想いを隠して


 その後も、何度かここで佳生を見かけた。彼を見るたびに、私は胸が痛くなった。力ない目に、ますます暗くなっていく表情。もう、見ていられなかった。


 今度は、私が彼を助ける。


 そう心に決め――現在。

 私は、裏庭で彼を待っていた。

 時間的に、彼はまだ来ない。


 少しくらい、ゆっくりしててもいいよね。


 彼がいつも座っているベンチに、そっと腰かける。ギギッ、と頼りない音が足元から聞こえた。

 いつかの彼がしていたように、私も空を見上げてみる。

 風を受けて流れゆく雲。その合間から、微かに見える太陽。

 あの日の彼は、この空を見て何を思っていたんだろう。

 考えてもわかるはずのない疑問が、頭をよぎる。それでも、考えずにはいられない。


「いつか、聞いてみようかな」


 そんな日が来れば、だけど。あるかもわからないひと時を想像し、苦笑したその時。肌に、何かが触れた。


「あれ?」


 その箇所に目を向ける……前に、一際目立つ白銀の肌が視界に入る。


 えっ、うそ! 戻っちゃった⁉


 だらんと投げ出していた四肢を慌てて動かし、木々の裏へと駆け込む。その間にも太陽の光は薄くなり、厚い雲が空を覆っていった。


 うう……どうしよう……。


 自力で人間の姿になるには、少しばかり時間がかかる。しかもそれは不安定で、何かの拍子に戻ってしまうことも珍しくない。成長に伴ってその回数は減ったが、それでもまだ多いのが現状だった。


 一度元に戻る? ……でも時間が……うう~、一旦帰ろうかな…………あ、でも戻らないと帰れないのか……


 人目を気にしつつあれこれと思案していると、唐突にギイッと病院側の扉が開いた。

 

    ***


「雪……だ」


 分厚い雲の下。六花がちらつく裏庭に、聞き覚えのある声が響いた。


「マジかよ。今って、六月……だよな?」


 佳生だ……っ!


 叫びそうになった口を、慌てて両手で押さえる。それでも、飛び出していきたい衝動は変わらずにうずいていた。


 佳生は静かに舞う雪をしばらく見つめると、徐にベンチへと近づき、さっきまで私がいた場所に座った。


 雪女の姿で座っていたから、霜ができているはず……怪しまれないかな……。


 そんな懸念が浮かぶも、彼は特に気にした様子もなく再び空を見上げた。そして、


「この雪も、俺も、似た者同士ってことか」


 自嘲気味に、そうつぶやいた。


 どういうことだろう。

 この雪のように、自分ももうすぐ消える。そういうことだろうか?

 あるいは、六月の雪という異端さや孤独さが、自分にも当てはまるとか、そういうこと?

 それとも……


 薄暗がりの樹木の影で、私は自問自答していた。でも、その中で導かれる答えはどれも悲しいものばかり。佳生には、あの頃のように笑っていてほしいのに。


 まだ、まだだよ……。もう少ししたら、人間の姿になれるから……。


 否定しに行きたい気持ちを、ぐっとこらえる。彼は一度、私を受け入れてくれた人。でも、もしかしたら今度は怖がられるかもしれない。そうなったら、私は……


「ぐうっっ⁉」


 その時。唐突に、苦しそうな悲鳴が私の耳に届いた。


「はぁ……はぁ……」


 見ると、佳生が胸を押さえてうずくまっていた。


 佳生っっ!


 すぐに飛び出していきたかった。調べた限りでは、私の能力で痛熱病を治せる可能性があった。今すぐ駆け寄って、痛熱病の熱と痛みから佳生を解放したかった。


 でも……


 私は、人間ではない。雪女だ。人間社会の常識から逸脱した、はみ出し者だ。そんな私が、純粋な人間の佳生と深く関わるわけにはいかない。


 早く、早く変わって……


 自分の肌を睨みつけ、心の中で急かす。


「あっ!」


 その時。彼の声が耳を衝いた。反射的に顔を上げると、佳生が地面に落ちている注射器に手を伸ばしていた。しかし、その指先は空中を彷徨い、注射器はベンチの下へと転がっていく。

 おそらく、発作を抑える薬。それが、彼の元からゆっくりと遠ざかっていく。だらんと首を垂れ、胸を押さえてさらに深くうずくまる彼の姿に、私はもう我慢できなかった。



    *



 本当は人間の姿で会って、こっそり治して、私の中にくすぶる願い事をちょっとだけ叶えて、すぐ逃げるつもりだったのに。


 近すぎない距離を保って、それなりの感情で別れるつもりだったのに。


 ――私ね、一度でいいから、真夏の空の下で生きてみたいんだ


 思わず口から零れてしまった、そんな言葉とともに。


 私の夏は、眩しすぎる希望と、濃すぎる影をはらんで、瞬く間に始まってしまったんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る