杞憂……?


「うーん……」


 意図せずに、そんな声が口から漏れる。べつに、今洗っているIH対応の土鍋の洗い方がわからないとかではない。……まぁ、底に付いている円盤型の黒いやつを取ろうと四苦八苦しているところではあるけど。


「あー、佳くん。それは取れないタイプの電気プレートだから、そのまま洗って大丈夫だよ〜」


 横で、洗い終わった茶碗やら皿の水気を布で拭き取っていた奈々が、呆れたように苦笑した。くそう、またかよ。もうこれで笑われたのは何回目だっけか。

 ただ、俺がべつの考え事をしていることまでは読み取れなかったみたいで、鼻歌を歌いながらまた自分の作業へと戻っていった。俺はほっと息をつき、残っている洗い物へと手を伸ばす。


「うーん……」


 どんどん落ちていく汚れとは対照的に、考えれば考えるほど溜まっていくモヤモヤ。俺が今悩んでいるのは、幼馴染の親友とその想い人についてだ。

 俺は数時間前、霜谷にもっと先のことを考えたほうがいいと口を出した。お節介だとも思ったが、傍から見ていて明らかにお互い好意があるにもかかわらず、今一歩踏み出せてないような、そんなもどかしさがあったからだ。


 そして。俺の言葉を受けてか、霜谷は行動を起こした。……いや、起こそうとしたが、起こせなかった。


 俺はその時たまたまガレージに用があり、内側から勝手口のドアを開けようとしていた。ドアノブに手をかけ、扉が数センチ開いた時、


 ――私は今、佳生と恋人関係にはなれないんだ。


 不規則なリズムを刻む雨音に混じって、そんな言葉が聞こえてきた。その後も何やら話し込んでいたが、最初の言葉が衝撃的過ぎて全く頭に入ってこなかった。


 恋人関係にはなれない? あんなに好き合っているのに?


 お互いの好意が実はナイチンゲール症候群か何かで、もうなくなったとかそんな可能性も考えたが、再会してからの二人の様子や今日の砂浜でのやり取りを見る限りそんなことは考えにくい。となると……


「うーん……」


「さっきから何をそんなに悩んでるの?」


「うわっ⁉」


 突然の声に、俺は手に持っていた皿を落としかけた。が、ギリギリのところで掴み直し、なんとか破砕音が室内に響くことは避けられた。


「いきなり話しかけるなよ、奈々」


「え、普通に話しかけたよ?」


「……マジ?」


「マジですぅ。もう、ボーっとして、どうしたの?」


 俺の理不尽な言葉に頬を膨らませながらも、奈々は心配そうに聞いてきた。

 話した方がいいのか? でも、余計な心配をさせるのもな……。うーん……


「もしかして、霜谷くんと、夏生ちゃんのこと?」


「うぇっ⁉」


 俺の気遣いも空しく、奈々は一発で言い当てた。さすがは俺の彼女。俺のことを既に半分ほど尻に引いているだけはある。


「それと、他に変なことも考えてる?」


「うえぇっっ⁉」


 うそだろ⁉


「佳くんはすぐ顔に出るんだよっ」


 ふふふっ、と可愛らしい微笑を零す奈々。惚れそう。いや、もう惚れてるか。


「あーあ。奈々には敵わねーな」


「そうそう。だから、ね? 私にも話してよ」


「わかった」


 それから俺は、奈々に全てを話した。幸いにも、当の二人はゴミ出しと買い出しに行っていていない。相談するなら、今しかなかった。


「――そっか、夏生ちゃんがそんなことを……」


 話を聞いた奈々の顔は、それとわかるほど暗くなっていた。


「ああ」


「だからさっきのご飯の時、二人ともちょっと変だったんだね……」


 奈々は、水気を拭き取ったばかりの土鍋に目をやった。つられて、俺も夜ご飯のやり取りを思い出す。

 夜ご飯は冷やし鍋だった。旅行の計画を練っている時、「お鍋って、冷たくても美味しいのかな?」という雪村さんの言葉を受けて決定した献立だった。暑い夏にピッタリの、あっさりとした冷たいお鍋。その食卓は温かく賑やかな会話が飛び交ってはいたが、どことなく影を落としていた。


