第10話 ひまわり


「わぁ! すごい!」


 人間になった雪女は、一面に広がるひまわり畑に歓声をあげた。

 今俺たちはこっそりと病院を抜け出し、そのまま裏手にある小道を通ってひまわり畑へと来ていた。そこには、黄色い絨毯じゅうたんが敷かれたように、あたり一面に見事なひまわりが咲き乱れていた。


「すごいだろ? 病院に来るときに一度見てさ、すごく感動したんだ」


 体調不良で、検査を受けるために病院を訪れた日のことを思い出す。あの時はまさか自分が不治の病にかかっているなど想像もしていなかった。


「もうすごいとしか言いようがないよこれは! すっごく綺麗……っ!」


 彼女は喜色満面の笑顔でそう答えた。まさにひまわりのような笑顔だな、と思った。


「そっか」


 俺も笑みを浮かべて相槌を返す。過去のことを思い出して一瞬沈みかけていた気持ちが、彼女の明るい笑顔のおかげでいくらか楽になった気がした。

 そのまま俺たちは、ゆっくりとした足取りでひまわり畑の周りを歩いていく。昼頃の定期検査を終え、次に看護師さんが来るまでまだかなり時間があった。


「そういえばさ、ひまわりは見たことなかったの?」


 ふと思いついて、俺は聞いた。今まで夏の間は森や洞窟の中で過ごしてきたなら、ひまわりそのものを見るのが初めてなんじゃないか、と思ったのだ。


「ううん、大きいのは遠くからちょっとだけ見たことあるよ。でもこんな近くで、それもあたり一面に咲いた大きなひまわりは初めて!」


 彼女は、まるで無邪気な子どものようにはしゃぎながらそう答えた。なんだかそれだけで、彼女が夏に対していだいている憧れの大きさをうかがい知ることができた。

 そんな彼女の様子を見ていて、俺はあることに気がついた。


「あれ? そういや、なんでおまえがいるのに気温が下がらないんだ?」


 今、俺は全身汗だくになっていた。病衣がピタリと肌に張り付く感触が気持ち悪い。昨日気温が十度とか言ったやつはいったい誰なんだ、と恨めしく思うくらいに、とにかく暑かった。


「あれ? 言わなかったっけ? 私がこの姿の時は気温下がったりしないんだよ?」


 嬉しそうに笑いながら、彼女はそう言った。


「なにー! 俺の動くエアコンがーー!」


 衝撃だった。全くもって聞いていない。


「え、ひどっ! 私のことそんな風に思ってたの⁉」


 彼女は眉間いっぱいにしわを寄せて、ずいっと顔を近づけてきた。


「え? 他に何が?」


 もちろん冗談だが、ここはリクエストにお応えしてとぼけたように答えた。


「佳生くん? 氷像になるのと氷漬けになるの、どっちがいい?」


 底冷えするような声で、彼女はそう言い放った。


「大して変わんなくね⁉ つーか、おまえが言うとシャレにならないからやめろ」


 満面の笑みで笑えない冗談を言う彼女に、俺はなんとか取り繕うことしかできなかった。

 そんなやりとりを続けながら、俺たちは緩やかな坂道を下っていった。このまま先に行くと小さな空き地があって、休みの日にはいろいろなイベントをしている。といっても、俺は病衣のままだし、次の問診の時間までには戻らないといけないので、そこまで行くつもりはなかった。

 時間的にもそろそろ折り返した方がいいかなと思ったところで、あの憎らしい発作が突如襲ってきた。


「うっ……」


 痛みと熱さのあまり、思わずうずくまる。昨日のやつほどじゃないが、この痛みと熱さは何回経験しても慣れない。


「佳生っ!」


 彼女はすぐに駆け寄ってきて、俺の背中と太ももに手をあてた。すると、俺の全身を駆けずり回っていた痛みと熱さが、うそのように引いていった。


「はぁ、はぁ……。ごめん、ありがと」


 お礼を言いつつ、俺は額に浮き出た汗を拭った。


「気にしないで。これも契約のうちなんだから」


 心配そうな表情をしながらも、彼女は明るくそう言った。


「さすがは俺の動く鎮静剤機だ」


「……殴ってもいいかな?」


「代わりに耐性でも持っていってくれ」


 服の乱れを整えながら、俺はなんとか立ち上がった。軽く胸を押さえてみたが、苦しくはなかった。発作の症状は、完全に治まっていた。


「大丈夫?」


「うん、大丈夫。それより、そろそろ戻ろうか?」


「え! もうそんな時間⁉」


 俺の体調をおもんばかる表情から一転、彼女は心から残念そうにうなだれた。綺麗な黒髪が、肩口からさらりと落ちる。


「帰る時間も考えると、そろそろ行かないとなんだよ」


 彼女を安心させる意味でも、俺は笑いながらそう言った。


「えー、もうちょっとだけ歩かない?」


「帰りも歩きだから、それで勘弁してくれ」


 俺は、まだしぶる彼女をなだめながら、去年とは違う、これからのひと夏へと思いをはせていた。

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