第64話 夏の終わり


 最初、俺は夏生が何を言っているのかわからなかった。


「消える……? 消えるって、どういう意味だ……?」


「そのままの意味だよ。私は……多分だけど、いなくなっちゃう」


 困ったような笑みを、夏生は浮かべた。


 なんで、笑えるんだ……?


 イライラした。でもそれ以上に、心の奥底から悲しみが湧き上がってきた。

 こらえきれずに、俺は飛び起きた。


「な、なんで……?」


 なんで、もっと早くに言ってくれなかった?

 なんで、そんなに冷静なんだ?

 なんで……消えるんだ?


 いろんな疑問が一気に襲ってきた。でもなぜか、どれも喉の奥につっかえたように、言葉として出てこなかった。


「最初……病院の裏庭で、私と会った日のこと、覚えてる?」


 唐突に、夏生はそんなことを聞いてきた。


「ああ、覚えてる……忘れるわけ、ないだろ……っ!」


 六月なのに、気温が十度とかわけのわからない低さだった。母親からそのことを聞いた俺は興味がわいて裏庭に行って、雪がちらつく曇天の中……夏生と出会った。


「私はあの時、佳生の発作を抑えた。でも本当はね、治そうとしたの」


「え?」


「佳生の病気を治すことが、私の本当の願いだったから。でもその時にね、気づいちゃったんだ。私自身の力、生命力みたいなものが、弱まっちゃったことに」


 初めて聞く事実に、俺は呆然とした。


「次の日に私と会った時…………ううん、その後も。キャンプの時とか、ショッピングモールで奈々ちゃんを探してた時とか、私がこの姿なのに、雪が降ってなかったでしょ? あれ、私の中の力が弱まっちゃったからなんだ」


「うそ……だろ……?」


 やっとそれだけを言った俺に、無情にも夏生は首を横に振った。


「発作を抑えるだけならそんなに減らないんだけど、治すとなると話は別なんだ。それで、ここ数日に少しずつ佳生の病気を治してきて、ほとんど確信したの。私は……佳生の病気を完治させると同時に、消えちゃうだろうな……って」


 苦笑いを浮かべて、一息に彼女はそう言った。


「だから……一緒にはいれない…………ごめん、ね?」


 何度も見てきた、人懐っこい笑顔。太陽のような、ひまわりのようなその笑顔に幾度も救われたのに、今はただひたすらに残酷で、心をえぐる表情だった。


「うそだ……うそだうそだうそだうそだうそだっ!」


 立膝をついたまま、俺は彼女の肩に掴みかかった。


「俺は絶対認めねぇぞ、そんなこと! それは、俺の代わりに夏生が死ぬってことじゃねえかっ! そんなことをして、俺が喜ぶとでも思ってんのかよっ⁉」


「佳生、それは違う――」


「違わねえだろっっ!」


 夏生の言葉を遮って、俺は叫んだ。


「なんでもっと早く言ってくれなかった? なんでもっと前に相談してくれなかった? もしかしたら、他の方法があったかもしれないだろ⁉」


 俺は、溢れ出てくる言葉を吐露した。


「なんでこんなに親しくなったんだよ⁉ なんでこんなに思い出をたくさん作ったんだよ⁉」


 一息に、まくしたてた。


「なんで、なんでっ……なんで俺は……夏生のことを、好きになっちまったんだよ……」


 声が震えて、視界がぼやけた。

 受け入れられなかった。

 信じたくなかった。

 信じてしまったら、認めてしまったら、すぐにでも夏生が消えてしまうような……そんな気がした。


「……ごめんね」


 彼女の肩に手を置き、俯いて涙を流す俺を、夏生はそっと抱きしめた。


「ほんとはね、ここまで親しくなるつもりはなかった」


 俺の背中を優しく撫でながら、夏生は言った。


「適度な距離を保って、時が来たら治して、消えるつもりだった」


 彼女はとても冷たかったけど、それは前よりも、弱くなっているような気がした。


「それなのに……やっぱり私は、あなたのことが好きになってしまって……もっと知りたい、もっと一緒にいたいって、思ってしまった。いつかは離れちゃうって、わかってたはずなのに……」


 夏生の声も、震えていた。


「だから、岡本くんや奈々ちゃんに見られたあの日のことは、いいきっかけだと思ったの。これ以上辛くならないように……佳生の病気をこっそり治して、消えるはずだった……」


 言葉のひとつひとつを噛み締めるように、夏生は続ける。


「でも私は……最後にもうちょっとだけ……あとほんの少しだけでいいから、佳生と一緒にいたいって……思ってしまった。すぐに治せばいいのに、十日以上もかけて……」


 夏生も、泣いているみたいだった。


「そうしてグズグズしてたら、佳生が来ちゃうんだもん……ほんとダメだな、私……」


 そこで夏生は、抱きしめる手を緩めた。俺も顔を上げ、彼女を真っ直ぐ見据える。


「なんで私は……佳生のことを、好きになっちゃったんだろうね……」


 目と目が合った。

 彼女の青い瞳からも、とめどなく涙が溢れていた。

 俺の視界も、涙でいっぱいだった。


「俺は……夏生と離れたくない」


「……ありがとう。私も、離れたくないよ…………でも、わかって……」


 直後。全身を鉄板で焼かれたような痛みが駆け巡った。あまりの痛さに俺はバランスが保てなくなり、彼女に倒れ掛かった。


「はぁ、はぁ……な、なんで……」


「時間、みたいだね……。佳生の病気は、実はほとんど末期なの。今すぐ治さないと、次は命が危なくなる」


「……え?」


 言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。


「佳生……今まで、ありがとう」


「待っ――」


 夏生の横顔が映っていた視界が、白に染まった。

 ほぼ同時に、唇に冷たい感触があった。


 ――なつ、は……?


 キスを、された。


 柔らかくて、ひんやりとした感覚。

 優しくて、でもどこかそれは、脆くて…………


 ………………え?


 刹那。冷たい何かが、身体の中で弾けた。


 それに伴って、今度は熱い何かが次々と分裂しては蒸発していく。


 身体の中で起こっていることなのに、その様子が手に取るようにわかった。


「っ……!」


 その意味を理解して、俺は急いで顔を離した。


「ふふっ」


 夏生の身体が、透けていた。


「夏生、まさかっ……?」


「契約、終わっちゃったね……」


 夏生の身体から、白くて細かい粒が立ち昇っていた。


「でもね佳生、これだけは忘れないで。雪はね、溶けて消えても、また雪になるんだよ」


 そう言うと、夏生は俺に抱きついてきた。


 でも、そこにあるはずの感触は、微塵も感じられなかった。


「なつは……夏生っっ!」


 離れたくない、離したくない彼女を、必死に抱きしめた。


 感触はなくとも、確かに彼女は、そこにいた。


「佳生……っ! 本当に、ありがとう……っ! 私に、夏を生きさせてくれて……!」



 最後に見た夏生の笑顔は、この世のなによりも、綺麗だった。

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