「やっぱり、奈々もわかってたんだ」


「まぁ、なんとなくだったけど……。でも、どうしよう……私、さっきお風呂で夏生ちゃんに余計なこと言っちゃったかな……」


「余計なこと?」


「うん……もっと二人の関係を前に進めたほうがいいよ、みたいなこと……」


「いや、それを言ったら俺も似たようなこと霜谷に言ってるし……。それに二人のためを思って言ったんだろ? お節介癖は俺も反省しないとだけど、その思いまで反省することないと思うぞ。むしろ大切にしないと、だろ?」


 奈々のひどく落ち込んだ様子に、俺は思わずそんなことを口にしていた。


「……佳くん」


 すると、ポカーンとした表情を浮かべて、奈々が俺を見つめてきた。こんな状況だが、奈々が次に何を言わんとするかはすぐにわかった。


「ちょっとだけ、クサいと思う」


 だよな。


「うん、俺も言ってすぐ思った」


「ふふっ。でも、ありがと」


 そう言うと、奈々はクスリと短く笑った。


 そこで話が終わればただのカップルの慰め話で終わるのだが、現実はそうもいかない。その後、俺たちは雪村さんがあんなことを言った理由について、いろいろと予想を話し合った。


 関係を進める勇気が出ない、タイミングを逃している、恋愛経験がそもそもないからどうすればいいかわからない……などなど。

 結局、十五分ほどあれやこれやと理由を話し合ったが、これといったものはなかった。出たものはどれも可能性としてなくはないが、どことなく違う気がした。


「あとは、なんだろ……」


 少し高めのイスに腰掛け、視線を彷徨わせながら、奈々がポツリとつぶやいた。


 おそらく、ここまできたらお互い言わずともわかっている。

 考えられそうな、あまり考えたくない理由。だけど、話さないわけにはいかない理由。


「あとは……残る可能性としては、やっぱり――」


「――雪女と、人間……だよね」


 俺の言葉の続きを、奈々が答えた。


「……ああ」


「……っ、でも! 夏生ちゃんは成長して、自分の特性とかもそれなりに調整できるようになって……私たちみたいな姿にも、長い時間、なれるようになってるのに……!」


 堪りかねたように、奈々は叫んだ。その声は、少し震えていた。


「……それでも、だと思う」


 いくら成長して能力の使い勝手が良くなり、一緒に過ごしやすくなったとしても、二人の間には絶対的な違いがある。俺としても、その成長のこともあってそれほど深刻に考えず、霜谷にけしかけてしまった。

 でも、雪村さん自身にとっては、俺たち以上にそのことを気にしているのかもしれない。


 もしかしたら、雪村さんは……


「……ねぇ、佳くん?」


 その時、か細い声で、奈々は俺の名前を呼んだ。


「どした?」


「夏生ちゃん……またいなくなったり、しないよね……?」


 まさに今、俺の頭にも浮かんだ不安を、彼女は口にした。


「……っ、大丈夫だ! 二人はやっと会えたんだし! それに、俺たちの心配も所詮は推測! やっぱり、二人とも恋愛経験ゼロでまだどうしたらいいかわからない、とかかもしれねーし!」


「そ、そうだよね……!」


 不安を誤魔化すように、奈々は小さく笑った。俺もそれに応えるように、笑顔を作る。

 そうだ。まだ推測。きっと、普通に踏み込めてないだけ。


「あ、そういえばさっきお風呂で夏生ちゃんが、手繋いで散歩したり、買い物行ったりくらいしかしてないって言ってたよ!」


 思い出したように、奈々が言った。


「え。あいつら、中学生かよ」


「ふふっ、私と同じこと言ってる」


「だってそうだろ。普通もっと、こう……」


「佳くんも大概だけどね」


「うっ……奈々こそ!」


「ふふっ、そうだね〜」


 淀んだ空気を霧散させるように、俺たちは笑い合った。

 窓の外では、弱まった雨が辛抱強く、しとしとと降り続けていた。

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