしようもないほど重く、心に響いた。
彼女の手元には、いつの間にか燃え尽きた花火の残骸だけが、残っていた。
*
「私ね、本当は……一年以上前に、佳生のこと、見つけていたんだ」
完全に燃え尽き、棒だけになった手持ち花火の欠片を見つめながら、夏生は言った。
「一年以上、前……?」
夏生の言葉を、すぐには飲み込めなかった。だって、俺たちが再会したのは四ヶ月前のはずだから。
「うん。私が……人の社会に紛れ込んで、いろいろと学んでいた時。……どうしたら佳生と一緒にいられるか、模索していた時だよ」
そう言うと、夏生はおもむろに立ち上がり、花火が並べられたシートに近づいた。そしてそのまま、棒だけになった手持ち花火を花火消化用のバケツにストンと放り込んだ。
「人の社会って、すごいね。大変なことも多いけど、みんながお互いに関わり合って、助け合って、懸命に生きてる」
こちらを振り向くことなく、今度は並べられた花火の中からひとつを選び、持ち上げる。あれは、打ち上げ花火だ。
「佳生も、病気が治ってからは高校に戻って、必死に勉強して、お医者さんになるための大学に入って、一生懸命頑張ってる」
チャッカマンも一緒に持ち、彼女は海の方へ。
「岡本くんは、作詞家になるために、お別れしたあの時からさらに頑張ってるんだよね。奈々ちゃんから、いろんなお話を聞いたよ。コンテストで最終選考まで残ったお話とか、天井まで積み上がった作詞ノートのこととか。あと……どこかに消えてしまった女の子を描いた歌詞のこととかも、ね」
浜辺にそっと花火を置き、導火線に火をつけて……
「そんな奈々ちゃんも、たくさんの小説を書いて、投稿して、賞にも応募して、頑張ってるんだよね。……本当に嬉しかった。やっぱり、ちょっと心配だったから」
パッと、噴出口から光が飛び出した。
その光は、暗闇を突き抜けて夜空へと昇り、弾けた。
一発、二発と、火の花が開く音が響いた。
――けれど。
誰も夜空には、目を向けていなかった。
彼女以外は――。
「でも私は……そんな中に、今まで独りで生きてきた雪女の私は……溶け込めないよ。絶対、頑張ってる佳生に……みんなに、迷惑をかけることになる」
「そんなこと……!」
「そんなこと、あるよ。あるの。それだけじゃない。もしかしたら、佳生を危険に晒してしまうかもしれない」
視線を夜空に留めたまま、早口に夏生は言った。
「どういう、ことだ……?」
俺を、危険に晒すかもしれない…?
意味がわからず、俺は呆けたように聞いた。
「……私は、雪女だから……生きるためには、この力を使うしかないの」
悲しげな声とともに、みるみる夏生の肌の色が、髪の色が、瞳の色が、変わっていく。
でも、変わったのはそれだけではなかった。
「私は……どこまでも雪女なんだ」
彼女の足元にある打ち上げ花火の箱が、凍り付いていた。本来ならあと数発あるはずの花火は、出てこない。まるで夏を閉じ込めたみたいに、沈黙していた。
「私は、この力が怖い。いつか、誰かを……私の大切な人を、傷つけてしまうんじゃないかって……」
青色の瞳が、俺を見据えた。月明かりの逆光でよく見えないけれど。確かに彼女は、夏生は――泣いていた。
「キャンプをした日の夜に抜け出していたのも、耐性が切れただけじゃない。寝ている間に、勝手に周囲を凍らせないか心配だったから……。奈々ちゃんたちに何かあったら、私は……」
彼女の瞳から次々に溢れてくる雫を止めたくて、俺は立ち上がり、近づこうとした。
でも、彼女はそれを許してはくれなかった。
頬を伝って流れる雫をそのままに、小さく首を横に振って、拒絶した。
「私は……雪女は……、独りで生きていける。だから、大丈夫。ボイスレコーダーでも、言ったでしょ? 私は……佳生から、みんなから、温かい思い出をたくさんもらった。
夏の空の下で、笑って生きることができた。それどころか、その後のおまけまでもらえた」
また、彼女は笑った。
目にいっぱいの涙を溜めて。
すごく、幸せそうに。
「本当に、嬉しくて、幸せだったから。私はもう大丈夫。
そして、佳生の病気も完治してる。
……契約は、終わったの。もう、私があなたのそばにいる理由はない。
だから、だからね……、もう、終わりにしよ――」
夏生が言葉を言い切る前に、俺は拒絶された境界を踏み越えて、彼女を抱きしめた。
肌寒い感触とともに、空からは季節外れの白い結晶が、舞い散り始めていた。
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