第42話:でみ・るみ(Démission remise)

「おはよう」

あかね、おはよう」

 リビングで朝食を摂っているお父さんとお母さんが挨拶に応える。

 今日からいつもと違う日常が始まった。

 いや、本来あるべき日常と言ったほうがいいのだろうか…。

 昨夜は隆紫りゅうじが珍しく激怒していた。


「何だよ…これ…」

「わからない。玄関マットもわずかにズレてたから、玄関から運び出したのは間違いないと思う。それに…」

 あたしはドアに仕掛けていた紙切れを手に取る。

「これをドアに挟んでおいて、開けたら分かるようにしたんだけど、あたしが帰ってきた時点でこれが床に落ちてたから、出入りされたのは間違いないわ」

「くそっ!」

 隆紫は短く悔やむと、母屋への渡り廊下へ進んでいった。

 あたしも事情を知りたくてその後をついていく。

「おやじはどこだ?」

 通りかかった使用人に、余裕のない口調で強く迫った。

「はっ、はいっ!今は書斎におられます…」

「わかった」


 コンコンコン


「誰だ?」

「入るぞおやじ!」

 荒々しくドアを開け放つと、返事を待たずに書斎に踏み込む。

「どうした?」

 悠然と机に向かっている一人の男が振り向きもせずに問いかける。

「どうした、じゃない!何のつもりだっ!?」

「ものを尋ねる時は主語と述語をしっかりとつけよ。そうでなければ伝わらんぞ」

「茜の部屋を見た!なんで断りもなく家財を運び出したと聞いているんだっ!」

 きぃ、と椅子を振って体をこちらに向けた。

「なんだ、そんなことか。親心と思ってもらおう」

「何が親心だっ!?子を無視して勝手なことをするのが親心なのかっ!!?」

「今からそれでは先が思いやられるな。ふたりともこれから少なくとも5年は会えなくなるというのに」

 えっ!!?

 5年は会えなくなるって…?

「隆紫、どういうこと…?」

「まだ聞いていないのか。将来この財閥を背負っていく身としてはあまりに動きが遅いのではないか?隆紫よ」

「黙れ…」

「黙ってよいのか。なら何も答えんぞ」

「僕はいくら冷遇されようと構わない!だが茜をないがしろにすることだけは許さないっ!!」

「やれやれ、こうも些細なことで冷静さを欠くようでは実に先が思いやられるわい」

 肩の高さで手のひらを上にして、首を左右に振る。

「答えろっ!なぜ茜の家財を勝手に運び出したっ!?」

「こんなやりとりをしている余裕があるというのか?隆紫、お前はアメリカにある指定の大学を主席卒業、そして茜くん。君は国内の指定されたいくつかの大学からどれかを選んで入学して10位以内で卒業することが二人の仲を認める条件だというのに」

 ………何よそれ…聞いてないわよ…。

「隆紫…」

「すまん茜。今夜話そうと思っていたことなんだ…」

「儂は忙しい。話が終わったならさっさと出ていくがよい。運び出した家財は櫟家に送ってある」

 ギッと睨みつけて隆紫は部屋を出ていく。

 ぺこり、と会釈してあたしも続いた。


 離れのリビングに二人で向かい合う。

「茜、気分を悪くさせてしまって申し訳ない。仕事中におやじが突然電話してきて、茜と別れろと言い出してきたんだ」

「なんで…急にそんなことを…」

「わからない。それでおやじと話したんだが、僕と茜の仲を認めてほしいなら、と条件を二つ突きつけてきた」

「それが…隆紫はアメリカの指定大学主席卒業…あたしはいくつかの大学を一つ選んで10位以内で卒業…?」

 隆紫はこくんと頷いて、目線を落とす。

「もし、それを満たせなかったら…?」

「別れさせられる…だろうな」

「そんなの嫌だよっ!」

「僕だって嫌だ。今更茜と離れるくらいなら、死んだほうがいくらかマシだ」

 シーン、と二人の間に静寂訪れる。

「それで、隆紫はその条件を飲んだの?」

 再びこくんと頷いて、口を開く。

「指定された大学の入学手続きはもう締め切りが近かった。迷っている暇はなかったんだ。条件を蹴れば別れさせられる。だったら選んでる余裕なんてない。必ず主席卒業をして、嫌でもおやじに認めさせる。そう決めたんだ」

