あなたとの約束


 凍てつくような寒さが、私の肌を刺してきていた。


 ただもちろん、文字通りの意味ではない。


 だって、私は雪女だから。寒さなんて、感じることはない。


 だけど、なぜだろう。


 いつ頃からか、たまに「寒い」と感じる時があった。



 今だって、そう。



「本当に、嬉しくて、幸せだったから。私はもう大丈夫――」



 心の中に優しく満ちている幸せと、どうしようもなく溢れてくる悲しさの狭間で、私は必死に幸せだけを切り取り、笑顔であろうとする。


 これは、偽りの笑顔じゃない。本当に、幸せなんだ。……幸せ、だったんだ。



「――契約は、終わったの。もう、私があなたのそばにいる理由はない」



 でも、どうしてか、寒い。


 寒いよ、佳生……。


 


 早く、終わりにしたかった。


 その理由に、私は心のどこかで、気づきたくないと思っていたから。


 このままずっと一緒にいると、気づいてしまいそうで。


 だから、だから……。



「だから、だからね……、もう、終わりにしよ――」



 それなのに……。


 私の周囲に漂っていた寒さに取って代わるように、柔らかな暖かさが私を包み込んだ。


 ずっと、何度も感じてきた、温もり。


 あまりにも多く、沢山の暖かさを、私は彼からもらっていた。


 彼と過ごした病室で。


 彼と手を繋いで歩いたひまわり畑で。


 彼と笑い合った、些細な会話で。


 彼と生きた、ひと夏の日常の中で――。



 いつしか、私は雪女であるにもかかわらず、この暖かさを心の底から欲するようになっていた。


 それは、嬉しくもある反面、それ以上に、怖かった。


 異質な存在で、何度も拒絶され、怖がられた妖怪である私が、彼の……みんなの日常に溶け込んで、それを壊してしまうんじゃないかと……怖くて怖くて、たまらなかった。


 だから、だから……だから――。


「やめて……離してよ……」


 私は、必死に抵抗した。彼から離れようともがいた。けれど、私の意に反して、それは自分でもわかるくらい、弱々しいものだった。


「やめない。離したくない。夏生には、そんな笑顔で、いてほしくない」


 強く、強く抱き締められる。


 今の私は、能力の制御なんてほとんどできてなくて、凍えるほど冷たいはずなのに。


「そんな笑顔って……私は、本当にっ、幸せで……っ!」


「ああ、知ってる。その笑顔は、幸せは、多分本物だってことくらい。だけど……それと同じくらい、悲しさも溢れてる」


 言われて、はたと気づいた。



 私は、泣いていた。



 一度意識すると、それはもう止まってくれなかった。


 あとからあとから溢れて、流れて、彼の服に染みを残した。


「これは、違うよ……嬉し、なみだ、なんだよ……」


 苦し紛れの言い訳を、彼の胸の中でこぼす。


「そっか。嬉し涙、か。……そうだよな、楽しかったもんな」


 そんな拙い私の言葉をそっと受け止めて、彼は懐かしむように言った。


「六月の最中に、病院の裏庭で、俺は君と出会った。ほんと、あの時は驚いたな。これから夏って時に、なぜか雪がちらついてるんだから」


「し、仕方ないじゃん。私、雪女で、あの頃はいるだけで気温とか、下げちゃってたし……」


 そう、だから。私はなるべく人通りが多いところには行かなかったし、どうしても通る必要がある時は姿を変えていた。


 私の姿を見れば、みんな怖がってしまうから。


 私の能力は、異常そのものだから。


 ただあの頃は、姿を人のそれに変える力も、ふとした拍子に元の姿に戻ってしまうほど、不安定だった。

 結局私は、佳生と裏庭で会うまで、独りで生きてきた。


「まぁな。でも俺は、あの時の雪に感謝してるんだぞ?」


「え?」


 初耳だった。

 驚いて、私は彼の胸に埋めていた顔を上げる。目が合った。彼の目は、優しい色を湛えて、私を見つめていた。


「知らなくて当たり前だ。言ってないんだし」


 少し視線を逸らしつつ、彼ははにかんだ。

 暗くてよく見えないけれど、おそらく、彼の頬は赤くなってそうだった。


「こう言っちゃなんだけど、俺と同じように日常から外れたものがすぐそばにいてくれたことは心強かったし、何より安心できたんだ。だから、ありがとう」


「そ、そんなこと……」


 突然のお礼に、私は戸惑った。

 どうしていきなり、こんなことを……?

 しかし彼は構うことなく、抱き締める力を少し強くして、言葉を続けた。

 

「それから契約を交わして、夏生と過ごす日々が始まった。ひまわり畑の周りを散歩したり、他愛のない話をしたり、キャンプに行ったり、花火を見たり……」


 彼が言葉を発するたびに白い息が漏れ、舞い落ちる雪に触れる。


「本当に、楽しかった。いつの間にか、死への準備期間だった入院生活が、そうじゃなくなってた。窓の外を眺めながら、鬱屈とした物思いにふけることもなくなってた。素直に、笑えるようになってたんだ。……最初は契約の内容なんて半信半疑で、生きたいっていう未練を断ち切るために始めたのに、な」


