第9話 生への端緒


「いやいやいや、待って。めっちゃ怖いんだけど」


「男の子がそんな情けないこと言わない!」


 彼女は理不尽な言葉を叫ぶと、おもむろに俺の手を握った。


「え?」


「こうしないと、もらえないから」


 短くそう言うと、彼女は握った手に力を込めた。


「ちょっ、まさかの強制?」


 未知へのささやかな恐怖が、俺を包み込む。


「痛くないから、じっとしてて」


 俺が反抗する間もなく、雪女はその耐性とやらを吸収し始めた。

 彼女の白い肌が淡く光ったかと思うと、色が肌色へと変わり始めた。髪の色や目の色まで、人間とは違うあらゆる異質な色が、人間のそれへと変化していく。

 一方、俺自身の方は特に何かを感じるでもなく、なんの変化も起きていなかった。

 わけもわからず、俺は呆然として突っ立っていたが、すぐに手は離された。


「はい、おしまい」


「え、もう?」


 ものの三分もしないうちに終わった。多分、カップラーメンができるより早い。

 彼女の方を見ると、その容貌や風体が明らかに変わっていた。透き通るような艶のある長い黒髪に、大きな黒い瞳。健康そうで血色の良い肌色と、それに映える純白のワンピースが印象的な少女へと、変貌していた。


「うそ、だろ……?」


 俺は驚きで、それだけ言うのがやっとだった。


「へへーん。ほんとーでしたー」


 してやったりといったような、得意げな笑みを彼女は浮かべた。


「どう? どう?」


 そのままくるくるとその場で回りながら、感想を俺に求めてくる。


「どうって言われても……」


 俺は、変身したことに対する返答よりも、目の前で起きている夢のような現実の出来事に困惑していた。

 どこのファンタジー映画だ、と思ったが、ここまでされるともはや逃げ場はなく、観念するしかなかった。


「えっと、契約、だったか?」


「先に見た目についての感想がほしかったんだけどなー。でも、そう。ね? お願いっ!」


 少し上目づかいに頼み込む雪女の少女。なんでそんなところは妙に女の子っぽいんだと思いながらも、俺の心は決まった。

 が、ここで少し焦らしてみようかという悪戯心も、同時に芽生えてしまった。


「んー、どうしよっかなー」


 俺は少しわざとらしく、悩むふりをした。


「えー! お願いー」


 そんな俺の思惑を気にする様子もなく、彼女は懇願するように言った。


「んーじゃあさ、いくつか質問いい?」


「うんいいよ! どうぞどうぞ」


 なんでも聞いて! と彼女は胸をそらした。せっかくなので、契約とはなんの関係もない、雪女あれこれについて俺は聞くことにした。


「まず、雪女って夏の間どこにいるの?」


「えーとね、涼しい森の中とか、洞窟の中とか、そういうとこにいるよ」


「へぇー」


 冬眠ならぬ夏眠だな、と思った。


「んじゃ二つ目。雪女じゃなくて雪男っているの?」


「んー、どうなんだろ? ごめん、私も見たことないからわからないけど、いるんじゃないかな?」


「曖昧だな」


 ほんとに雪女なんだろうか、という疑念が一瞬よぎったが、昔話でもあまり聞かないので個体数が少ないだけかもしれない、と思い直した。


「よし、三つ目。雪女って他に何人くらいいるの?」


「んー、実は私会ったことなくて……って、契約に関係ある? この質問」


 彼女は今気づいたみたいに、顔をしかめて聞いてきた。


「やっと気づいたのかよ」


 俺は笑いをこらえるように言った。


「ちょっと! 私だってこう見えて一生懸命やってるのにっ!」


「まあまあ」


 騒ぐ彼女をなんとかなだめながら、俺はこらきれずに笑った。なんだか久しぶりに、笑った気がした。


「まっ、どうせ散る命だ。病気ごときに奪われるくらいなら、かわいい雪の妖怪にささげた方がマシだな」


 笑いをなんとか静めて、俺は数分前に既に決心していたことを口にした。


「なんかその言い方、すごくむかつくんだけどな」


「まあまあ、いいじゃないか」


 ふくれっ面をした彼女をたしなめつつ、俺は右手を差し出した。


「短い間だけど、よろしくな」


「うん、よろしく! あと、佳生の病気は私が治すから心配しないでね」


「まぁ期待しないでおくよ」


 またぷりぷり怒り出した彼女を尻目に、俺は、静かに流れゆく雲を、落ち着いた心持ちで眺めていた。

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