第49話:かぷ・えん(Couple engagement)
仕事が休みの朝、思わぬ来客に背中が凍った。
「まさか、こんなところに潜んでいたとは思わなかったぞ…」
「散々探して、ようやく見つかったわけだ」
「子会社である櫟託送便の旧本社ビル、現・
そう。逃げて住み始めたのは、あたしの両親が勤めている…そして隆紫が取締役をしていた会社のすぐ隣だった。
「儂は変だと思ったのだ!
あの駆け落ちした後の数日は、単に婚前旅行と称したおでかけだった。
その後、別の旅券屋で発行したチケットであたしと隆紫の地元付近へ戻った。
「あれくらいのミスリードは見抜いて然るべきではないかな?おやじ殿」
ぐぬぬ、と悔しさを全開にした表情で隆紫を睨みつける。
「戻ってこい、隆紫」
「断る。茜と離れるくらいなら、明先と縁を切ったほうがマシだ。それにもうあれから100日が経過している。もうゲームオーバーだ」
「くっ…」
歯噛みをする青慈さん。
「もういい、話にならん。何が何でも戻ってきてもらうぞ!来いお前たち!」
思わず身構えるあたし。
対して、隆紫はリラックスした姿勢のまま動かない。
「…?…おい!聞こえないのか!?」
外へ向かって大声で叫ぶ声に、応える人はいない。
「無駄ですよ。大旦那様」
っ!!?
もはや聞き慣れた
スパン!と音を立てて、引き戸の押入れから猿楽さんがニュッと現れた。
「どこから出てきてるのよー!!」
思わず全力でツッコんでしまう。
「もう終わりか。つまらんな」
続いて官司さんまで押入れから躍り出る。
「なんで二人とも押入れに隠れているのよっ!?そもそもこんなガタイいい人が二人も入れるほど、この押入れ広くないはずよっ!!?」
「ご安心を。この押し入れは隣とつながっておりますゆえ」
と言って猿楽さんは押入れの奥をパタパタとドアみたいに開いたり閉じたりしていた。
「何で隣の壁ぶち抜いてるのよ~!?ここは忍者屋敷かっ!?」
「猿楽と官司は隣に住んでもらっていた。いつでも駆けつけられるようにね」
「隆紫~!!あんたの仕業か!!」
なんかツッコむのが疲れ始めた頃
「表で待っていた方々は少々眠っていただきました」
「足音すら立てないよう片付けるのは骨でしたがな」
猿楽さんと官司さんの超人じみたコメントに、もはやツッコむ気力すら無くなってしまった。
「さて、実力行使が無駄とわかっていただけたかな?おやじ殿」
さっきまでの威勢はどこへやら。
すっかり腰が引けてしまっている青慈さん。
おもむろに膝をつき、両手を揃えて頭を下げた。
「隆紫よ、戻ってきてくれ。このとおりだ」
「…だったら条件をつけようじゃないか。僕たちは必死になって条件を満たした。次は親父の本気を見せてもらう」
「どんな条件だ」
頭を下げたまま、問いかけてくる。
「次の決算で明先の連結決算、前年比120%成長だ」
「馬鹿なっ!105%成長が限界だっ!!死にものぐるいでも110%がせいぜいだっ!」
頭を上げて講義を始める親父。
「僕だって死にものぐるいで飛び級と主席卒業をした。それは茜も同じだ。どうせできないと高をくくっていたんだろう?それでも僕たちは高すぎるハードルに負けず成し遂げた。そんなおやじ殿が自分から高いハードルのクリアができないなんて言わないだろう?」
「110%にしてくれっ!」
「譲らない。120%だ。約束を破った分だけ高いハードルを置いた。死にものぐるいで飛び越えてみせろ。これが条件だ」
「ただいま、
「
あれからもあたしたちは、保険として住み始めた2DKの部屋で暮らしている。
実家との連絡も断っていたから、連絡した時はすごく心配されてしまった。
大学は寮住まいだったせいもあり、就職先の話もしていなかったので連絡手段がなくて、警察に捜索願まで出していたらしい。
けど結局探し当てられる前に隆紫が仕掛けたゲームは終わり、捜索の取り下げをしに行くことになった。あたしも同伴で。
あの日…
「120%成長だ。それが飲めないなら、僕は茜と一緒に今度こそ駆け落ちする」
「く…その女とは、別れるのか?」
「まずは結果を出せ。話はそれからだ。約束を守れないおやじ殿」
あたしと別れさせられるかもしれない、マズイ流れではあるものの明言は避けた。
その目は、冷たかった。
今までそんな目を見たことはなかった。
あたしが危険な目にあった時に助けてくれたことが何度もあったけど、その時は冷たいのではなく、熱い目だった。
圧倒的に不利な立場となってしまったものの、連れ戻すのは極めて困難となった状態では、条件を飲まざるを得なかったらしい。
「…わかった。だが屋敷には戻ってもらうぞっ!!それは今この場で確約せよ!!」
「ああ、二言はない。おやじ殿と違ってな」
いちいちトゲを突き刺す隆紫の態度に、苦虫を噛み潰したような顔をしつつあたしたちの前から姿を消した。
…もし本当に120%成長を成し遂げたら…あたしはどうなってしまうんだろう?