 隆紫は、本気であたしのことを考えていてくれている。

 だったら…あたしも本気でぶつからなきゃ。

「…事情はわかったわ。ならあたしもその話に乗るわ」

「すまない。僕の家族が迷惑をかけてしまって…」

「いいわよ。一緒に過ごすなら、お互いの家族が同意しなければいろいろとやりづらいでしょ。それが早いか遅いかの違いだったという話よ」

 お互いに決意の眼差しがぶつかる。

「そうと決まったら、あたしはここを出ていくわ」

 席を立って、玄関へ足を運ぶ。

 隆紫も玄関へ見送りに来る。

「茜…」

「大丈夫よ。あたし、負けない!絶対にあのわからず屋の頑固おじさんにギャフンと言わせてあげるわ」

「そうなったら、僕もうかうかしていられないな」

「ここで過ごした時間は、とても幸せだったわ。ずっと一緒にいるため、あたしがんばるから」

「うん、逢えない時間が長くなるけど、僕も我慢するよ」

 二人で見つめ合って、どちらからともなく口づけを交わして、離れを後にした。


「で、茜は勉強べんきょー一筋になったとゆーわけね?」

「うん。絶対に見返してやるんだから」

 事情をひととおり話したかおるが、感心半分呆れ半分といった顔で聞いてきた。呆れ半分なのは、話を聞きながらもテキストの問題に取り組んでいるから。

「ふたりとも条件クリアしないと意味ないんでしょー?」

「そうよ。だからここからはあたしたちそれぞれの戦いよ。一日たりとも気を抜けないわ」

 あたしに対して指定された大学は、どれも今の学力ではB判定と微妙な位置だった。

 更には進学できたとしても、学年10位以内というハードルもある以上、手を緩めていられる時間なんてない。

「で、あっちもかー」

 隆紫も同じく脇目も振らず勉強に取り組んでいる。

 とはいえ隆紫はいつも成績上位で、あたしが肩を並べられるような人じゃない。

 つくづく、すごい人と付き合っているんだと実感する。


くぬぎさん、本当にこの大学を目指すの?」

「はい。決めました」

 進路指導を受けた時の開口一番はこれだった。

「このままでは足切りすら超えられないけど、本気ですか?」

「本気です」

 はあ、と軽くため息をつかれた。

 今のあたしがどの合格確度なのかはよく知っている。

 あと一年で合格ラインまで這い上がる必要があることもよくわかっている。

「これを目指すなら、一年の時点で準備をしておかないと…」

「わかっています。残り一年足らずですが、絶対に合格ラインまで追いつく覚悟で勉強時間を確保しています」

 ひた、と見つめるあたしの目を見て、指導教諭がわずかに怯む。

「本当に死ぬ気で向かい合わないとならないけど」

「死ぬ気はありませんが、今のあたしはそこの合格を目指して何もかも犠牲にするつもりでいます」

「………そうですか。そこまでのやる気なら、後はあなた次第です。これで進路指導を終えます。お疲れ様でした」

「はい、失礼します」


 進路指導は散々な言われようだったけど、予想の範囲だった。

 一方、隆紫は…普通に登校している。

 話によると、3月の試験までは普通にしているらしい。

 それ以後はどうなるか、まだ聞いていない。

 それよりも今はあたしのことだ。

「茜の成績せーせきは上の下あたりだったよねー?」

「そうね、それくらいよ」

「今から上の上まで登らなきゃならないわけねー」

「それだけじゃ足りないわよ。ここを主席で出るくらいの勢いが必要なの」


 ただがむしゃらに勉強してもダメなことがわかっている。

 隆紫の離れから実家へ帰った後、指定されたいくつかの大学を見て、その合格確度の計算をしたけど、どれも今のあたしでは全く話にならないことがわかった。

 そこで一番確度の高い大学を見つけて学部も選んだ。

 もし途中でもっと上の大学を狙えるなら、と同じ学部がある大学もリスト化している。

 指定された大学5つの内、3つが該当した。

 まず狙うは一番合格確度の高いところ。

 それでも今から届くかはあたし次第。


「どうだ?やっていけそうか?」

 ふとかけられた声は、隆紫だった。

「やるしかないでしょ。あたしも本気を見せなきゃ、あなたのお父さんは納得しないのはわかってるわ」

 ペンを置いて、隆紫の目を見る。

「そういう隆紫はどうなのよ?」

「手続きは間に合いそうだ。ただ3月までは試験の準備…つまり試験対策をする」

「仕事と両立できるの?」

 いつも忙しそうにしていて、放課後になるとすぐ明先本社に向かって、帰ってくるのはいつも夜。