「え、それも初耳」


「あぁ、言ってないからな」


 さも当然のことのように、彼は言い放った。

 初めて聞く、再会した頃の佳生の気持ち。それらの断片は少しずつ感じてはいたけれど、直接彼の口から聞いたことはなかった。


「ね、ねぇ、佳生……どうして、こんなことを……?」


 やっぱり不思議に思って、尋ねてみる。

 少し身体を彼から離して、じっとを見上げる。


「……俺は、夏生がいなくなってすぐの頃、たくさんの後悔をした。

 もしあの時、夏生の変化に気づいていたら。

 もっと早く、契約の先を聞いていたら。

 もし俺が痛熱病なんかにならなければ……って」


 彼もまた少し身体を離して、だけど手は私の肩に置いたまま、私を見つめ返してきた。



「だけど、その中でも一番悔しかったのは……夏生に……俺のこれまでの想いを、気持ちを、感謝を、しっかりと伝えられなかったことだった」



 私と佳生の間。僅かに離れたその隙間を、潮風が駆け抜けた。




「俺がもっと早くに、この気持ちを伝えられていたら。好きだって、これからもずっと一緒にいたいって、もっと前に伝えられていたら……」




 彼の言葉が風に乗り、私の耳へと届く。




「夏生に、俺と出会ってくれてありがとうって……」




 今までと同じ優しさを携え、




「一緒に夏を過ごしてくれて」




 彼の口から紡がれたそのどれもが、




「楽しい思い出をたくさんくれて」




 変わらない温かさを含み、




「生きたいとまた思わせてくれて――」




 沁み込むように――




「――ありがとう、って」




 ――私の胸の中に、溶けてきた。




「夏生が俺のそばにいてくれて、俺のそばにいてくれたのが夏生で、本当に良かった。嬉しかった。幸せ、だった……!」


 彼の瞳からも、涙が零れていた。


 それははっとするほど綺麗で、透き通っていて。


 月の光を受けて、キラキラと瞬いていた。


「俺は、この幸せをこれからも感じていたい。共有していきたい。夏生と一緒に……笑っていたいんだ」


「かい、せい……」


 心がいっぱいになって、思わず大切な人の名前が漏れる。


「夏生言ってたよな、幸せになってほしいって。約束だって。

 ……傲慢かもしれないけれど、これが俺の本音で、幸せなんだ」


 そう言うと、彼は笑った。


 まるで、子どもみたいに無邪気な笑顔。


 ああ、そうだ。彼は、佳生は……こんな人だった。

 いつの日か見た彼の笑顔と、ぴったり重なった。夏の日差しよりも眩しくて、ずっと追い求めていた笑顔。私はこの笑顔が見たくて、あなたに会いに来たんだ。


「ううっ……私、わたしは……」


 今度は、本当に嬉し涙が流れた。溢れて溢れて、止まらなかった。


 やっと見れた。やっと昔みたいに笑ってくれた。


 あなたにそんなふうに笑ってほしくて、私も笑っていたんだよ。


「今度は、夏生の番だ。するべきとか、しなくちゃいけないとかじゃなくて……――夏生の正直な気持ちを聞かせてほしい」


「正直な、気持ち……」


 話して、いいのかな。

 小さな葛藤が、私の中に渦巻く。

 

 ずっと、消える未来が嫌だった。怖かった。

 佳生ともっと一緒にいたかったから。

 みんなで、もっといろんなことをしてみたかったから。


 だけど。消えることに、安心していた自分がいたのも、また事実だった。


 だって、こんなふうに悩まなくて済むから。


 佳生と……みんなと一緒にいることの難しさに、向き合わなくていいから。


 だから。またここで生きられるという奇跡を目の当たりにした時、嬉しい反面、とても苦しかった。


 どうして、消えたままにしてくれなかったのって、思った。

 どうして、私にまた夢をみせるのって、憎らしかった。

 どうして、どうして……って――。



 ――でも。



 そんな苦しみから救ってくれたのは、また彼の笑顔だった。



「私は……雪女なんだよ? さっきも言ったように、みんなと一緒にいてどうなるか分からないんだよ?」


「うん。知ってる。そしてそれは、俺たちだって同じだ。夏生みたいな力はないけど、それぞれがそれぞれの性格とか特徴を持ってて、それがどんな結果を生むか分からないでいる。そんな意味じゃ、俺たちの間に大きな差なんてない。

 それに、何かあったら俺が治す。痛熱病と雪女の能力には、何か繋がりがありそうだしな」


 ちょっと無責任だけど、私の不安にも力強く答えてくれる彼が、




「私は……失うのが怖い。今は、奇跡で一緒にいられているけど、この先はどうなるか分からないんだよ?」


「うん。それは、俺も怖い。一度経験しているから、余計に。

 ……けれど。いつか失うかもしれないから、大切なんだ。絶対に失わないものは、大切だなんて思わない。失うかもしれないからこそ、手放すんじゃなくて、大切にしていきたいんだ」

 

 身勝手に姿を消した私に、変わらない想いを伝えてくれる彼が、




「私は……わたしは……――」


 やっぱり、どうしようもなく、 




「――佳生と……みんなと、一緒にいたいっ……!」


 ――大好きなんだ。


 だから私は、葛藤の乗り越えて、言葉を紡いだ。



「夏生……っ!」


 再び、彼の腕が私を包み込む。

 海風でちらちらと揺れていた雪が、星空へと舞い上がった。



「ぐすっ……夏生ちゃん~~~っ!」


「わっ! 奈々ちゃん⁉」


 かけがえのない大切な人たちの、暖かくも冷たい手の感触を感じつつ。



「泣き虫になったな、霜谷」


「う、うるせーよ」


 徐々に戻ってくる夏の気配を愛おしく思いながら。



「また一緒にいような、夏生。――約束だ」


「ぐすっ…………うんっ!」




 私たちは年甲斐もなく無邪気に、笑い合った。




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