第43話:あく・りく(Accept requirement)
週が明けて初の放課後となったが、
明先で働くことをやめさせられたから。
「まさか、後任が
しかし隆紫は内心助かった、とつぶやく。
あのまま
実際に今、体はかなりガタガタになってきている。若さゆえに破綻はしないで済んでいる。ただそれだけだった。
「いろいろと切り崩されてしまった感があるな…」
強硬手段により、一緒に住んでいた茜は実家に戻ってしまい、二人の仲を認めさせるには一度4年ほど海を挟んで離れなければならない。
そして櫟家に対する
明先の上位責任者が集まって決定したものらしい。
「ただいま」
離れに帰るものの、誰もいない。
先週までは、愛する人がいた。
今の状況、つまり茜が側にいなくて明先で働いていない現状は、過去に起きた桜さんの事故が無かった場合に辿った道だったのかもしれない。
けれども、この空虚さだけが違う。
茜と過ごした日々は、隆紫にとっても幸せそのものだった。
夜を待ち、電話機を取り出す。
「猿楽から提案された保険、真剣に考えるか…」
そうつぶやいて、電話をかけた。
「ひさしぶり、
同じ頃、あたしは机に向かっていた。
学校で言葉をかわしはするものの、今のあたしは必死に勉強する必要があって、あまり会話をしている余裕はない。
そこで決めたのが、毎日10分だけ息抜きとして電話をしあうことだった。
決めてから数日だけど、お互いに10分という時間は守っている。
一度でも崩すと、多分ズルズル時間が伸びていってしまい、最後には条件をクリアする気持ちすら揺らいでしまいそうだから。
「絶対に、隆紫と一緒になってみせる」
その気持ちだけが、あたしの背中を押し続ける。
「茜、お夜食をここに置いておくからね。あまり根を詰めすぎないで」
「ありがとう。でも目指してる道を掴むためには、これくらいしないと」
軽く夜食をつまんでから勉強を再開する。
「そろそろ9時か…」
♪♪♪♪♪
きた。
隆紫からの着信音。
「はい、茜です」
「僕だけど、今いいかな?」
「うん、待ってたよ」
「待ってた…って、勉強は
「そんなわけないじゃない。しっかり受験対策してるわよ」
帰ってきてからすぐに勉強を始めて、夜9時に10分だけ隆紫と電話して、0時に寝る生活を続けている。
「それじゃ、また勉強に戻るわね」
「早いな…それじゃまた明日な」
名残惜しいけど、ずっと隆紫のそばにいるため、今は我慢しなければ。
画面に映る着信履歴を少し眺めて、再びペンを手に取る。
「よし、そこまで」
隆紫の声で、あたしは手を止める。
「前より手応えを感じたわ」
週に一度だけ、隆紫に模擬試験をしてもらって、二人で目標の道のりがどこまで近づいているかを確認している。
彼が仕事から離れたからこそできること。
決意した段階ではとても届かない高い目標の進路。
それを成すためにはこれでも少し足りないと思っている。
二人で話し合って、目標に届くボーダーラインと体調のバランスを取った結果がこれだった。
「ちょっと気分転換に出かけようかな」
ある日曜日に、勉強漬けが続いて気分が淀んでいるのを自覚したあたしは、午前中だけ外出してみることにした。
これまでは離れと学校の往復。今は実家と学校の往復。どちらも電車を使うこと必要がないから、駅前はずいぶんと久しぶり。
そういえば隆紫との初デートはここだったっけ。
後ろには
今もガチムキ黒服の官司さんが少し距離をおいて後ろにいるんだけどね。
ほんと、この人は謎ね。
普段何をしてるんだろ。
そもそも隆紫からどんな指示を受けて後ろにいるんだろうか。
「そういえば、もうすぐバレンタインデーだっけ」
街中は朱いのぼりやハートマークをあしらったポスターが溢れていて、どこか浮足立っているような気がする。
「隆紫に買っておこうかな」
去年彼氏に拉致されて以後、ほとんど外に出ることが無かったから、その間に様子がかなり変わっていた。