 あの無茶な条件が無ければやっていけると思うけど、余計な過負荷がその両肩にかかると思っただけで、重圧に押しつぶされるんじゃないかと心配になってくる。

「これまでだってやってこられた。なんとかなるさ」

「でも、もう償いは十分でしょ?」

「一度引き受けたんだし、僕は姉から引き継いだ計画を引き受けたんだから、今は償いや情けといったこととは関係なく、社員の生活を守るために続けなければならないんだ」

 そう…だよね、言われてみれば。

 だからあたしも、隆紫と肩を並べて歩んでいけるように進路を決めた。

「それに、今の仕事は君の生活にも関わってくるんだから、途中で放り出すなんてとてもできないよ」

 ほんとに隆紫は、責任感が強くて、決めたら一直線に進んでいく。

 そのせいで、あたしは最初の頃さんざん意地悪されたんだけどね。

 姉の遺言が無かったら、あたしはずっと隆紫と心を通わせることなんてできなかった。

「あの条件を満たせなくて離れるのは嫌だけど、無理はしないでね」

「茜こそ、条件を満たしたと思ったら、無理がたたって病にせっていたなんてことにならないようにね」

「うん。わかってる。それじゃあたしはもう少しがんばるから…」

「ああ」


「ところで茜、どーしてあんな条件じょーけん出されたんだろーね?」

「ん?」

 薫が聞いてくるけど、あたしは勉強を進めつつ耳だけ向ける。

「あたしたちの本気度を確かめるためじゃないのかな」

「どーせできないと思って無理な条件じょーけん出したって可能性かのーせーもあるんじゃないかなー」

 あたしはその意見を聞いてハッとなる。

 思わずペンを持つ手が止まった。

「…だったら、あたしも留学させるくらいの無茶振りをしてくるんじゃないかしら」

 余計なことを考えないように、手を動かし始める。

「薫、ちょっといいか」

「ん?茜ー、ちょっと行ってくるね」

 隆紫に呼び出された薫は教室を出ていく。


 呼び出された薫は、少しして戻ってきた。


 これといって何もなく放課後。

「猿楽、出せ」

「かしこまりました」

 いつものとおり、隆紫は迎えの車に乗って明先本社へ向かう。

「坊っちゃん、勉強と仕事の両立はできそうですか?」

「僕を誰だと思っている。どちらも手を抜かない。茜と一緒に居続けられるなら、どんな無理難題だろうと乗り切ってみせる」

(だが、前に猿楽が提案してきた保険は、真剣に考え始めなければならないかもしれない)

 言葉にしないで、頭の中だけで呟いていた。


 バム!


 重苦しくしっかり閉まったドアを背にして、正面玄関へ回る。

「隆紫様、お疲れさまです」

 正門の警備に声をかけられた隆紫はいつものとおり

「ああ、お勤めご苦労」

 と返事する。

 ここでは明先という名は何人かいるため、下の名前で呼ぶことになっている。

「隆紫様、代表の青慈せいじ様がお呼びでございます。自席へ向かう前に話を聞きにお運びなさいませ」

「わかった」

 ゲートの手前にあるインフォメーションカウンターから伝言を受け取る。

 猿楽を隣に従えてセキュリティゲートを通り抜けた。

「猿楽、話は何だと思う?」

「おそらく坊っちゃんの予想どおりかと…」

「…そうか」

 エレベーター前で問いかけるも、とうとう来たかと軽くため息をついた。


 コンコンコン


 無駄にでかいドアをノックする。

「入れ」

「明先隆紫、入室します」

 いつも隣にいる猿楽はエレベーターホールで待っていた。

 チラリとそっちに目線を送り、彼は軽く会釈する。

 いってらっしゃいませ、という意思表示だ。

「呼び出しの用事とはなんでしょうか。仕事は山のように溜まっているので早く席に戻りたいのですが」

 家の時とは態度が違う。

 このあたりはしっかりと立場をわきまえて物腰を変えている。

「隆紫、辞令だ。受け取れ」

 差し出された茶封筒の中身を見なくても、その内容は見当がついている。

「引き継ぎ期間はどうなっている?」

 中身を見ることなく問いかける。

「今日含め三日だ」

 やはり…その辞令か…。

 封を破り、そっけない辞令書に目を落とす。


---辞令---

 明先隆紫殿

 上記の者はこの辞令受領から三営業日以後から以下のとおりとする。

 解任:明先ロジスティクス取締役

 所属先:なし

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