見えない距離
夏生たちが何やらワァーキャーしながら風呂から出てきた後、俺と岡本はシート拭きを二人にバトンタッチしてから、それぞれ汗と雨水を洗い流した。……もちろん、別々に、だぞ? 銭湯ならまだしも、いくら広いとは言えさすがに夏生たちみたいなのはごめん被りたい。
風呂からあがると、二人は既にシート拭きを終えており、濡れたものや洗うもの、拭いて乾かすものなどの仕分けや、バーベキューセットの洗浄を始めていた。
「さすが、仕事早いなぁ」
「面倒事はすぐ終わらせたほうが楽だからねー。霜谷くんは夏生ちゃんの手伝いをお願い!」
そう言った佐原さんの顔には、何やら思わせぶりな微笑が携えられていた。良い予感がしなかったが、何度聞いてもより笑みを深めてはぐらかされるので、諦めることにした。
ちなみに、夏生はガレージで木炭の火の消え具合を確認しに行っているらしい。手伝うことあるか? なんて思ったりもしたが、とにかく行ってきてと押し切られた。
ガレージに行くには、廊下の端にある勝手口から一度外に出て、回り込む必要がある。といっても、ガレージまでは屋根付きの通路が伸びており、濡れることはない。
傘を持たずに手ぶらで廊下を通り抜け、勝手口の扉を開けると、遠くなっていた雨音がすぐ近くにまで迫ってきた。
「うわぁ……これ、明日大丈夫か」
さっき通った時よりも、雨足はさらに強くなっていた。午前中、貸し別荘に着いた時に香っていた潮の匂いは、雨の匂いに上書きされ、ほとんど感じられない。まだ夕方前だというのに空は夜のように暗く、雨水を乗せて吹き荒れる風は海岸林をざわざわと揺らしていた。
「明日、もしかしたら遊べないかもしれないね」
通路の半分くらいの位置で立ち止まっていると、不意に透き通った声が耳を衝いた。
「なんだ、夏生か」
「むっ、なんだとは失礼な」
むくれながらそう言うも、特段怒った様子はなかった。すぐに表情を戻すと、夏生は俺の隣まで来て、俺と同じように空に目を向けた。
「木炭はどうだった?」
「うん、大丈夫! すっかり消えてたよ。さすが佳生のお父さんの火消し壺だね!」
くしゃりと無垢な笑顔を浮かべて、彼女は言った。
火消し壺。その名の通り、火を消すための壺だ。火のついた木炭をそのまま壺に入れ、蓋をして密閉しておけば勝手に消火してくれるアウトドアグッズだ。
「あーあ。消えてなかったら、凍らせて消そうと思ってたのに」
「……いや、それは木炭が気の毒過ぎるだろ」
そんなどうでもいい冗談も言いながら、俺たちは通路の手すりにもたれかかり、降り頻る雨をしばらく眺めていた。その間、雨は弱まることも強まることもなく、一定のリズムで草木に、屋根に、地面に、打ちつけていた。
「そういえば、今は人の姿なんだな」
すぐ隣にいる夏生は、砂浜にいた時のような雪女の姿ではなかった。俺と同じ肌色に、黒い瞳と黒い髪。加えて言うなら、デニムのショートパンツに黒白のボーダーシャツと、何ら俺たちと変わらない年相応の女子の格好だった。
「うん。なんとなく、ね」
屋根から滴り落ちる水滴の行方を追うように、彼女は視線を伏せる。その動作に伴って肩口から艶やかな髪が流れ落ち、仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……ん? どしたの?」
「あ、いや……」
咄嗟に俺は視線を逸らした。と同時に、さっきまで静かだった心音が、急速に高鳴り始める。
不覚にも、俺は見惚れてしまっていた。さっきまでの無邪気で純真な表情とは違う、大人びた夏生の表情や、雰囲気に。
最近、こういったことが多くなっていた。
俺が入院していた頃。消える前の夏生には、そんな様相を見たことはなかった。どこまでも純粋で、天真爛漫で、あどけなさを残した明るい少女だった。
しかし。二年半ぶりに再会してからというもの、これまでの純真無垢な彼女の節々に、違った姿を見ることが多くなった。
婉容かつ、たおやかな雰囲気が、時節彼女から醸し出されていた。
あの時と同じように、ひまわり畑や公園を散歩している時も。ショッピングモールで、あれやこれやと悩んでいる時も。こうして、二人で話している時も。
彼女は、夏生は――確実に成長していた。
「そういえば、佳生はどうしてこっちに?」
思い出したように、夏生は尋ねた。
「あ、あぁ。夏生を手伝うように、佐原さんに言われて……」
俺はこの先、夏生とどんな関係でいたいんだろう。
つい先ほど、岡本と話したことが脳裏に浮かぶ。
「そうなんだ。まぁ、さっき言った通り、木炭はオッケーだったよ!」
夏生は短く笑って、人差し指と親指で作った丸を顔の横でひらひらさせた。その表情にはさっきまでの大人っぽさはない。
――お前、雪村さんとはどうなんよ?
岡本の言葉が、再度蘇った。
二年前。夏生が消える間際に伝えた俺の想いは、今も変わっていない。
ただ。それをはっきりと伝えることで、やっと戻ってきた大切な日常が変わってしまうような、そんな気がしていた。
それでも……――
「さっ、そろそろ戻って荷物整理さっさとやっちゃお! 夜ご飯の準備もあるし!」
夜ごはんは冷っやしなべ〜、とよくわからない歌を歌いながら、彼女は勝手口へと歩き始めた。
――パシッ。
雨音よりも小さな、微かな音が、通路に響いた。
「佳生……?」
突然手を掴まれたことに驚いたようで、彼女は呆けたように俺の名前を呼んだ。
「その……ちょっとだけ、話があるんだ」
それでも。俺は、彼女のことが好きだから……一緒に、いたい。それを俺は、伝えないといけない。
「……そっか」
彼女は俺の手を握り返すことなく、それだけをつぶやいた。
「私もね、話があるんだ」
俺を真っ直ぐ見据え、続けて放たれた彼女の言葉に――……俺は結局、想いを伝えられなかった。
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