隆紫は絶対に無理と断言していたけど、絶対なんてありえない。
達成したら、少なくとも屋敷には戻ってしまう。
その時、あたしの居場所はあるのだろうか。
5年前みたいに、留守の間を使って家財一式を返されてしまったときのように、追い出されてしまうかも…。
「ただいまーって、隆紫はまだ戻ってないわね」
仕事から帰ってきて、夕食の準備を始めることにした。
「あれ?塩切らしちゃった…明日の朝も使うから忘れないうちに買っておかなきゃ」
あたしは財布とマイバッグを持って近所のお店へ向かう。
?
通りすがる人が、あたしを変な目で見ている気がする。
仕事は8時スタートの16時エンドで時間はまだ16時台。
こんな時間に歩き回ってるのは、平日休みか主婦かそういう事情の人くらい。
それぞれの事情があるから、あまり気にしないでいた。
買い物を終えた帰り道。
結局あたしに向けられる好奇の目は止まらず、帰り道でも驚いた様子で見られたり、2度見されたりしている。
行き交う人の中で、見覚えのある顔があった。
「久しぶり、真弓さん」
「………」
きょとんとした顔で見られて、まばたき二回の後
「く…
「はい。久しぶりです」
「…そ…その格好は何っ?」
「格好?」
言われて、あたしの服を見る。
「っ!!?」
黒いふんわりしたワンピースに白いエプロンドレス。頭にはホワイトブリムを着けたままのメイド服姿だったことにやっと気づいた。
だから周囲が好奇の目であたしを見ていたのっ!?
同棲してる今も、隆紫のお世話をする時にはいつもこの姿だった。
とはいえ自分で着たいから着てるんだけど。
「しまった!着替えるの忘れてたわ!!」
「何…どうしたのその服っ!?」
「お願い!このことは忘れて!」
「無理っ。一生忘れそうにないっ」
「お願い!忘れて!」
「はははっ!そりゃ傑作だ!」
「もうー、本当に恥ずかしかったんだからね」
帰ってきた隆紫にこのことを話したら、思いっきり笑われた。
そして、一年が過ぎようとした。
「隆紫、お前の決めた期日が迫っている…」
「残念だったな。決算書の途中報告を見ているけど、117%までは追い込めるようだけど、120%はわずかに届かないようだ」
「これで十分だろうっ!?117%まで届かせたんだっ!!」
「いや、条件は120%で飲んだだろう?結果が出せてない以上、僕が戻る約束は成立しない」
隆紫は冷たく言い放ち
「というわけだ、茜。君の両親は心配だけど、一緒にいる時間は今と変わらないでいられる」
「うん。あたしもそのほうがいいわ。一緒にいられることのほうが、資産や財産より大切だもの」
「茜…くん…君は…」
「さてと、こいつを見てもらおうか」
隆紫は紙を二枚取り出して、親父の目の前へ置く。
「これは…?」
「僕の作った会社さ。アメリカ留学とほぼ同時に立ち上げた会社で、この展開を予想して仕込んでおいた。RME(Ryuji Myosen Estate)という不動産会社だ」
「それを…どうしようというのだ」
「かんたんなことさ。僕はこの一年、発破をかけてRMEの業績を大幅に伸ばした。この紙はRMEを明先グループの連結子会社化する契約書だ。あいにく、親父は知っているはずもない。
隆紫…いつの間にそんなことを…。
「ただでその判を押すつもりは無いようだな…」
「ああ、もちろんさ。条件は一つ。茜との結婚を認めること」
あたしは割って入って、その紙を取り上げる。
「…押させない…こんなの、押させたくないわ」
