番外編 いつかの夏冬のこと

Side1 あの初夏の日のこと

神様の悪戯


 じんわりと熱を持つ陽光。

 この季節特有の湿り気に、どことなく生暖かい初夏の風。

 六月の梅雨時期。私は、青々とした稲に囲まれた、小さな畦道を歩いていた。


「んー。これくらいの気温なら、まだ大丈夫かな」


 雲間から顔を出す太陽に手をかざし、その熱を肌で感じてみる。うん、やっぱり大丈夫そう。肌色の指の間から漏れ出る日光に目を細めつつ、私は胸を撫で下ろした。

 あまり使わない人間の姿。まだ日の高いうちに、この姿で自分から町に降りるのは初めてだ。なんだか、ドキドキする。


 そんな不安と期待が入り混じった気持ちを紛らわせるように、私は歩調を早めた。狭い畦道を抜け、舗装された道路を渡って数回角を曲がると、目的の建物が見えてきた。


「ほわぁ~。やっぱり、いつ見ても大きいな~」


 白を基調とした清潔感のある大きな外壁。いったい何個あるんだろうと数えたくなるくらい多い窓。しかも一階のはかなり大きく、中の様子までくっきりと見えるくらい透き通っている。


「キャンプ場にある建物とは全然違う!」


 前に来た時は夜だったからよく見えなかったが、ここまで綺麗だとは思わなかった。つい気分が高揚し、まじまじと見てしまう。


「あ……」


 その時、透明のガラス扉が勝手に開き、中から人が出てきた。女の人。四十歳くらいだろうか。


「あの、何か?」


 私の視線が気になったのか、その女性は怪訝そうな顔つきで声をかけてきた。


「あ、いえ! なんでもないです!」


 突然のことにびっくりし、私はそれだけ言うと急いでその場を後にした。近くにある茂みに沿って走り、なるべく彼女から距離を取ろうと途中の切れ目から中に入る。


 あー、怖かった……。でも、怖がられなかったし、見た目は大丈夫だよね……。


 この時の私は逃げることに必死で、無意識に自分の姿が異形の色へと変化し始めてしまっていることに、気づけなかった。


    ***


 茂みの切れ目から真っ直ぐ。まるで獣が通ったかのような穴をひたすらに進むと、途端に開けた場所に出た。


「あ、ここだ」


 くたびれた芝生に、所々が朽ちた小さなベンチ。後ろを振り向くと、ボロボロになった垣根と緑色の葉を茂らせた木々が、この場所を取り囲むようにして生えている。


「病院の、裏庭……」



 数か月前の夕方のこと。

 人について知るために時間をかけて町に降り、この付近を散策していた時。私は道に迷ってしまい、偶然ここに入り込んだ。これからいろいろ見ようと意気込んでいたのに、出鼻をくじかれたような思いだったのを覚えている。でも、そこで私は、奇跡とも言うべき運命の悪戯に遭遇してしまう。


 迷い込んだ私は、とりあえず中を見てみようと思った。が、垣根に空いた穴から顔を出した時、少し離れたベンチで誰かが空を眺めていた。

 まずい。こんな侵入しているみたいな状況を、他の人に見られるわけにはいかない。もし見られでもして捕まれば、正体がバレる可能性だってある。そう思って遠目から様子を伺い――驚愕した。


 え…………かい、せい……?


 薄暗がりで見えにくく、以前会った時とは比べ物にならないくらい成長しているとは言え、唯一私のことを受け入れてくれた人の顔を、忘れるはずがなかった。


 間違いない。あれは、佳生だ!


 言葉ではとても言い表せないくらいの喜びが、心の中を駆け巡る。反射的に飛び出し、彼に抱き付きたくなった私の衝動を抑えたのは、昔の彼とは一線を画したその雰囲気だった。


 なんだか、とっても辛そう……。それに、どうして病院に……?


 私の知る限り、病院とは何かしらの病気やケガを治しに来るところだ。もちろん、健康な人がお見舞いという形で訪れることもある。けれど、佳生の服装はどう見たって普段着ではない。おそらく、この病院に入院している人が着ている服だ。


 ――なんで、俺は痛熱病なんかになっちまったんだろ……


 幼い日の面影が残る顔とは異なり、その声色は以前の明るさを微塵も残していなかった。暗く物憂げな声に、全てを諦め切ったかのような面差し。私にかけがえのない名前と暖かさを与えてくれた彼は、そこにはいなかった。


 それから間もなくして、佳生は病院の中に戻っていった。結局私は、最後まで彼の前に出て行かなかった…………というより、出て行けなかった。だって、涙でぐしゃぐしゃにした顔なんかで、七年来の再会をしたくなかったから……。

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