建築中だった駅ビルが完成して真新しい立派な佇まいを披露しているし、それまでたびたび行っていた服屋が撤退していたし、両親が週に一度の買い出しで使っていたお店は同業他社が居抜きで入ってきている。
「ずいぶん変わっちゃったな、駅前…」
時間を見ると10時半になっていた。
お出かけは午前中だけと決めているから、あまり迷っていると時間が過ぎてしまう。
今の高校は地元民が少なくて、知ってる顔の人で電車を使わないのは隆紫だけ。
といっても隆紫は車で来ているから、数に入らない。
薫は二駅、真弓さんは六駅、
だから駅前を歩いていても、知ってる顔には出会うことがない。
「では、はじめ」
隆紫監修の模擬試験を始める声がかかり、あたしは設問用紙と答案用紙をひっくり返す。
それぞれの分野から出る設問は片手で収まる程度だけど、時間はかなり厳し目に設定されている。
答え合わせをする側、隆紫の都合でこうなった。
静まり返る図書室の中で、カツカツとペンを走らせる音と時計が秒を刻む音だけが支配する空間。
ここにいるのはカウンターに座る図書委員とあたしたちの三人だけ。
「そこまで」
答案用紙が回収されて、採点を始める。
「うん、いい感じだ」
最初は40点程度で推移していたけど、今は70点前後になっていた。
「ありがとう。それと隆紫、これバレンタインのプレゼントよ」
「…そうか、もうそんな時期だったな。ありがとう、茜」
「どういたしまして」
ニッコリ微笑んで、どちらからともなく席を立つ。
「これなら学年末試験も乗り切れるかな?」
「どうかしら。今の試験対策とは違う範囲をやってるから、そっちは手薄になってるかもしれないわ」
「軽口を叩けるということは安心だな」
日が傾き、赤みがかった光が校舎を照らす。
赤みがかった光が廊下に差し込み、うにょんと長い影を作る。
「その…茜…」
「何?」
「前とちょっと、変わったな」
「…最近勉強漬けだものね、仕方ないと思うわ。隆紫とこうして会える機会も減ってるし、ずっと一緒に居られる条件のクリアが重圧になってるから、余裕がないのよ」
とはいえ隆紫にかかる重圧は、あたしの比ではないはず。
何しろこれまで大勢の従業員を抱える取締役として、数字を作らなければならない使命を持っていた。
それでいながらも学校の成績はトップクラス。
一体どれだけの重圧をその身に背負っていたの?
多分、小さい頃からずっとそういう環境に置かれていたんだろうけど、あたしだったら耐えられなかったと思う。
隆紫と同じ重圧に耐えてきたのは
隆紫が
アメリカ…。
あたしが大学に上がったら、彼とは逢えなくなる。
いや、逢うことはできるだろうけど、簡単にはいかない。
距離があまりに離れすぎている。
つまり短くても4年は我慢しなければならない。
「隆紫…」
「なんだ?」
「アメリカに行っても、電話しようね」
「もちろんだ。日本時間の夜9時なら、向こうは朝。僕は起きているはず」
あたしはハッとなる。
「だから夜9時にしていたの…?」
「僕のモーニングコールに丁度いいかもな。朝に茜の声を聞けるんだから、一日頑張れる気力をもらえるだろうし、茜はいい夢を見られるんじゃないかな」
おどけてみせる彼を見ると、あたしは胸が締め付けられる思いに駆られる。
いつでもあたしのことを大切に思ってくれていることを実感した瞬間だった。
「茜、ちょっといいか?」
「何?」
並んで歩くあたしたちが落とす影の塔は、一つになって太く変わる。
カシャッ
彼が構えたスマートフォンのカメラをイン側に変えて、シャッター音が響き渡る。
「これ、送るね」
そう言って、隆紫はササッとメッセンジャーアプリを通して画像を送ってきた。
「距離が離れたとしても、これでいつでも側にいられる」
思えば、こうして写真を撮るのは初めてだった。
