迷い
先ほどの雨よりも一層激しい勢いで、水滴が弾ける。だけど、雨の匂いは一切しない。代わりに私の鼻先をくすぐるのは、シャンプーの香り。
「へぇー。このシャンプーの香り良いなー」
私も今度からこれにしようかな、と奈々ちゃんは貸し別荘にあったちょっとお洒落なシャンプーをまじまじと見つめる。
「シャンプー変えたら、岡本くんは気づくのかな?」
「うーん……気づいてほしいけど、佳くんはそういうの鈍感だからなぁ」
「そうなの?」
「そうだよー。この前だって――」
そんな会話が響くのは、貸し別荘の浴室。
ぽつぽつと降り始めた雨は、途中で激しい豪雨へと変貌し、貸し別荘に辿り着いたころには四人とも全身ずぶ濡れになっていた。「先に入って来いよ」という今話題の岡本くんのお言葉に甘え、「一緒に入ろうよ」という奈々ちゃんのお誘いに負けて、今に至る。
ちなみに、今の私は雪女の姿ではなく人の姿だ。さすがにお風呂となると、雪女の姿では文字通り、身体に毒だろうから。人の姿になれば……多分、大丈夫だと思う。
「――って、私の話ばっかりずるいよ! 夏生ちゃんは、霜谷くんと何かないの?」
雨の匂いを甘い花の香りへと代えた奈々ちゃんは、湯船から顔だけこちらに向けて尋ねてきた。
「へ?」
キュッ、とシャワーの蛇口を閉めてから、私は間抜けな声で聞き返した。
「へ? じゃなくて! 夏生ちゃんの色恋話!」
キラキラと輝く純粋な眼差し。以前と変わらない小動物っぽさと相まって、その眩しさは増し増しだ。
「いや、私は特には……」
そんなことを口にしつつも、思考の端で記憶の糸を手繰ってみる。
佳生と再会した時は、確かに嬉しかった。
あの時。佳生の病気を治そうと、最後の力を振り絞って能力を使っていた時に、私の中で何かが尽きたのが、わかったから。
ああ、消えるんだ。身体の先から大気と混ざり合い、これ以上ない多幸感と充実感に包まれながら。薄れゆく意識の中で、佳生に精一杯の感謝と、笑顔を贈って…………――気がつくと、私は雪の中に倒れていた。
正直、最初は何が何だかわからなかった。倒れている場所が消えた場所と同じであることと、雪が積もっているから今が冬であることと…………私の中に、変わらない記憶が残っていたこと以外は――。
それから少し調べて回って、消えてから三か月程度しか経っていないことと、佳生がどうやら退院しているらしいことが、わかった。
嬉しかったし、すごくホッとした。
大好きな人の病気が治って、契約をしっかりと完遂できて。
そして、それから…………私は――。
「――つはちゃん? 夏生ちゃん?」
「え! あ、なに?」
そこで、ハッと我に返った。
「大丈夫? どうかした?」
視線の先には、心配そうに私を見つめる奈々ちゃん。そこそこの時間が流れたのか、彼女の顔はさっきよりも幾分赤さが増しているような気がした。
「あ、ううん。大丈夫! 私と佳生でしょ? やっぱり特に何もないんだよね」
視界の端で自分の四肢を確認し、ほっと胸を撫で下ろす。大丈夫。前よりも成長して安定してるし、大丈夫。
「えぇー! 二人は最後の最後で、気持ちを伝え合ったのに? 二年以上経って、奇跡的に再会できたのにっ⁉ それで、何もないものなのっ⁉」
信じられないよ、と彼女は湯船から飛び出しそうな勢いで前のめりに聞いてきた。
「いや、その……お買い物に行ったり、手を繋いだり……あ、そう! ひまわり畑とか散歩したりはしたよ!」
「それじゃ中学生だよっ!」
奈々ちゃんのツッコミが、浴室に反響した。
続けて、私の慌てる声と、奈々ちゃんがアドバイスする声が、響く。
そう。本当に、この四か月間は、佳生が入院している時と変わらない日々を過ごしていた。私が、それをしたいって、言ったから。
「雪女でも何でも、夏生ちゃんはもう大人だよっ! 前に進まないとっ!」
「えぇー⁉︎ 恥ずかしいってー!」
私と佳生が再会したのは、四ヶ月前。
――だけど。
「よし。今日だよ、今日! 今日、関係を変えていこうよ!」
「えぇ、今日っ⁉」
私が、退院後の彼を見つけたのは――……一年以上、前だった。
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