「茜、それは君のためなんだ。返してくれないか?」
「返さない。だって、これに判を押したら、隆紫は今以上に忙しくなるんでしょう?一緒にいる時間が無くなるわけでしょう?だったら…あたしは絶対に認めない。それに、なんでこんな大きいことを黙ってたの?」
「この展開は僕が大学に行く前から読んでいたんだ。そして茜が財産目当てで僕に近づいたわけじゃないと、僕が最後に確認するためと考えて仕込んだうえで黙っていたんだ。騙すつもりだったわけじゃないと、誓って証言する。そして…茜と過ごす時間は今と変わらないよう、死にものぐるいで時間は作る」
「それ…ほんと…だよね?」
「約束する。もし破ったら僕は君の言い分に反対するつもりはない。
まっすぐ見つめてくる隆紫を見たら、こうして邪魔をしている自分がどこか惨めに思えてきて…
「わかった。約束だよ?」
「約束だ。それと、今一枚目しか見てないよね?二枚目を見てごらん」
「え?」
ペラ、と重なっている紙の二枚目に目を落とす。
『なお、次の者は以下のとおりとする。
明先隆紫 専属秘書
この配属は本人の希望を伴うことなく変更する場合は株主総会にて決を取ることとする』
思わず目を疑った。
「これ…」
「言っただろ?おやじとかくれんぼをしている時に僕がしていることを黙っていたのは、茜のためだって」
ニヤリ、と目を細めて不敵な笑みを浮かべる隆紫。
あたしは思わず顔がほころんでしまう。
「これ、ほんとだよね…?」
「一枚目と二枚目でまたいだ割り印をしている。一枚目に判を押せば、自動的に二枚目も有効だ。会計事務所で働いている君なら、この意味がわかるだろう?」
胸の奥からこみ上げてくる感情に、あたしは肩を震わせて…
「うんっ!ほんとに、あたしでいいのっ!?隆紫の仕事に関わらせてくれるのっ!?」
「君以外にはありえない。茜が秘書になってくれないなら、秘書など要らない」
奪った紙を返した。
「隆紫…
「猿楽。あれを」
「畏まりました」
猿楽さんが二つの木箱を手に、そこまできた。
「お前…いつそれを…?」
青慈さんが驚きの顔を見せた。
「前もって本日、この時間だけ重要な判断があるということで、麗白様を通して許可をいただきました」
手にしていたのは、おそらく会社の実印。それも明先財閥のものと、隆紫が作った会社、RMEの…。
「…まったくお前らと来たら…」
青慈さんがまず契約書に判を押す。その表情と声には呆れが含まれていた。
「最後に確認しておく。茜との結婚を認めるか?」
「認める。今度こそ二言はない。むしろその女以外との結婚は認めん」
「わかった」
隆紫が契約書に判を押す。
それはまるで、あたしには婚姻届の捺印にすら見えた。
「それで茜、お前にも押してもらいたいものがある」
「…えっ!?」
隆紫が取り出したのは…
「…これ、婚姻届…?」
「そうだ。もう茜が判を押すだけで書類は完成する」
嬉しい。
やっと、隆紫と一緒になれるんだ。
いつの間にか用意されていた、あたしの印鑑がそこにあった。
「うん、押すよ」
ぐっ
隆紫の名前とあたしの名前が記された紙に、朱い印が二つ並ぶ。
「茜殿、散々迷惑をかけてしまったが、どうか…うちのバカ息子を、よろしくお願いします」
青慈さんが頭を下げてきた。
判子を離した瞬間、その婚姻届は完成していた。
「こちらこそ、末永くよろしくお願いします」
あたしも深々と頭を下げた。
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