付き合い始める前からずっとひとつ屋根の下にいて、付き合い始めてからもずっと側にいた。
こういうケースは極めて稀なんだろうな。
だから写真が無くてもすぐ顔を見られる幸せがこれまで続いていて、写真を共有するという発想が無かった。
少しだけ離れてみて、同じ写真を二人で共有するつながり、ありがたみがやっと分かった。彼氏や彼女の写真を持ちたがるカップルの気持ちって、こういうことなんだろうな。
「うん、嬉しい」
家に帰ってから、もらった写真をプリントアウトする。
姉の写真を立てている写真立ての横に、同じ大きさの写真立てに二人で撮った写真を入れて立てかけた。
「お姉ちゃん、最後まであたしのことを気にかけてくれてありがとう。おかげでこうして隆紫と付き合えて、幸せよ。お姉ちゃんは、こうなることが…わかってたのかな…?」
すっかり薄暗くなった窓の外から差す僅かな夕日が、写真立ての背に突き刺さる。
「勉強は順調かい?」
家族で食卓を囲んで朝食を摂っている。
両親はやっと仕事が落ち着きを取り戻してきて、少なくとも朝は一緒に食事をできるようになっていた。
「うん、週に一回模試してるけど、このままのペースならなんとかなりそう」
「そうか。お金の心配はしなくていい。前に振り込まれた分を全部当ててもまだ余るからな」
そのお金はお姉ちゃんが事故にあった件で、麗白さんが慰謝料と称して両親に振り込んだもの。
後はあたし次第。
絶対に目標の大学をトップクラスで卒業してみせる。
それにしても、
どういう基準で選ばれたのかはわからないけど、これまで
お母さんは
「行ってきます」
隆紫と一緒に暮らす前は当たり前だったこの光景も、実家に戻ってから感じた違和感が少しずつ消えてきた。
けど愛する人といつも一緒にいられることがどれだけ幸せなことだったのかを思い知らされる。
やっぱり、隆紫といつまでも一緒に過ごしたい。
そのためには今目指している大学に合格して、隆紫のお父さんに認めてもらう以外ない。
けどその前に大きな試練が待っている。
隆紫の顔を見て、肌で触れる時間が奪われる。
あたしに耐えられるんだろうか…。
「おはよう」
教室に入って、いつもの光景を見て安心するけど、隆紫と逢えなくなる刻限が迫っていることに、どうしても不安がこみ上げてくる。
後悔だけはしたくない…。
彼と相談して、一日デートする時間を作ろう。
「ねえ隆紫、ちょっといいかな?」
「いいよ。話しやすいところへ行こうか」
何かを察したのか、教室を出ていく。
「それで、今度はどうした?」
人影が少なくなったところで、足を止めて聞いてきた。
「うん、隆紫って来年海外に行っちゃでしょ?」
「いつになるかはまだわからないけど、遅くても来年だな」
「だから何年も離れちゃう前に、今の内に思い出を作っておきたくて…だから、デートしたいな」
「茜もずいぶん根詰めて参っているしな。息抜きも必要だろう。早速だけど次の日曜はどうだ?」
思わぬ提案に、あたしの顔が「ぱあっ」と緩んだ。
「うん!約束だよっ!」
意外だった。『今のペースだとそんな時間はない』と言われても仕方ないと思っていたけど、あっさりと提案を受け入れてくれたことが。
「やっぱり、茜には笑顔でいてほしい」
ほわっとした優しい微笑みをあたしに向ける。
「隆紫、話がある」
屋敷に帰った隆紫は、前触れもなく父に呼び出された。
「嫌な予感しかしないな…」
二人は母屋の客間に入る。
「おやじ!僕と茜をどうして引き離そうとするんだっ!?」
「お前は大事な儂の後継者だ。女などにうつつを抜かしている場合ではない。儂の跡を継いでからは好きにすればよい」
ギリッ…
歯噛みする隆紫の口から、軋みの音がこぼれ出る。
「二人が条件を満たすまで、逢うことはもちろん電話やメールなど、一切の連絡を禁止する」
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